個人やグループのセラピーやセミナーにご参加ただいた方、ハミングバードに関わってくださった方みなさま、このホームページのブログを読んでくださっている方みなさま、今年も一年、ありがとうございました。
来年も、必要としてくださる方のお役に立てるよう、最善をつくしたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>
それでは、どうぞ、よいお年をお迎えください。 (Chika)
お問合せ: 019-681-2268 (完全予約制です。ご予約の際は、留守電にご連絡先を残していただくか下記お問い合わせフォームよりメールでご連絡ください。)
☆営業時間:9時~18時 定休日:第二、第四土曜、日曜、祝日
再案内です。(残り一枠になりました。)
下記の通り、東京で、心理カウンセリングの個人セッションを行います。
☆日時:2015年1月22日(木)
☆場所:目黒駅から徒歩1分(ご予約いただいた時点で、詳細をご案内いたします。)
☆料金:1時間半 15,000円(東京出張料金となっております。)
☆セッション枠
①11:30~13:00 (ご予約済み)
②13:00~14:30
③14:30~16:00 (ご予約済み)
ご希望の方は、ご予約フォームより、お名前、ご連絡先、ご希望のセッション枠をご記入の上、ご連絡ください。 (Chika)
虐待された子供にTAT(Thematic Appreciation Test=絵を見せて、自由に読み解いてもらい心理を探るテスト)を行うと、それがどんなに穏やかでなにげない場面の絵や写真であっても、残酷で悲劇的な結末のストーリーを描き出すのだそうです。
これは、虐待された子供にとって世の中は、どこに危険が隠れているかわからない恐ろしい場所であり、彼らには見るものすべてが災いの種に映る、ということを示唆します。
子供時代、愛と慰めに満ちた安全な家庭で育つことは、健全な心を持った大人になるために大変重要なのですが、残念ながら現実はそうはいかない場合が多いようです。
私がアメリカで受け持っていた何百人ものクライアントさんは、その大半が不幸な子供時代を経てきており、少なくとも半数はなんらかの虐待やネグレクトを受け、近親相姦やレイプ、親に銃を突きつけられる、親がドラッグ中毒で満足に食べ物も与えられない、里親を10軒以上転々とするといった、ひどいケースは日常茶飯事でした。
自分ではまだ何もできない幼児期に、基本的欲求を満たしてくれ、呼べば助けてくれ、心が傷ついたら愛を持って気持ちをなだめてくれる大人が、もし周りに一人でもいれば、その子供は大きくなって、
「困難な状況に遭遇してもなんとかなるものだ。人生を思うとおりに変えて、切り開いていく力を、自分は持っている。」
という、自己信頼を抱き、自己コントロール力を持てるようになるでしょう。
自分の意志や欲求に沿って反応してくれる大人が周りにいるということは、周囲の環境と共鳴して生きるということで、これを経験した子供は、たいてい、自己認識力や共感力を身につけ、人と調和し、社会に適応して生きていくことができるようになります。
けれども、虐待やネグレクトのある環境に育ち、自分の基本的欲求や感情的なニーズが満たされず、親または世話をしてくれる大人が自分に合わせてくれない場合、子供は周りの大人の「子供はこうあるべき」という概念に自分を合わせる以外なくなります。つまり、大人のニーズに自分を合わせることになり、これによって、「ありのままの自分ではいけないのだ、自分はどこか間違っているのだ」という観念を抱くようになるのです。
虐待された子供は、周りの人たちの声や表情にとても敏感ですが、それに共鳴するというより、そのサインを脅威とみなして反応する傾向があります。そのため、虐待された子供は、防衛的になったり怯えたりしやすいといえます。そういう子供は、やがて、強いふりをして内心の恐怖感を隠すようになったり、心を閉ざしてコンピューターゲームに一人で没頭するようになったりすることがあります。
回避型愛着(avoidant attachment)と呼ばれるタイプの幼児は、母親がいなくなっても泣かず、戻ってきても無視して、一見、何が起こっても知るもんか、というそぶりを見せます。けれども、実際のところ、子供の身体の方は過覚醒(神経過敏で緊張が高まっている)状態にあります。このタイプの子供の親は、子供を触ったり抱いたりするのを嫌がる傾向が強いようです。回避型愛着タイプの子供は、学校に行くようになると、しばしばいじめる側にまわり、大人になってからも、自分や相手の気持ちに無頓着である場合が見受けられます。
不安型愛着(anxious attachment)、またはアンビバレント愛着(ambivalent attachment)と呼ばれるタイプの幼児は、泣いたり、わめいたり、しがみついたりして、常に自分に注意を引こうとします。母親の姿が見えなくなると非常に取り乱しますが、かといって母親がそばに戻ってきてもあまり満足しません。不安型愛着タイプの幼児の不安傾向はしばしば大人になっても継続し、学校ではしばしばいじめられる側(=犠牲者)になります。
上記の二つの愛着型に加えて、世話をしてくれる大人自体が自分に苦しみや恐怖をもたらす原因である場合、子供は混乱型愛着(disorganized attachment)という第三タイプに分類されることがあります。
混乱型愛着の子供は、生きるために依存しなければならない相手が、同時に身を脅かす危険な人物であるというジレンマに置かれます。逃げることもできず、つながることもできない、という手立てのない状態にあるわけです。結果として、誰が安全で誰に愛着を示していいかわからないこのタイプの子供たちは、知らない人に過度に愛情深く接したり、または誰も信じなかったり、といった極端な愛着のしかたを見せるようになります。
混乱型愛着を引き起こす要因はなにも虐待ばかりではありません。親自身が、家庭内暴力やレイプ、深刻な喪失などのトラウマを抱えている場合、自分の感情が不安定なために、親は子供と向き合って安定した保護や慰めを与える場合ができないことがあります。親が感情的に引きこもってしまい、子供のニーズにこたえられない場合、しばしば役割の逆転が起こり、子供の方が親のニーズを満たそうと懸命になります。こうして親の世話をせざるを得なかった子供は、大きくなってからしばしば自分や他者に対して攻撃的になり、自分や人を傷つけるようになることがあります。
ここまで書いてきて、自分の子育てに不安を覚えた親御さんがおられるかもしれませんが、理想通り完璧な子育てができなくても、基本的部分で愛情がありさえすれば、子供は親と適切なつながりを維持し、ちゃんと育つものなので、大丈夫です。感情にまかせて怒ったり、思い通りに世話をできないことが時々あったとしても、本当は愛するわが子にそんなふうにしたくなかった、という思いがあれば、子供が親に対する信頼を失うことはありません。第一、「理想通りの完璧な子育て」というもの自体、存在しないものです。誰しも、時折迷ったり後悔したりしながら、子供を育てているのではないでしょうか。
また、仮に、虐待やネグレクトにあって、辛い子供時代を送ったとしても、その後社会に出て、愛のある経験をしたり、あるいは本人の生来の資質が優れている場合、心の傷を自ら癒やして、健全な心をもった大人へと成長することは十分可能です。私はそういう人たちをクライアントさんの中に少なかず見てきたので、苦境を乗り越える人間の力には、絶対的な信頼を抱いています。
(参考文献:Van Der Kolk, B. (2014) The Body Keeps the Score. New York: Penguin Group)
(Chika)
ニューメキシコ州で撮った、ダブルレインボーです。ニューメキシコに住んでいた時は、空が広いから、雨上がりにはだいたいどこかに虹を見つけたものです。
先日、久しぶりに旧友とお茶をしました。
私が長年勤めた職場を辞めて、子育てのカウンセラーとして働いていることを話したら、彼女は唐突に「やっぱり、父親って可哀想だよね。」と呟きました。
彼女は、父親が癌と宣告されてから、亡くなるまでのことを振り返っていました。
父親が癌であることを聞かされた時は、ショックで何とかしてあげたいと思い、思い出をたくさん作ろうと旅行に連れて歩いたり、ドライブに連れ出したり、癌に効くサプリメントを探してはプレゼントしたり、一生懸命だったと。でも、小さい時から感じていた身勝手な父親という感覚が拭い去れなかったので、身の廻りの世話をやいたり、父親の不安を聞いてあげようという気持ちにはなれなかったと。
彼女は小さい時から母親の愚痴の聞き役であり、愚痴の半分は、父親に対するものであった。だから、父親は身勝手な人という感覚が彼女の中に住みついたのだ。父親が癌になってからも、それは変わりなかった。
父親が亡くなってからは、彼女は母親を支えるために今まで以上に重要な立場を担っていった。毎日毎日、泣きながら夫との生活を振り返り語る母親の傍に居続けた。
それは、彼女にとっては、小さい時から習慣なので全く苦痛ではなかった。むしろ、話を聞いてあげることで、母親が元気になっていくのを実感でき、彼女の安心にもつながっていた。
ただ、一つだけ、母親を恨みたくなる時があるそうだ。それは、彼女の知らない家族思いの父親像が、母親の口から語られた時だ。思い出は美化されると言うけれど、実は、いい父親で、いい夫であったエピソードが語られると、彼女は、親身に介護してあげれなかった自分を責めるのだそうだ。
彼女にとって、父親はどこか遠い存在で、二人の関係はぎこちなかったそうだ。自分の弱みを見せることもなかったし、父親も同様だった。何処となく、心の距離を感じていたという。だから、彼女の父親像は自分が目で見て感じた父親像ではなく、母親から聞いた身勝手な父親像だったのだと亡くなってから気付いた。そのことがとても悔しいと。
彼女の話をひとしきり聞いた後、私もつい「なるほど、確かに、父親って可哀想だ。」と呟いた。
でも、ありがちな話だ。
まして、彼女の祖母は格式高い家の生まれなので、嫁である母親にはかなり厳しかったらしい。彼女の母親は、辛い気持ちを外で話すこともできずに、優しい気持ちを持った彼女に話すことで支えられてきたのであろう。
それにしても、亡くなった後で、覚える後悔の念は、かなり辛いものがあるだろう。
さらに、彼女は言った。
「だからね、私は、子どもにはお父さんのいいところをいっぱい話すようにしているんだ。絶対、愚痴は言わないの。そしてね、子どもに相談された悩みのうちね、肝心要な相談事はね、直接お父さんに相談するように言うの。そうすれば、お父さんと子どもの心の距離が近くなるでしょ。結果、いざ、夫が介護が必要になった時、子どもにちゃんと看取られるだろうし、子どもも後で後悔することないでしょ。」と。
私は、ずっと感心して聞き入っていました。そして思いました。
彼女は強い。そして、優しい。後悔の念を抱きつつも、母親の辛さを理解し、その経験を自分の子育てに生かしている。素敵なお母さんだ。その素敵なお母さんを育ててくれた彼女の両親もまた素晴らしいと。
(佐々木 智恵)
危険が差し迫ったとき、私たちの身体は、頭で考えるより先に、ストレス・ホルモンである、アドレナリンとコルチゾールを分泌します。この働きによって、心臓は血液をたくさん分泌するためにドキドキと早く打ち、酸素をたくさん体に取り入れようとして呼吸も早くなり、体の筋肉はぎゅっと収縮して固くなります。つまり、次の瞬間、体が素早く動いて、戦うか逃げるかして、危険から逃れるための準備を、身体が自動的にしてくれるわけで、これを「戦うか、逃げるか反応(fight or flight response)」といいます。このとき、私たちの意識は脅威を与える源に最大限に集中し、それ以外の情報はシャットダウンします。
戦うか逃げるか反応が起きている時は、理性や社会性を司る新しい脳が働かなくなり、動物的な古い脳が活性化します。なので、誰かと愛想よくしゃべったり、笑いあったりといった、社交的な関わりはできなくなります。
心身が強い脅威に脅かされ、トラウマが残ると、危険が過ぎ去った後でも、体がこの危機モードになったままの状態になります。そうなると、人は、自分の周りを取り巻くあらゆるものに危険を見つけ出そうとして、常に目を凝らします。そして、敏感すぎる火災警報装置のように、どんな無害な環境にでも、誤作動を起こして、過剰に反応します。
先ほども触れたように、この状態では、古い脳が優勢であり、社交性や共感力を司る新しい脳が不活発なので、人との交流も上手くいかなくなります。人との関わりを楽しむためには、安全や安心を感じ、心を許すことが必要なのですが、常に見えない危険にさらされている(と脳が認識している)状態では、周りの人々=敵である、という意識がどこかにあるので、心に防御壁を張り巡らせてしまうことになります。こうなると、当然、人と深いレベルでつながることができなくなり、対人関係にも支障をきたしてしまいがちになります。
ここまで、戦うか逃げるか反応について書いてきましたが、実は、危険にさらされたときの反応は、戦うか逃げるか以外に、もう1つあります。
それが、「凍りつく」という3つめの反応です。
歩いている虫を手で触ったとき、びっくりした虫がひっくり返って、死んだようになり、しばらく動かなくなるのを見たことがあるでしょうか。あの反応が「凍りつく」です。あの状態は、死んだふりをしているのではなく、本当に体が硬直して、意識を失っているのだそうで、死んだと思わせて敵をやり過ごすためだとか、余計なエネルギーを消耗しないで済むための省エネモードだとか、死の痛みを感じさせないために起こるとか、言われています。
ただし、虫や動物なら、ひとたび危険が去ると、凍りついた状態から比較的すぐに立ち直って、何事もなかったようにまた活動できるのですが、人間はなかなかそうはいきません。
この「凍りつく」という反応が起こるとき、人は絶望感に襲われ、無気力になります。
脅威を与えるものと戦ったり逃げたりして、自分でなんとか身の安全を取り戻すことができるなら、まだ、自力で状況を打破できるというので、人は通常、無力感には囚われません。そもそも、戦うか逃げるか反応は、エネルギーが活性化されるので、一時的にパワーがみなぎった状態です。絶望や無気力とは正反対の状態です。
けれども、もしどうやっても恐ろしい危険から逃れることができないと判断すると、人は戦うことも逃げることもあきらめて、何もしなくなります。この時、意識は、痛みを感じたくないあまり、外からの感覚を遮断し、外界と関わることをやめてしまいます。つまり、解離を起こすわけです。これは日常的に虐待された子供が、よく取る手段です。体は現実世界から逃げることができないので、意識だけ体から離れてしまうのです。
この状態にある人は、痛みも感じにくい代わりに、喜びや幸せを感じることもできなくなり、鬱状態に陥りやすくなります。現実を感じないよう、感覚を制限しているということは、五感を通して、「今、ここ」にあるものをフルに味わい、楽しむことができないということであり、生き生きと生きることができない、ということを意味するからです。
さて、ここまで、危険に際しての3つの反応、「戦うか、逃げるか、凍りつくか」ついて書いてきましたが、これらの反応を起こしている時、脳がどのような状態になるかを明らかにした、興味深い実験があります。
この実験は、カナダで87台を巻き込む大規模な交通事故に遭遇し、悲劇的な状況をなすすべもなく目撃したのちに助け出された、一組の夫婦に対して、同意のもとに行われました。この夫婦に、事故の光景を思い浮かべてもらい、その間の脳の状態を調べたのですが、結果として、彼らの脳波はそれぞれ、とても顕著な様相を示していることがわかりました。
今に生きることできず、生を楽しむことができない、という点においては、フラッシュバックに苦しみ、戦うか逃げるか反応にとどまってしまっている人も同じということなのです。フラッシュバックそのものが、現在から過去への解離現象だからです。
これに対して、妻の方の脳は、全体的に不活発で、どこも動いていない、文字通り真っ白な状態。つまり、意識が体から解離して、離人症を起こしてしまっていました。妻の方は、幼いころのトラウマを、いつも解離して逃避することでやり過ごす癖があったため、古いパターンを繰り返していたのでした。
ちなみに、この夫婦は、後に適切なセラピーを受けて、お二人ともトラウマを克服されたそうです。
以上からもわかるとおり、トラウマというのは、「出来事そのもの」ではなく、「出来事によって引き起こされた身体反応がもたらした知覚」です。
トラウマの言語は、言葉ではなく、感覚です。身体に染みついた感覚をいかに削除し、「それはもう終わった。今はもう安全だ」という情報を、身体に新たに覚えさせることができれば、トラウマは克服できる、ということなのです。
トラウマについては、機会を見て、続きをまた書きたいと思います。 (Chika)
新しい職場で、みんなと何をしゃべっていいかわからない、緊張して身構えてしまう。周りに溶け込めなくてつらい、という方が時々いらっしゃいます。
そんなとき、私なら、何もしゃべりません(笑)。
話したいことが自分の中に自然にわいてこないのに、無理に話そうとしても、その心地悪い思いが相手に伝わって、相手も居心地が悪くなるだけだから。
私は、自分の中に、本当に発したい思いが浮かんだときだけ、相手に話かけます。(まあ、歳を経るごとに、無理に人に合わせようと思わなくなってきたし、人にどう思われてもあまり気にしなくなってきたので、それができるというのもありますが。もっと若いときは、無理に話そうとして失敗したことも、結構あったような(-“-)。)
新しい場所で、新しい人たちと接するとき、なぜ緊張して言葉が出てこなくなるかというと、人に好かれなきゃ、嫌われないようにしなきゃ、という思いが裏にあるから、ということが多いように思います。
みなさんは、「この人に好かれなきゃ、嫌われないようにしなきゃ」という意図をもって話しかけられるのと、純粋に自分に興味を抱いているから話しかけられるのと、どっちがうれしいですか。
前者は、結局、意図が自分中心なので、相手の心にまっすぐ響きにくいんですね。
本当にこの人と仲良くなりたい、と思うなら、その人に対して、興味がある、ということですね。
興味があるなら、その人のことをいろいろ知りたいと思うでしょう。
初対面の人と話すとき、何をしゃべっていいかわからないときは、その人にいろいろ質問をすると、うまくいくことが多いです。
例えばですが、
「どちらのご出身ですか」
「へ~。〇〇県ですか。行ったことないなあ。どんなところですか。」
「この町と、生まれた町と、どっちが好きですか。どんなところがですか?」
等、イエス・ノーで答えられるクローズド・クエスチョンではなく、話が広がるオープンクエスチョンで質問し、相手の答えには関心を示しながら聞いてみる。
関心を持って話を聞いてもらえるのって、ふつう、誰でもうれしいものなんですよね。(よほど何かトラウマがあって、対人恐怖が強い人とか、被害妄想がある人、特に不安が強い人などは別ですが。)
うれしいときって、心が開くんですね。だから、こういう会話の仕方をすると、相手の心は開きやすくなる。
かつ、人って、自分に好意を持ってくれる人のことを嫌いになるのは、とても難しいんですよね。だから、純粋な好意と関心を示しながらこういうふうに話しかけてくる人に対しては、相手も心を許しやすくなるというわけです
私自身は、内向的な性格で、誰にでもそつなくペラペラ話かけられる話術は持ち合わせていないのですが、好奇心だけは強い方なので、初対面の人にでも、なにかしら興味を持って、話を聞くことができる方だと思います。
なので、何を話していいかわからない、ということは、あんまりないかな、と思います。(とか、偉そうに言っていますが、考えてみると最初からそうだったわけではなく、人の話を聞くのが仕事なので、経験で培ったって部分も多々あります(^_^;)。)
後、コツとしては、やっぱり、先に書いたように、何を話していいかわからない、言い換えるなら、自分の中に純粋に表現したい何かがまだ生まれていないのに、何か話さなきゃ、と、無理に頭をひねって話そうとしない。つまり、作為的に人に接することはしないで、自然体でいるということ。「~しなきゃ」という義務から会話するのではなく、「~したい」という自然な欲求に、できるだけ忠実でいるということかな。
そのほうが、変に力が入らないで、リラックスして自然なコミュニケーションができるので、結局、自分も相手も居心地良くいられる空間を作ることができるのだと思います。
(Chika)
最近、とても気になることは、子どもを叱れない?叱らない?親御さんが目に付くようになってきたことです。
子どもが道徳的に良くないことをしても、見て見ぬ振りをする、あるいは、それが良くないことと認識していないかのように、黙って見ている、一応、叱っているようだが、子どもの耳に入っているのかいないのか、無視されてしまうなど、色々なパターンがあるようです。
いずれにしても、親御さんは、道徳を教える役割を捨ててはいけません。
赤ちゃんは、首がすわる前は、天井ばかり見えていましたが、腹ばいができるようになると床周辺が見えてきます。子どもが集まる場所に連れて行けば、自分と同じような小さな人間(=子ども)が視野に入ってきます。
お座りをする頃には、その小さな人間に(=子ども)気づき始めます。
子どもが、自分以外の子どもに気づき始める頃から、おそらく、親御さん方は、無意識に躾をし始めているでしょう。向かい合ってお座りしている子ども同士で、相手の目や口など動くものに興味を持ち、触ろうとすると、おそらく、親御さん方は、「イタイイタイだからダメよ。」などと言うでしょう。
このようなことを繰り返して、小さい時から、良いは良い、悪いは悪いと伝えていくことは、親の役割です。
大きくなると、自我が芽生えますから、自分の感情や感覚、思考により、わかっていながらも道徳に反した行動をとる時があります。それを親に注意された時に、反発、無視し続ける場合があります。
このような場合、親子の関係性を改めて振り返った方が良いでしょう。
様々な原因がありますが、その一つに、小さい時に、きちんと良いは良い、悪いは悪いと教えてこなかったということがあります。自我が芽生えてから急に教えても、道徳を教えるという関係が親子間に元々のないので、子どもにしてみれば、「今まで叱らなかったのに、急に何言ってるの?」という感じでしょう。
「褒めて育てよ」「子どもと同じ目線で」「ちゃんと認めましょう」などなど子育てのキーワードが世に溢れていますが、意味を履き違えないように気を付けましょう。
(佐々木 智恵)
1. 誰かが幸せにしてくれるのを待っている。
2. 不幸を自分以外の誰かのせいにする。
3. 時間やお金や交友関係について、「もし~さえあれば」という言葉を、ことあるごとに使う。
4. 自分が持っているものと人が持っているものを比べる。
5. いつも深刻である。
6. 常に全責任を背負い込む。
7. いつも、あらゆる人を喜ばせようと努める。(決してノーといわない。)
8. 人を助けるが、人に助けてもらおうとしない。
9. 自分の欲求を重要視しない。
10.人にほめられても信じないで疑う。
11.人の言葉を大げさにとる。
12.いつも冷静で恰好よくいようとする。
13.変化に徹底的に抵抗する。
14.完全無欠でいようと頑張る。
15. いつも過去か未来に生きている。
(Chika)
「私たちの苦しみの最大の原因は、私たちが自分自身につくウソだ。(The greatest source of our suffering are the lies we tell ourselves.)」
今読んでいる、トラウマ治療に関する本、The BODY KEEPS the SCORE(Bessel Van Der Kolk, M.D.著)に出てきた言葉です。
Van Der Kolk博士は、アメリカの精神科医であり、PTSD治療の先駆者であり、第一人者ですが、先日、彼のセミナーをWebcastで受けて、とても興味深かったので、今回渡米した時、本屋さんに立ち寄り、この本を買ってきました。
冒頭の言葉は、Van Der Kolk博士の先生だったElvin Semradという人が言った言葉だそうで、この先生は、私たちは、経験するあらゆる側面において、自分自身に正直でなければならない、といっていたそうです。
この言葉は、とても腑に落ちました。
心の病気は、私たちがあらゆる体験において、自分に正直であり続けることを許せば、起こらないのだと思います。
自分の心を偽って、思ってもいないことを口にしたり、思っていることを言わなかったり、感じていることを感じていないふりをしたり、見えているものを見ないふりをしたりしなければ、ストレスが細胞に刻み込まれることはなく、したがって心は病気には(ひいては体の病気にも)ならないのだと思います。
このElvin Semradという先生に関して、Van Der Kolk博士は、もう一つ、印象的なエピソードを挙げています。
博士がまだ学生の頃、
「先生、この患者は、統合失調症(Schizophrenia)だと思いますか、それとも統合失調感情障害(Schizoaffective Disorder)でしょうか。」と聞きに行くと、
この先生は、考え込んだふりをして、
「私なら、この人をMichael McIntyre(患者の本名)と呼ぶよ。」
と答えたそうです。
診断名に囚われず、その人自身を見よ、ということ。
これは、私も本当にそう思います。
診断名はある意味貼られたレッテルに過ぎず、このレッテルは、診断する側によって、患者のその時の状況によって、常に変わりうる。精神疾患の診断名自体、人間が考え出したものに過ぎない。精神疾患の名前も、精神医学界の偉い人の一言で、変わったり、新しくできたり、なくなったりするものです。
そんなものに迷わされず、患者自身を見なさい、という教えは、素晴らしいと思います。
こういう人は(そして、その言葉の価値がわかるVan Der Kolk博士も、もちろん)、患者を深い部分から理解して、その真のニーズを把握しながら、優れた治療を施すことができる、本物のセラピストなのだと思います。
(Chika)