盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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幸せの作り方

自分を強める力と弱める力

力には、二種類あります。

パワー(power)とフォース(force)。この二種類の、どちらの力に意識がつながっているかによって、人は、強くもなり、弱くもなります。

このことを、キネシオロジー(筋肉反射テスト)を用いた膨大な量の実験に基づき、体系的に説いたのが、デヴィッド・ホーキング博士です。

キネシオロジーでテストすると、有害な物質にさらされた体は、筋肉が瞬時に弱まるという反応が起きます。

例えば、低血糖症の患者が砂糖を口に含むと、三角筋が弱まる反応を示すそうです。

ホーキング博士は、自らの講演中、1000人の聴衆を相手に、こんな実験をしました。1000人中、500人に人工甘味料を入れた封筒を配り、残りの500人には有機ビタミンCが入った封筒を配りました。2人一組でキネシオロジーテストをしてみたところ、全員が、人工甘味料には弱い反応、ビタミンCには強い反応を示しました。

特筆すべきは、被験者が、封筒に何が入っているか知らなかったとしても、有害なものには弱い反応、いいものには強い反応を示すということ。体はそれ自体、叡智を持っているからです。

ホーキング博士は、被験者に特定の思考や感情をもたらす記憶や状況を思い浮かべてもらい、キネシオロジーを使って、膨大な数と頻度のテストを行いました。その結果、怒りや失望、嫉妬、落ち込み、罪悪感や恐怖に対しては、例外なく筋肉が弱くなり、愛する人や楽しいことを思い浮かべると、誰もが強い反応を起こすことがわかりました。

また、物質をイメージするだけで、実際にその物質に触れていなくても、実物に触れているかのような反応が起こることも判明しました。例えば、殺虫剤を使って育てられたリンゴと、有機栽培されたリンゴを掲げて、それぞれに焦点を合わせて見るというテストする実験をしたところ、殺虫剤のリンゴでは弱い反応、有機栽培では強い反応が起こりました。見る人は、どちらがどっちのリンゴか知らされていなかったにも関わらず、即座に、全員にこの反応が起こったのでした。

この手法を用いて実験を重ね、ホーキング博士は、下記の表を作りました。

「意識のマップ 」と名付けられたこの表で、200の勇気から上がパワー、175のプライドから下がフォースになります。

神の視点人生の視点レベルログ感情プロセス
Self(大なる自己Self)is(存在そのもの)悟り700-1000表現不可能純粋な意識
存在する全て完全平和600至福啓蒙
ワンネス完成喜び540静穏(神)変身
愛のある恩恵500崇敬啓示
英知有意義理性400理解抽象
慈悲深い調和受容350許し超越
奮い立たせる希望意欲310楽天的意図
権能を与える満足中立250信頼開放
許認実行可能勇気200肯定強化
無関心要求プライド175嘲笑慢心
執念深い敵対怒り150憎しみ攻撃
否定失望欲望125切望奴隷化
刑罰怯える恐怖100不安内気
軽蔑悲劇深い悲しみ75後悔落胆
避難絶望無気力50絶望放棄
復讐心罪悪感30批判破壊
嫌悪悲惨20屈辱排除

引用元:「パワーかフォースか」デヴィッド・R・ホーキンズ著 ヘハン・デラヴィ&愛知ソニア訳         ナチュラルスピリット社 p.372

端的に言うと、人の意識状態が、200以上(パワー)につながっていると、その人の生命力は強まり、健康になりますし、200より下の低い状態(フォース)につながっていると、その人は弱体化し、免疫も弱まるので健康を害しやすくなるということです。

フォース(force)は「強いる」という意味合いを含みますが、他者を支配して自分が上に立つことで得たり、誰かと競争して勝つことで得たりする力は、フォースです。自分が弱いふりをして、他者から憐れみをひきつけて獲得する力も、誰かを操作して得るという意味合いで、フォースになります。お金や社会的地位、依存するものから得られる一時的な快楽、他者からの賞賛や承認で得られる一時的な高揚感も、すべてフォースの類です。

フォースは持続せず、すぐに消えてしまうはかないものなので、常に外から供給しつづけなければなりません。どんなに外から補っても決して満たされることがなく、すぐに空虚な気持ちになり、「もっと欲しい、もっと、もっと」と、尽きぬ欲望をかきたてます。本当に自分を強化する力ではないので、力を得ているはずなのに、疲労感を得やすいのも特徴です。

パワーは、人から奪い取ることで得られる力、フォースと違って、すでに自分に内在する力です。パワーは人間の気高さや慈愛とつながっています。例えば見返りを期待せずに行う利他的な行為や、悪口を言われても動じず、報復することなく許す寛大さなどは、その人にパワーをもたらします。これらは、その行為をした人自身にも肯定的な気分や強化された身体感覚をもたらしますが、周囲の人も、その人のパワーから漂う威厳や高貴な雰囲気を感じ取るため、心から賞賛したくなったり、感化されて自分もより高い状態に引き上げられやすくなります。

パワーは、自分の中に内在する力とつながった状態であり、他者を必要としません。いつでも得られるし、永続性があります。例えば、100年前に書かれた書物であっても、パワーがあふれる人が書いた本は、読む人に感銘を与え、心を強くさせる作用がありますね。

同じ行為をするにしても、その人の意図が、パワーとフォース、どちらかにつながっているかによって、結果が違ってきます。

褒められたい、認めたいと思ってする善行は、フォースに動機づけられるので、人の尊敬を得ることがなく、かえって褒められたり認められたりしないものです。自分にポジティブな力を与えることもできません。

フォースの状態を抜け出せない人は、残念ながら、環境を変えたとてしても、同じ辛い状況を繰り返しつくりだしてしまいます。

私は予言者ではなく、透視能力があるわけでもありませんが、多くの人を見てきて、パワーにつながっている人は、この人はどこに行っても成功するし、幸せになっていけるな、と確信がもてますし、実際そうなっています。カウンセリングで劇的に変化し、症状がなくなり、人生が好転する人を何人も見てきましたが、思えば、その人たちはパワーにつながることができた人です。

多くの人が、常にパワーの意識状態を保っているわけではなく、フォースの領域に行ったり、パワーの領域に上がったりを繰り返していると思います。人生には日々色々なことが起こり、人との関わりの中で、色々な感情を抱くものですから、それは当たり前ですよね。そんな日々の暮らしの中で、パワーの意識を増やしていくことを心がけることは、自分を成長させることであり、人によい影響を与えて世界をよくしていくことにもつながり、生きている意味があることだなと思います。

お勧めの本

最近読んだ、お勧めの本をご紹介します。

「今日、誰のために生きる?」アフリカの小さな村が教えてくれた幸せがずっと続く30の物語 ひすいこたろう×SHOGEN著 廣済堂出版

著者のショーゲンさんが、幸せな人ばかりいるアフリカの小さな村に行き、1年半ほど人々と一緒に暮らし、そこで見聞きしたことをどうしてもみんなに伝えたいと思い、書かれた本です。

この村の人たちは、心を大切にしています。現代の日本の社会とは全然違い、目から鱗のことばかり。日々、すごいカルチャーショックです。

でも、それは、太古の昔、縄文時代の日本では、当たり前に行われていたことでした。

例えば、ショーゲンさんは、最初の頃、しょっちゅう部族会議に呼び出されて、問題を指摘されます。「お前はなんでそんなにゆとりがないのか」。

この村の人たちは心のゆとりをとても大切にしています。仕事が途中でも、時間が来たら潔くやめて、家に帰る。家族との時間が大切だから。

一人の子が、流れ星が見たいというと、大人たちも全員で一緒に流れ星を探しに行きます。

また、ショーゲンさんは、一緒に食事していても、お前は心がそこににないと指摘をされます。マインドフルでなく、マインドレスになっているということですね。

この村では、言葉を大切にします。心から言葉を話すことがどんなに大切なことか、知っています。 だから、相手を抱きしめるように話せといいます。 心がこもっていない言葉を話せば、小さな子供にもそれを感じ取られて、指摘されてしまいます。

この村の人たちは、感謝を伝えることを、とてもよくします。何かで恩恵を受けたら、それを与えてくれた人のところに行って、まっすぐそれを伝えるようにと言います。

失敗を悪いこと、してはいけない、とする概念がありません。失敗した人には、「かわいいね、人間らしいね」といいます。人は年を経るごとに、完璧になるのではなく、人間らしくなるといいます。

人に対して「信じているよ」とよくいいます。誰かが、こうしようと思うというと、「あなたがそうできることを信じているよ」と伝える習慣があります。

この村の人たちは、自分を大切にすることを、子供のころから自然に学びます。この村の人たちはみんな親切で人助けをよくするので、それにならってショーゲンさんが人助けをしようとすると、「お前を見ているとハラハラする」と言います。人に与える時は、自分の盃がいっぱいになって、そのあふれた分を人に与えなさいと諭されます。自分の心が満たされていないのに与えようとすると、自己犠牲になり、心に苦しみが生じます。苦しさが周りにも伝わるので、ハラハラするわけです。

叡智があふれていて、でもわかりやすく、易しい言葉で書いてある本です。変に小難しい心理系の本より、よほど役に立つと思います。

真理って、本当はシンプルなものです。

人は賢く進化すればするほど、ある意味、子供のようになっていきます。子供じみるのではなく、大人になる過程で身に着けた余計なものがなくなって、子供のように純粋になっていくということ。この村の人たちがそうであるように。

幸せであるためには、幸せを感じる心を持てばいいわけで、幸せを感じる心を持つためには、心にゆとりがなければいけません。何かを感じるには、感じるためのスペースが必要です。

現代社会では、利益をあげたり、競争して相手より上に優位にたったり、成功したりすることに必死で、その奮闘によって生じた膨大なストレスを紛らわすために、頭を忙しく埋めて、心から目をそらすことをしていますね。こんな状態で、幸せを感じることができるはずはありません。

色々、大事なことに気づかせてくれる本なので、一度、読んでみてはいかがでしょうか。

感情が有害物質化するとき

感情は、いわば神経回路を走る電気信号であり、必要なものです。

脳は感情の信号をキャッチして体に指令を出します。例えば、恐怖を感じたら、体の筋肉を収縮させ、心拍数を上げ、呼吸を止めて、戦うか逃げるか、いずれにせよ、早く動けるように準備をします。(戦うか逃げるか以外に、フリーズするという第三の反応もありますが、ここでは便宜上省きます。)

感情の生み出すエネルギーは、行動への駆り立てにもなります。例えば、恐怖と同様、怒りも、自分を傷つけるものから身を守るための行動を促し、不当な扱いを受けたとき、立ち上がってノーというためのエネルギ―源になります。

感情のもう一つの役割は、意思伝達です。感情が巡ると表情にそれが現れ、言葉より早く、相手に思いを伝達します。相手がどう思っているか、 表情筋やしぐさが、無意識のうちに、 言葉よりも正確に伝えます。

日々の出来事や、頭の中で考えたことの結果の反応として、感情が沸き上がるのは自然なことであり、体にエネルギーを巡らせることになります。

感情を感じないように抑圧したり、感情の信号を必要以上の向精神薬などで遮断すると、流れが澱んで停滞し、濁った状態になり、感覚としては、鈍い、無気力な感じがするようになります。

感情を巡らせることは、生き生きと精力的に生きるためには必須なのです。

感情そのものは、このように、人にとって必要不可欠であり、有益になりうるものです。感情に いい、悪いはありません。 怒りや恥、恐れ、自責の念など、不快な感情であっても意味があって起こるもの、私たちに何かを教えてくれる大切なサインです。

ただし、感情が有害物質と化して、心身をむしばむことがあります。

それは、感情が長く留められたときです。

怒りや恥、恐れ、自責の念などの、いわゆる「ネガティブな感情」(本当は感情にネガティブもポジティブもないのですが)は、早めに手放すことができれば、有害物質にはならないのですが、ずっととどめていると、心が病むことはもちろん、体にも影響が出てきます。

以前、アメリカでカウンセラーとして働いていた時、強烈なトラウマを何十年も抱えて生きてきた人が、毎日のようにオフィスを訪れてきたのですが、こういう人たちは、若くてもあちこちに痛みがあったり、病気になったりする人が非常に多かったのが印象的でした。

その中に、子供のころに性的虐待を受けた30代の男性がいました。この人は、痛みのあまりにそれを誰にも言えず、ずっとアルコールで痛みを抑え込んで生きてきたのですが、その代償として、非常に怒りっぽい性格になっていました。些細なことで激情に駆られ、しょっちゅう喧嘩していたので、対人関係でも問題がつきず、警察のお世話になることもたびたびでした。彼はとても体格がよく、強そうな肉体の持ち主でしたが、見かけに反して体のあちこちに痛みが出ていて、スーパーで買い物をするときも、電動車椅子を借りて移動していました(アメリカには貸し出し用の車椅子があるのが普通でした)。この人が、幼少期の性的虐待のいきさつを私に初めて打ち明けたとき、何十年にもわたってせき止めていた感情が、一気にあふれ出し、号泣して、いつまでも泣き止まなかったのを、今でも覚えています。感情が突破口を見出し、解放されたことで、この人の気持ちはその後少し楽になり、穏やかになりはしましたが、何十年も抑圧され、とどめられた感情は、原初に形成されたより何倍も厄介なものになり、癒すのも困難になるので、その後もなかなか一筋縄ではいきませんでした。

この男性に限らず、長年留められた感情が、細胞レベルで体をむしばんでいると思われるケースは、たくさんありました。

ここまで深刻なケースでなく、日常で嫌な思いをしたときであっても、感情のサインを認め、受け取ったら、できれば早めに切り替えることをお勧めします。

感情は、認めて感じきったら、役割を終えて自然に消えていきます。なので、感じてあげることは大事なのですが、思考による解釈で感情を強めてしまう場合があり、その点は要注意です。

誰かと関わって、嫌な気持ちになったとき、その気持ちだけ、理屈抜きで感じてあげれば早く終わり、切り替えもそんなに時間がかからずにできるのですが、

「どうしてこんなことになったんだろう」

「あの人が悪い。あの人のせいでこうなった」

「私が悪いからこうなった」

「私はなんてついていないんだろう。みんなは幸せそうなのに。きっと不幸の星のもとに生まれてきたんだ」

等、思考を使って分析や解釈、いい悪いの判断をしたりすると、もともとの感情を強化して、自分の中に根付かせてしまいます。根付いた感情は時間がたつほどに有害化します。

時々、「あいつのせいで不幸になった」「あの出来事さえなかったら」あるいは「またこうなったらどうしよう」「きっとこうなるにちがいない」と、起こった出来事を取り出しては、 延々考え続けてエネルギーを与えることで、何十年も恨みや恐れを持続させている人がいます。

思考による反復は、何度も往復して強く轍を刻み込むようなもので、自分の中に刻印を作ってしまいます。それによって害をこうむるのは自分自身にほかなりません。

なので、そうならないよう、「つらかったな」「悲しかったな」「腹が立ったな」と自分の感情を優しく認め、受け止めてあげたら、あとは頭で考えて変に定着させないこと。自分や誰かの悪口を頭の中で言っているのに気づいたら、意識的にもっと快いものを見たり、聞いたり、考えたりして、切り替えることが大切ですね。

ちなみに、普段から、美しいものを見る癖をつけると、潜在意識の中のストックが増えて、切り替えが早くなるのでお勧めですよ。

マウントを取ってくる人がいるとき

マウントを取ってくる人がいて、嫌だと感じる時、知っていてほしいことがあります。

マウントを取ってくる人が気になるということは、自分の心の奥にもマウントを取りたいという気持ちがあるということ。

もしそうでなければ、マウントを取られることに、不快感を覚えないはずです。

例えば、

「私は大卒だからね。」

と言われて、高卒の人が、

「嫌味な人だな。高卒より上だっていいたいんだろ。」

と思ったとしますね。

その人が、高卒より大卒のほうがいい、学歴が高いほうがいいという価値観があり、相手と勝ち負けを競う気持ちがあって初めて、悔しい、腹立たしいという感情が生まれます。

もし、高卒でも大卒でも、人としてどちらが上も下もないし、相手と競争して勝ちたいという気持ちがそもそもないという場合、相手の言葉に不快感を覚えないはず。もっとニュートラルな気持で、「へえ。そうなんですね。」とスルーできるはずです。

マウントを取られて嫌だという気持ちの裏には、劣等感を感じさせられて腹立たしいという気持ちがあるはずですし、劣等感の裏には、相手より上に行きたい、優越感を感じたいという気持ちがあるはずです。

もう何十年も前に見たものですが、今でも忘れられずに記憶に残っている、テレビのドッキリのシーンがあります。

その方は、ごく普通のサラリーマン風の、50代くらいの男性で、飲み屋さんで一人で飲んでおられました。

そこに、仕掛け人が現れ、その方のテーブルの前にいきなり座るなやいなや、勝手にその人のお酒を、自分のおちょこについで、飲み始めました。

普通は、そんなことをされたら、誰でも腹がたつのではないでしょうか。

けれども、その男性は、一瞬驚いた顔をしたものの、何も言わず、すぐに自分の徳利を手に取り、仕掛け人のおちょこに、もっとお酒を注いであげたのでした。

それは感動の光景で、モニターを見ていたタレントさんたちも、みんな驚き、感心し、温かく、心洗われるような、しんみりした雰囲気があたりを包んだのでした。

このドッキリを仕掛けられた男性は、「自分が、自分が」というエゴが少ない、とても清らかな心の持ち主だったのでしょう。

相手と自分の隔たりがなく、競い合う気持ちもない。怒らせてやろうという意図に対して、穏やかで優しい気持ちが返ってくると、ぶつかり合いは生まれることがなく、ストレスが生じる余地もありません。

もし、相手がマウントを取ろうとしても、「ああ、あなたは私より先に行きたいのですね。かまいませんよ。お先にどうぞ。」という気持ちで応じるなら、相手に腹が立ったり、それが悩みになるということはないはずなのです。

マウントを取られて悔しい思いが多いなら、自分の奥に潜んでいる、相手と同質の気持ち、優越感を得たいという思いに気づいてあげください。そして、「戦って、勝って、証明しなくても大丈夫だよ。負けても存在価値は減ったりしないよ。」と自分に優しく声をかけてあげてみてはどうでしょうか。

「秘密の花園」に学ぶ、魔法の使い方

「秘密の花園」(バーネット作 「山内玲子」岩波少年文庫)という本があります。子供向けのお話ですが、大人にとっても、幸せに生きるための大切な真実を説いている内容だと思うので、今回はこのお話を、少しご紹介したいと思います。

簡単にいうと、こんなストーリーです。

インドで育った、お金持ちだけどわがままで、いつも不機嫌な、心身ともに不健康な女の子、メアリは、孤児になり、母国イギリスのお金持ちの叔父さんのお屋敷に引き取られました。イギリスの自然や、貧しいけれど健全な召使のマーサ、その弟のディコンとの触れ合いを通して、メアリはだんだん変わっていきます。

メアリを引き取った叔父さんは、強い心の痛みゆえに長年心を閉ざしている偏屈ものでした。この叔父さんにはコリンという一人息子がいるのですが、物質的な豊かさをあてがうばかりで、息子を世間の目から隠し、部屋に閉じ込めたきり、会おうとしません。当然ながら、このコリンも、心身ともに病んでいきます。

メアリは、いとこであるコリンと、ふとしたことから出会い、心を通わせるようになります。

メアリとコリンは、どちらも身勝手で、人を見下すような態度の、不愉快な子供だったのですが、それは優しさを知らない孤独な境遇ゆえであり、気高く、賢明で、心優しいディコンと、その母親である、聖母のようなスーザン、すべての人を癒し、健全にせずにはいられない自然を通して、180度変わっていきます。

そして、最後に、コリンは、父親の、暗闇に閉じ込められていた心を開き、光を入れて、祝福を与える存在となるというお話です。

コリンが心身を病んでいったのは、父親に「この子は自分のようにせむしになる。長く生きられない。」と信じられ、召使たちが自分についてそう話すのを聞いて育ち、自分で強くそう信じるようになったからでした。コリンは人目を避けて、寝て暮らすようになり、不安にさいなまれ、みじめで癇癪もちの男の子になってしまいます。本当はどこにも悪いところがないのに、体が弱くなり、歩けなくなって、心身ともに病んでいってしまったのです。

そんなある日、コリンはメアリに、はっきりと「あなたはせむしじゃない」と否定され、自己憐憫をやめるように言われます。それ以降、コリンはだんだんと変わっていきます。

物語の終盤に、コリンが、どうやって健康な心と体を自分で再生していったか、描かれている部分があるので、ここに抜粋し、引用します。

❝「メアリがこの庭を見つけたとき、庭はほとんど死んだように見えました。」コリンは演説を続けました。「ところが、なにかが土のなかからいろいろなものを押し出して、無から、ものを作り出したのです。(中略)名前がわからないので、それを魔法と呼びます。(中略)庭に出るようになってから、ときどき木々のあいだを通して、空を見上げしたが、ふしぎな幸せな気分になりました。なにかがぼくの胸のなかで押し上げたり引っ張ったりして、呼吸を早めているような感じでした。魔法はいつも押したり引いたりして、無から何かをつくりだします。すべてのものは魔法からつくられます。(中略)この庭の魔法はぼくを立たせてくれ、ぼくが大人になるまで生きられることを教えてくれました。」❞

❝「これから、その魔法を少し手に入れて、ぼくのなかに取り入れ、ぼくを押したり引いたりして強くさせるという実験をしてみようと思います。(中略)ぼくが初めて立とうとしたとき、メアリはできるかぎりの早口で『がんばって!がんばって!』と唱えました。そしてぼくは立つことができたのです。もちろん同時にぼくも努力しなければならなかったけど、メアリの魔法が助けてくれました―それからディコンの魔法もです。毎朝、毎晩、それから昼間も覚えている限り、ぼくは『魔法がぼくのなかにある!魔法がぼくを癒してくれる!ぼくはディコンのように強くなる、ディコンのように強くなる!』とくりかえし唱えることにします。」❞

こうして、メアリたちに会うまでは歩くことさえできなかったコリンは、メアリやディコンの応援を力にし、自分の中に強い意図を持つことで、自分の心や体を癒し、強化していきます。

「自分はこうなる」という意図は、良くも悪くも、自分自身や、自分を取り巻く現実を創造していきます。ほかの人たちの意図が、自分の意図に共鳴すると、さらにそれを強める働きがあります。スポーツの選手が試合しているときに、応援の声が力になるといっているのは、文字通り、そうなっているのです。

コリンは、はじめは、悪い方向に魔法を使っていました。周囲の刷り込みを受けて、自分は長く生きられないと、何百回、何千回と、意図してしまい、実際に体が弱っていきました。意図は反復することで強化され、パワーを増幅するものです。

自然の法則である、創造の魔法の力に気づいたコリンは、いい方向にその魔法を使うよう、「実験」を行いました。これによって、コリンは見違えるように健康になり、強く、幸せな少年になりました。

一人の人の状態は、接触を持つ周りの人にも影響を及ぼすので、コリンの変化は病んだ父親にも幸せな変化をもたらすに至りました。

アファメーションが潜在意識に影響を及ぼし、現実を変えていくという、創造性の魔法を、とてもよく表しているお話だと思うので、興味がある方は、「秘密の花園」を一度読んでみてはいかがでしょうか。

セルフコンパッション:自分に優しくする方法

セルフコンパッションという心理的な方法があります。

直訳すると、「自分に慈愛を向ける」。

自分のことを好きになれず、したがって大切に扱うことが難しく、毎日を生きづらく、困難なものにしている方が時々いらっしゃいます。自分に優しくする=甘やかす、または、利己的な行為だと勘違いしている方もいらっしゃいますね。

本当は正反対です。慈愛を向ける、優しくする対象に、自分を含めないと、ほかの人に対しても、慈愛を向けたり、優しくすることは不可能なのです。自分が苦しいのに無理をして人に尽くしたら、いずれ相手に我慢が伝わって、相手も苦しくなるでしょう。自分が穏やかで明るい気分でいたら、人に親切にするのは容易ですし、たとえ何もしなくても、ただいるだけで周囲にいる人も心地がよい気分になります。

ちなみに、私たちの左脳は、自分と他人を区別しますが、右脳は自他を区別をしません。左脳が麻痺して、右脳だけの感覚を経験した、脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士によると、右脳マインドにおいては、自他の境界線がありません。存在するすべてはつながって影響しあい、世界を一緒に創造しているという認識になり、自分と世界が一体化するように感じられるそうです(「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 新潮文庫)。そう考えると、自分に向けた辛辣な行為が、自分と関わりのある周りの人、ひいてはこの世界にネガティブな影響を及ぼし、自分に向けた優しさは、周囲にもいい影響を及ぼし、世界を優しく変えるための、小さくとも確実な一助になるということが、イメージしやすいのではないでしょうか。

さて、今回は、簡単だけどパワフルなセルフコンパッションの方法を、一つご紹介します。アメリカの精神科医、Jonah Paquette博士の、Putting Positive Psychology into Practiceというセミナーで習った方法です。

まず、今、ストレスに感じているものを、一つ、思い起こしてください。ストレスな状況を頭に思い描いて、どんな感覚がするか、感じてください。それができたら、自分に向けて、こう言ってください。

1.今は、苦しいときだ。

2.苦しみは、人生の一部だ。

3.どうか私が自分に優しくできますように。

この後、先ほど覚えた、自分の苦しみの感覚が、どう変化するか、感じてみてください。

この方法では、まず、自分が苦しいということを、見ないふりをしたりしないで、直視し、受け入れるということをします。感情は、否定したり変えたりするより、認めて受け入れることで、消えていくようにできているからです。

次に、苦しみは自分だけではない、すべての人が人生で味わうものであり、人類に共通のものだという認識を起こします。「つらいのは自分だけ」「ほかの人はみんな幸せそうなのに、なんで自分がこんな目に」という見方をすると、苦しみは強まりますが、自分だけじゃない、みんな仲間だ、という思いは、苦しみを和らげます。

最後に、つらい思いをしている自分に、自分が優しくできますように、という慈愛の祈りを向けます。つらいとき、誰かが親身になって、心から優しい言葉をかけてくれたとき、つらい気持ちが和らぐ経験をした人は多いと思います。このように、慈悲の心には、痛みを和らげる働きがあります。目には見えなくても、思いにはパワーあるということです。

セルフコンパッションの手法はほかにもあるので、機会があったら、またご紹介できればと思います。

現実を創造するもの

年収1000万あって、庭付きの家も車もあって、結婚していて子供ががいても、寂しくて、満たされず、不幸な人もいます。逆に、年収はその半分以下で、車もないし、家は賃貸で、一人暮らしであっても、周りの人に愛され、楽しんで暮らしている人もいます。

なにを持っているかが現実を決めるなら、同じものを持っている人は、みんな同じように幸せ、または不幸なはずですよね。でも現実はそうではありません。たとえ同じアイテムを持っていたとしても、幸せな人もいれば不幸な人もいます。

なぜなら、私たちが生きる現実は、もっぱら、「自分を取り巻く環境に何があるか」「自分の生活にどんな出来事が起こるか」によるのではなく、「自分の周囲にあるものの中で、何を選んで焦点を当て、それをどんなふうに捉えるか」によって成り立っているからです。

例えば、AさんとBさんが外に立っているとします。二人は1mと離れていない場所に立っているので、二人の周囲には、まったく同じものがあります。

Aさんは、ものがあふれているゴミ箱や、たばこの吸い殻や、道路の油のシミや、向こうからやってくる人を見て「汚いなあ、マナーの悪い奴ばっかりだなあ、こっちに歩いてくるあの人は、なんて不景気な顔をしているんだろう。服のセンスも悪いなあ。」と思います。

Bさんは、Aさんが見ているものは目に入らず、代わりに頭上の青空や白い雲を見て、「ああ、いい天気だなあ」、足元に咲いている花を見て、「わあ、きれい。もうすぐ春だなあ」、通りすがりのネコを見て、「なんてかわいらしい。」と思っています。

AさんとBさんは、同じ場所にいながら、二人が生きている現実は、まったく違うものになるのがわかりますね。

Aさんは、取り巻く環境の中で、不快なものを選んでそこに意識を固定し、否定的な解釈をしているので、不愉快な現実を自分の周りに創造して、その中に住む羽目になっています。

Bさんは、心地よいものにフォーカスし、そこに意識を当ててつながり、吸収しているので、Bさんが住む世界は、明るく、優しくて、快適なものになっています。

人はこうやって、無意識に、自分が住む現実を創りだしています。天国と地獄の差は、こうやって生まれます。

否定的なものを選び、否定的な解釈を下す癖は、ある時点で、何らかの事情で身につき、あまりにもしょっちゅう反復してきたために、自分がそうしていると気づかずに自動的に行っている人が多いです。例えば、自尊心をひどく損なわれるような傷つき体験をした場合、それを境に、悲観的な視点を身に着ける人が多いようです。

理由はともかく、まずは自分がそれをやっていることに気づくことがポイントになります。そして、自分を取り巻く多くのアイテムの、どれに焦点をあて、何とつながるか、それをどう視るかは、本当は選択できると知ることが大事です。

人は、自分が意識の焦点を当ててつながったものから影響を受けます。例えば、きれいな花が咲いているのを見て、花に集中すれば、花と自分との間につながりが生じ、花の持つエネルギーがこちらに流れ込んできます。(花の形や色を楽しみ、香りをかぎ、手で花びらや葉っぱに触れるなどし、五感で感じるように心がけると、より集中できますので、多くのエネルギーを受け取ることができます。)

不快なものばかり見て、それに否定的解釈を下していると、その不快なものに対するフォーカスを強め、その対象物からエネルギーを受け取ることになります。結果として、嫌な気分を自ら作り出し、自分を取り巻く現実を創造してしまうことになってしまいます。(本当は、その対象物がもつエネルギーというより、その対象物に自分が投影しているエネルギーというほうが正しいと思いますが、ちょっと複雑になるので、ここでは説明を割愛します。)

今生きている現実がどんより灰色の人でも、現実は与えられたものでも、偶然にできたものでもなく、自分自身が現実の創造主であることを意識することで、現実を変えていくことが可能です。

現実を変える第一歩として、まずは、美しいもの、優しい気持ちにさせてくれるもの、温かい気持ちになるもの、ありがたいもの等、毎日1つでも2つでもいいので探してみましょう。ネガティブな視点が癖になっていると、なかなか見つからないものですが、一生懸命探していると、それが慣れ親しんだ意識のフォーカスのしかたを変える練習になり、何とどうつながるかを変え、異なる現実を創造する訓練になるでしょう。

ダライ・ラマの見た西洋世界

ダライ・ラマ自伝(ダライ・ラマ著 山際素男訳 文春文庫)の中に、こんな一文がありました。

(前略)西欧社会の考え方にいくつかの疑念を抱くこともある。その一つは、物事を”白と黒”、”あれか、これか”で考え、相互依存性、相対性を無視する傾向である。つまり二つの観点の間には灰色の部分が必ずあるという目が欠けているように思われる。

  また、こうも思う。大都市で便利に暮らしている人々の多くは、実際には大勢の人間から孤立して生きているのではないか、と。これほど物質的に恵まれ、近隣の何千という人間のなかに暮らしていながら、猫や犬にしか心を開くことができない人がなんと多いことか。どこかおかしい気がする。これは心の貧しさを意味するのではないだろうか。またもう一つには、これら諸国の厳しい競争社会、そこから生み出されるおそれと人生への深い不安感があるように思う。

これは、中国のチベット侵略後、インドに亡命し、ダラムサラに亡命政権を樹立した後、 欧米諸国を訪問するようになった ダライ・ラマ法王が、 旅先で目にした光景から得た感想なのですが、その鋭い洞察力には感服します。
しばらく住んで、その国に入り込み、内側からその国の文化を体験したわけではなく、忙しいスケジュールの中、外から垣間見ただけでしょうに、ここまで奥深く見通せるとは、さすがの叡智ですね。

以前、メキシコに4年ほど住んでいたとき、貧しい人が多かったのですが(ただし階級社会なので、お金持ちはとてもお金持ち)、人々の心は日本やアメリカなどの先進国より豊かだと思いました。人々が温かく、親密な文化なので、 お互いの距離が近すぎて干渉的だと感じる場合があるかもしれませんが、その一方で、人が孤独になるということがあまりない社会でした。当時、大家さんの家の2階で一人暮らしをしていたのですが、近所の家の人が表に椅子を出して1日ひなたぼっこをしており、家に帰ると、留守の間に誰が訪ねてきたとか、荷物が届いているとか、逐一教えてくれました。数日、外に出ないでいると、大家さんはもちろん、友達や近所の人など、いろんな人がとっかえひっかえ、どうした、何かあったのか、と心配して見に来ます。だから、うかうか引きこもっていられません。孤独死なんて不可能です。兄弟や親戚も多くて、中流階級以下は一つの家に大勢で住んでいることが多いので、プライバシーはないけど、人間同士のつながりが濃く、そのせいか、自殺率がとても低い社会だと聞いています。鬱などの精神疾患もあまりなかったように思います。人々は概して明るくて、貧しい人同士、助け合って暮らしていました。物乞いの人はたくさんいたけれど、貧しい人ほど気前がよくて(お金持ちの特権階級の人のほうがケチでした)、みんなよく小銭を寄付したり、ちょっとした仕事を与えたりして、助けたりしていました。

だから、上記のダライ・ラマの記述は、とてもよくわかります。日本やアメリカのほうが、人々の顔つきが暗くて、不幸せそうに見えますし、社会にストレスが多く、不安や恐れが蔓延しているように思います。

ダライ・ラマというと、メキシコに住んでいたころ、知人のメキシコ人の運転手が、私が何気なく手に取った、車に置いてあったボールペンを見て、それ、ダライ・ラマがくれたペンだよ、といったので、とても驚いたことがありました。彼はダライ・ラマがメキシコに来た時に運転手を務めたそうです。「どんな人だった?」と聞くと、「英語が上手で、気さくで、ちっとも偉そうじゃなくて、いい人だったよ。インドに帰った後、お礼状とハンカチが送られてきたよ。」とのこと。お人柄がしのばれるエピソードですね。

余談ですが、ダライ・ラマの自伝を読んで私が思ったこととしては、なるほど、菩薩というのはこういう人なんだろうなということ。幼少期からとても頭脳明晰な人のようで、記憶力や理解力、洞察力も抜群だったようですが、一方で、先が見通せる千里眼があるわけではなく、怒ったり、悲しんだり、苦悩したりもする、一人の人間です。けれども、エゴが非常に少なくて、自分より人、衆生を苦しみから救うこと、 世界の平和を常に考えている人。慈悲の心を高め、人格を向上させる為に、ストイックに修行に励んでいる人という印象を受けました。

ダライ・ラマがおっしゃる通り、今の先進国、「文明社会」の在り方は、どこか間違っていると思います。物質が豊かにしてくれるのは、表面的な生活だけで、それだけでは心が満たされないことはないこと。競争社会は争いを生み、人々を分離させ、心を貧しくしてしまうこと。この世界は白黒では割り切れず、たいていグレー、中間色なので、白黒の考えで生きようとすると現実にフィットしない。それどころか、ことあるごとにストレスを感じる、苦しい生き方になってしまうこと。そんな矛盾を抱えているのが、私たちが住む、先進国の現状ですね。

これからは、物質的な豊かさだけではなく、心も豊かになるような世界になっていけばいいなと思います。

 

効果的でない感情の解放の仕方

ゲシュタルト療法のセミナーに行ってきたという知人に、その内容を聞いて、驚いたことがあります。

ゲシュタルト療法には、空椅子療法という手法があります。誰も座っていない椅子を前に置いて、架空の相手との対話で感情を引き出すやり方なのですが、そのセミナーでは、「毒親」のお母さんをイメージしながら、お母さんを棒で叩くことをしていたそうです。(ちなみに、私は「毒親」という言葉があまり好きではありません。自分の苦しみを他者のせいにして、被害者意識を強めてしまい、苦しみから抜け出すことを困難にしてしまう効果があるので、気をつけたほうがいい言葉だと思います。)

「あんなことするんだ、ってびっくりしました」

と、知人は言いました。

私は率直に、それはあんまりいい方法ではない、そのセミナーの主催者は何か勘違いしていると思う、とその知人に伝えました。

感情を傷つけられた相手に対して、イメージ上とは言え、暴力をふったりすることは、感情の癒しにはならず、却って逆効果です。人を攻撃することで心が癒されるということは、本当の意味ではありえないからです。

人は潜在意識のレベルではみんなつながっており、一つです。ゆえに相手を傷つけることは、奥深い部分では、自分を傷つけることになるので、空椅子でお母さんを棒で殴って、表面的、一時的にはスッとした気がしたとしても、モヤモヤしたり、後味の悪さが残ったりするでしょう。お母さんに対する怒りや恨みが、減る代わりにエスカレートし、かえって強化されてしまう可能性もあります。

空椅子の上のお母さんに、暴言を吐いたり、暴力をふるったりするよりは、お母さんの行為によって、自分がどんな気持ちになったか、どんなに傷ついたか、本当はどうしてほしかったか、伝えるほうが効果的ではないでしょうか。

「お母さんはひどい」という、you statement (「あなたは」を主語にした言葉。相手を批判したり攻撃したりするニュアンスになりやすい)ではなく、「自分は腹が立った、悲しかった」という、I statement(「私は」を主語にした言葉。相手がどうこうではなく、自分の気持ちに言及)を使うのですね。

お母さんが「毒親」で辛い子供時代だった、という場合、通常、裏を返せば、本当はお母さんに愛されたかったのに、愛されなかった、という悲しみがあります。怒りより、その悲しみのほうが、心の深い層にある真実です。そちらのほうに光を当てて、言葉にし、表に出してあげるほうが、より深い感情の解放になります。

人間は誰でも、手つかずの状態では、無条件の愛を持って生まれてきます。子供は生まれながらにして、親がどんな親だろうと無条件に愛します。例えば、どんな容姿だろうが、声だろうが、障がいがあろうがなかろうが、関係なく、子供は親を慕いますよね。もし親が、時々感情的になったり、理不尽なふるまいをしたとしても、根本的に無条件の愛を持ち続けて子供に接することをすれば、子供は親を愛することを決してやめないものです。

でも、なんらかの事情で、親が無条件の愛を子供に表現できないとき、子供は親に愛されないと感じて深く傷つきます。「お母さんを愛している。お母さんはかけがいのない存在だ。そんな大事な人に愛されないことはとても傷つくことだ。もっと自分を愛してほしかったのに、辛い」と感じるわけです。

毒親に対する傷つきの根本にあるのは、怒りではなく、愛なので、そちらにフォーカスして表現するほうが、自分の本当の心と一致して、カタルシスになると思います。

自己信頼のパワーを引き出すコツ

何か、チャレンジにあったときに、「自分にはできる力がある」と信じることは、とても大切です。

私たちには、みんな、計り知れない潜在能力があります。ただ、土に埋もれてまだ出てきていない潜在的な力は、「自己信頼」という光を当てないと、芽を出しにくいかもしれません。

「こんなの、自分にはできない。無理。」

自分にはそんな力はない、と思うと、それも一つの信念になり、パワーを持ってしまいます。できない自分を現実化しようとする力が働いてしまうので、本当にできなくなってしまいます。

反対に、

ちょっと大変そうなことであっても、

「これを乗り越える力が、自分にはある。」

と強く思うと、実際にその問題に対処するパワーは、自分の中から力強く出てきてくれます。

その時の、自分の内側に力を集中させて、体内にみなぎらせるような感覚は、いわゆる、肚をくくったときの感覚です。おへその下(丹田)に力を入れて、「よし、できる」と思うと、自分の心身が、グラウンディングした状態に変化します。いわゆる、地に足がついた状態。

この状態になると、視界がクリアになり、音もよく耳に入ってきて、現実の世界がはっきりと認識できるような感覚になります。 現実に根差しているので、現実的なことに対処する力が十分発揮できる状態です。

自己信頼の力を生かすもう一つのコツとしては、頭でごちゃごちゃ考えすぎないこと。

「うまくできるかな」「失敗したらどうしよう」「周りにどう思われるだろう」と考えて不安を抱いたり、「こうなったときはこうして、ああなったときはこうやって」と、起こってもいない問題を想定してあれこれシュミレーションしたり、「これができたら、自分の株があがるかな」「褒めてもらえるかな」と、利己的な期待を抱いたりすると、本来持っている純粋なパワーの損なわれて、フルに力を発揮する妨げになります。

余計なことを頭で考えず、まずは、シンプルに、ただ感覚的に、「よし、できる、自分はそれを成し遂げる」と思うこと。

具体的な実現方法は、余計な画策をしなくても、直観的に思いついたり、思わぬサポートが現れたりして、後からついてきます。

プロセスを信頼して、成り行きに任せるというのは、流れに乗るために必要であり、自己信頼の要素の一部になります。