盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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考察・気づき

心に響く曲

Creedの、この、With Arms Wide Openという曲は、昔、アメリカに住んでいた頃に流行っていました。

まだ、カウンセラーの仕事に就くどころか、この道もまだ目指していなかった頃のことです。

カーラジオから流れてきたこの曲の、歌詞とメロディー、気持ちを込めた歌い方が、心に流れ込んできて、この歌を作った人の心情が、ありありと理解でき、いいなと思った記憶があります。

このヴォーカルの人(Scott Strappという名前だそうです。この曲は好きだけど、このバンドのファンというわけではないので、今、調べて初めて知りました。)は、この曲を、自分の子供が生まれるときに書いたのでしょう。

歌詞を要約すると、

「その知らせを聞いて、喜びの涙が頬を伝った。

僕の人生は変わる

陽の光の下で、大きく両手を広げて、君を迎えよう。

ようこそ、ここへ。

君にあらゆることを教えよう。

君に愛を教えよう。

僕たちは畏敬の念に打たれて立っていた。

僕たちは命を生み出した。

たった一つだけ、願うことがある。

どうか、自分のようでありませんように。

どうか息子には、人生は自分の手の中にあること、大きく両手を広げて世界を歓迎すればいいということが、理解できますように。」

ということが書いてあります。

愛にあふれた曲で、いいなと思います。

特に、この「自分みたいにならないように」というところに、自分のように過ちを犯し、辛い思いをしないように、という意味合いを感じます。この人の傷つきと、無条件の愛が、この部分に込められています。

ヴォーカルのスコットは、その後、何度も自殺未遂を起こしたり、暴力沙汰で訴えられたりと、波乱の人生を送り、最終的に双極性障害と診断されます。

一度、死のうとしたとき、息子の写真を見て、思いとどまったということです。

色々葛藤しながら、自分を持て余しているような生き方をしてきた人という印象を受けますが、この歌を聞く限り、内面の奥底に、非常に純粋で、優しい心を持っている人なんだろうと思います。

焦りの意味すること

焦りって、自分が感じる心地よいペースと、頭で追おうとしている目標との間に、ズレがあるとき、生じる感情なんですね。

先日、こんなことがありました。

海外からアメリカ人の友達が2人遊びに来ていたもので、色々なところに観光案内したのですが、時間が限られていて、連れていきたいところ全部を回りきれない状態でした。

平泉の世界遺産、中尊寺や毛越寺を回った後、猊鼻渓という、舟下りができる渓谷にも連れていきたい思ったのですが、あんまり紅葉がきれいで、ゆっくり見ていたもので、もう時間ぎりぎり。その後の温泉宿のチェックインに間に合わなくなるかもと思ったけど、思い切って向かいました。

もう時刻は夕方。猊鼻渓の舟下り自体、最終の舟が出る時間ギリギリになりそうでした。

それでも、もう少しで着く、なんとか舟に乗る時間も確保できそうというときに、こともあろうか、車で道を通り過ぎてしまいました。すぐ気づいてUターンして戻ったら、今度は別の道に入って少し迷ってしまいました。

ああ、どうしよう、間に合わない、と焦りつつ、猊鼻渓に到着。今から舟に乗ったら、予定の時間をオーバーしてしまい、宿の人に迷惑がかかる。ということで、ここまで来たけど舟下りは断念することに。アメリカ人の友達は、2人ともいい人たちで、「全然いいよ、途中の景色だけで十分楽しいもの。」と言ってくれました。

でも、せっかく来たんだからと、舟つき場を見て、お土産屋さんを物色することにしました。

その頃にはもう、日も暮れて暗くなってきており、それまで天気予報以上にお天気がよくて、なんとか持ってくれたのが、ようやく雨が降り始めました。

その時、アメリカ人の友達が言ったこと。

「雨に濡れなくて済んだから、舟に乗れなくてかえってラッキーだったね。道に迷ったのは、舟に乗れなくなるようにっていう、天の計らいだったね。」

なるほど、本当にそうだ。

その時、舟着場の方から、舟を降りたばかりの、着物姿の花嫁と花婿がやって来て、アメリカ人の友達は「わあ、着物だ、花嫁さんきれい!」と大喜び。舟上でウェディングがあったみたいで、そんなめったに見れないものを見て、一層、ラッキー感が増しました。

このできごとで思ったこと。内心、間に合わないと焦っていたけど、無理やり行こうとしていたのは、心と頭のギャップに他ならなかった。心では、舟に乗らないほうがいいとわかっていた。舟に乗ってしまったら、最後まで心は焦るばかりだったでしょう。だって、本当に帰りが遅くなりすぎて間に合わなかっただろうから。でも、舟に乗らない選択をしても、大丈夫だった。そのほうが、すべてうまくいったのです。

そして、それを教えてくれるサイン、自然に間に合わなくなるできごとが、ちゃんと起こってくれる。

頭で考えたことではなく、自然に任せること、心の感覚、直観に従うことの大切さを、改めて思い知らされた経験でした。

ゲームに没頭するとき起こること

テレビで、ゲーム中毒の子供の姿が映像で流れていました。

食べることもトイレも忘れて、ひたすらコンピューターの画面を見つめている子供。

その異常な姿を見て、ああ、この状態は脳や精神にすごい有害だなあ、と思いました。

脳が絶え間なく動いて情報処理している状態がまずよくない。

このゆとりのない、ものすごいスピードと量の思考の状態は、不安衝動に翻弄され、衝動的に突き進み、心に平穏が入り込むすきのない、多くの現代人の状態を、究極の形で表しているように思います。

この脳の状態には想像力が働く余地がない。

子供時代、ごっこ遊びやお話を聞いたり創ったり、絵をかいたりすることで養われる想像力の訓練は、成長してからも、自他とも人をサポートしてくれる貴重な機会になります。想像力があるから、ほかの人の気持ちがわかるし、原因からどういう結果が生まれるかがわかる。イメージ力があれば、今の否定的状態を変え、よりよい未来を創っていくこともできます。想像する力は創造する力の源だからです。

寸分のすき間もなく、すごい勢いで与えられ続ける、受け身の情報を処理する脳に、内側からの自発的な想像力を生じさせ、はぐくむ余地は全くありません。意識を完全にコントロールされている状態。これでは、現実に自分に起こっていることも認識できず、自分にとって大切なことを感じ取ったり考えるたりすることは不可能でしょう。

もし、地球征服をもくろむ悪の組織があって、地球を破滅に向かわせたかったら、子供にゲームを与えて虜にする方法もあるな、などと思いました。

身体的にも、ゲームに夢中になっている子供の体は緊張し、呼吸は浅くなり、非常に負担がかかっている状態。否定的な感情を感じてストレスがかかっているときと同じ状態です。寝食を忘れて、休息なしで、この状態を心身に与え続けると、心身はやがて崩壊するでしょう。

私自身は、ゲームは全くやりません。数分やっているだけで、脳とか心身のエネルギーの状態がおかしくなるのがわかるので、不快になるからやめてしまいます。

同じゲームをするのでも、サイコロを振ってやるボードゲームなんかは、まだ想像力のはいりこむ余地があり、人と人との直接的な交流も起きるから、いいんじゃないかなと思います。

子供が、ギラギラ目を光らすのではなく、キラキラ目を光らせるようなゲームが、世の中にもっと溢れたらいいなと思います。

 

大切なことを思い出させてくれる本

今、昔、愛読していた、エリザベス・キューブラー・ロスの「『死ぬ瞬間』と死後の生(鈴木 晶訳 中公文庫)」という本をを、また読み返しています。

この道を志す前にすでに読んでいた本だったと思いますが、最初に買ったのがいつだったか、もはや覚えていません。多分、20代のころだったかもしれません。

久々に読んで、セラピストとして大切なことを思い出させてくれる本だなあと、改めて色々気づきを得ています。

キューブラー・ロスは、スイスの精神科医ですが、エイズ患者をはじめ、多くの末期患者の治療に携わった人です。死を恐ろしいものとみなし、もっぱら延命治療を目的とする現代医療に疑問を抱き、死はさなぎが蝶になるかのごとく魂が肉体から解放されるプロセスであるとして、臨死体験、死後の世界や輪廻転生を肯定した医師です。5段階の死の受容プロセスのセオリーを提唱した人でもあります。

キューブラー・ロスがアメリカの精神病棟でインターンをしていたときのエピソードで、病棟に何十年も閉じ込められていた統合失調症の患者たち(昔なので、本の中ではまだ精神分裂症という言葉が使われています)を、社会に出られるまでに回復させた話があります。アメリカでも、当時は、統合失調症の患者を閉鎖病棟に閉じ込めて薬漬けにするのがスタンダードだった時代です。ちなみに、アメリカで診断される統合失調症は、日本のそれとは違って、普通にコミュニケーションが取れないような、認知や行動に明らかな異常がみられる患者さんにつけられる診断名です。日本では、簡単に統合失調症と診断してしまう傾向が強いようで、妄想や幻覚、認知や行動の異常といった陽性症状がなく、うつ病に似た陰性症状のみの人、また、心の乱れによる一時的な被害妄想や幻覚、認知や行動の異常を呈しているけれど、普段は特に異常なく意思の疎通を図れる人も、統合失調症にされています。アメリカでは、その程度では、統合失調症という、一生継続しうる重い精神病の診断を下すことはありません。というか、本来の診断基準では、そういう症状は統合失調症には該当しません。

話がそれましたが、本から抜粋します。

2年後、治療の見込みがないと思われていた分裂症患者たちの、じつに94%を退院させることができました。生活保護を受ける者としてではなく、ニューヨークでちゃんと自活できる人びととしてです。私はこのことを誇りに思っています。

患者たちが私にくれた最高の贈り物は、薬や電気ショック療法や医学を越えた何かがあるということを教えてくれたことです。つまり、真の愛と配慮があれば、本当の意味で人を救うことができる、それも大勢の人を救うくとができるということです。

私はここで、知識は役に立つけれど、知識だけでは誰も救うことができないと申し上げたいのです。たんに頭だけではなく、心と魂を使わなくては、一人の人間だって救えません。私が患者たちとの触れ合いのなかで学んだのは、慢性的な分裂病患者であれ、いちじるしく知恵の発達の子供であれ、死の床にある患者であれ、すべての人には目的があるということです。誰でも、あなたから学びあなたに助けられるだけでなく、じつはあなたの先生になることだってあるのです。

キューブラー・ロスは、苦しんでいる患者の使う、象徴言語に耳を傾けることが大切で、この象徴言語は世界共通であるといっています。患者を心からケアし、こちらの心を開いて、誠実に接するなら、患者は象徴言語を使い、患者自身何が起こっているか教えてくれる、ということです。

私がセラピーをするうえで、一番大切だと思うのは、知識ではなく、クライアントさんに対する心構え、そして直観です。それがあれば、クライアント自身が、こちらがどう助ければいいか、何をすれば教えてくれるように思うからです。なので、この本のこのくだりには、とても共感しました。カウンセリングの理論とか、セオリーとかいった机上の知識は、役に立つことはありますし、スキルとして使いもしますが、それだけにこだわって分析的になると、直観の邪魔をします。今の日本の精神医学や臨床心理の教育は、少し知識や技術に偏りすぎている気がします。なんとか療法という、精神療法のセオリーに患者さんを当てはめて治療しようとすると、頭で治療することになり、まずうまくいきません。まずは固定観念を捨てて、患者さんの発するものを、直観的にまるごと受け取れば、そこから、必要な道筋が生まれます。クライアントさんの中から自然に出てきたものに対処する手段の一つとして、その時に必要な療法を使うことは、確かに役に立ちます。私は、精神療法のセラピストは、一つの療法だけではなく、必要に応じ、複数の療法を使い分けられるようでならないと考えています。この療法はこういう状況には使えるが、この症状にはあまり役に立たない、この人には使えるが、この人には向いていない、ということが多々あり、多くの引き出しを持っていたほうが、その人や状況に応じたより効果的なセラピーができるからです。

また話がそれてしまいましたが、キューブラー・ロスはこういう内容のことも言っています。

「社会の真の殺人者は、抑圧されたマイナス感情だ。」

本の中で、キューブラー・ロスが、若いころ、第二次世界大戦でユダヤ人が虐殺されたマイネダクを訪れた際、強制収容所跡で、一人の少女に出会った話が書かれています。その少女は、祖父母や両親、兄弟姉妹を全員殺されて、一人生き残ったのですが、その場から立ち去ろうとせず、そこにとどまっていたのでした。そんな恐ろしいところで何をしているのかとキューブラー・ロスが問うと、少女は答えたそうです。以下、再び本から抜粋します。

「強制収容所にいた最後の数週間、私はこう誓ったの。かならず生き延びて、ナチスと強制収容所の恐ろしさを世界中の人々に訴えようって。やがて解放軍がやってきて、その人たちを見たとき、私はこう思った。『いや、いけない。もしそんなことをしたら、ヒットラーと同じことになってしまう。』だって、私がしようとしていたことは、マイナスの感情と憎しみの種を世界中にもっと蒔くこと以外の何物でもないでしょ。私は考えたの。人は背負いきれないほどの重荷を課されることはない。私たちはけっしてひとりぼっちじゃない。マイネダクの悲劇と悪夢をちゃんと見極めれば、それを過去のものにすることができるのだ。そうだ、このことを心から信じることさえできれば、そして、誰か一人でもいいから、その人の心から悪感情や憎しみや復讐心を取りのぞいて、その人を、人を愛し、人に奉仕し、人の世話をするような人間に変えることができたとしたら、それはとてもやりがいのあることだし、私も生きていたかいがある。そんなふうに考えたの。」

マイナス感情はもっぱらマイナス感情を養分として成長し、やがてガンのように繁殖していくものです。でも私たちには、自分の身におきたことを、悲しくて恐ろしい出来事としてそっくり受け入れるという選択肢もあります。それはすでに通り過ぎてしまった過去のものであり、自分にはもう変えられないのだと納得する道です。マイネダクで出会った症状はその選択肢を選んだのです。

最近、ニュースでみる、悲惨な事件は、一人の人の心の中にある、処理しきれていない否定的感情から起こります。それがメディアで放送されたり、本や漫画で出版されると、それに刺激を受け、同様の感情が心の奥底にくすぶっている人たちがそれに反応します。そして、心の底に閉じ込められていた感情は、闇のエネルギーを糧にして増強され、外へと表現されて、それが連鎖していきます。一人の人の心が救うことは、社会を救うことにもなります。また、自分自身が、痛みを感じたとき、それに反応して、闇を選択するか、光を選択するかは、それによって社会全体が変わりうるほど、大事なことだということです。

個人的には、この本を読んでいると、初心に帰ることができる気がします。(私は、キューブラー・ロスのように多くを成し遂げていないので、偉そうなことはいえませんが。)どの本があっているかは、好みがあり、その人の価値観によるところが大きく、一概におすすめできるものでもないのですが、医者や看護師、カウンセラーなど、対人援助職に携わる方、それを目指す方は、読んでみられたら面白いかもしれないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自意識と偉業

カウンセリングをしていて、人にどう思われるかを気にする人がとても多いなあと思います。

古代から、日本の集合意識にある傾向なんでしょうね。

農耕民族は、互いに助け合って作業をしなければ生きていけなかったので、人とうまくやること、調和することがサバイバルスキルだったからでしょう。

自意識が過剰になり、人にどう思われるかを気にしすぎると、自分のやりたいことを思うようにできず、多くを成し遂げることができなくなる、というデメリットがあると思います。

行動、ひいては、創造性が制限されてしまう。

自意識がありすぎると、人や社会の役に立つことができなくなると思います。

そもそも、真に利他的な人は、自我が少なく、自意識が少ないものです。

マザーテレサとか、シュバイツァーとか、ナイチンゲールとか、宮澤賢治などは、自分が周りにどう思われるか、さして気にしなかったと思います。自分がしたいことを人目を気にせずにしていたから、真に人に貢献できたのだと思います。周囲の目を気にしないと、穏やかな気持ちを保つことがより容易になるというおまけもついてきますね。

究極、観音様とか菩薩とか、仏様の類は、自分がどう思われるか、まったく気にしない境地に達している存在でしょう。自我を超越しているでしょうから。

そのほうが、余計なエネルギーを消費せず、偉業を成し遂げられるのだろうと思います。

 

 

 

 

病気の原因

近年、寿命は延びたけれど、病気になる人は増えているようです。日本人の二人に一人はがんになるとききますが、がんに限らず、病気はすべて、体や心にたまった毒素が原因なのだと思います。逆にいうと、体や心に毒が蓄積しなければ、病気にはならないはずです。

今日、普通に暮らしていても、私たちは日々毒を体に取り入れています。大気汚染、水の汚染、それを浄化する消毒薬、電気製品の電磁波、農薬、添加物、化学薬品…。今の文明社会では、どんなに気を付けていても、これらの有害物質から完全に逃れることができないようになってしまっています。偽りの豊かさと引き換えに、大きな犠牲だなとつくづく思います。

体内に取り入れる毒素に関しては、できるだけ添加物を避けて、農薬が使われていない野菜や果物を選び、薬も必要最低限にする等、気を付けること、あとは体内の毒を排出してくれるものを摂取することで、蓄積を防ぐしかないと思います。体のことに関しては、私は専門ではないので、これ以上の言及は控えておきます。

体に毒素がたまっていなかったとしても、もし心に毒素が長年蓄積していたら、やっぱり病気になってしまいます。これは心の病気だけでなく、体の病気もそうです。臨床現場で大勢のケースを見てきて、私はそう確信しています。

心に毒素をためるというのはどういうことかというと、一言でいうと、怒り、恨み、ねたみ、悲しみ、無力感、絶望感、といった未消化の強い感情のことです。怒りや悲しみや嫉妬心を感じることは、誰にでもあることで、それ自体は自然なことであり、いい悪いはないのですが、問題なのは、それをいつまでも手放さず、心にとどめてしまうこと。そうなると、精神的苦痛が生じ、必然的に不幸せな人生になってしまうのみならず、鬱や不安障害などの心の症状に至ることも少なくありません。通常、否定的な思いの蓄積は、目に見えない形で心の症状という形で出て、それでも本人が原因に気づかず改善の努力をしなければ、最終的に目に見える形で体に出ます。

心の毒素とはなにか。

具体的にいうと、たとえば

「どうしてあの人が幸せなのに自分は不幸せなんだろう。」

「私の不幸はあの人のせいだ。」

「許せない。仕返しをしてやる。」

「なにもかも私のせいだ。私は幸せになる資格はない。」

「私は恥だ。」 

など思いです。その思いが強く、かつ、長い間心にとどまっていればいるほど、有害です。

体の毒もそうですが、心の毒も、生きていれば毎日生じるのは仕方がないことだと思います。生きていると、毎日いろいろなことがあり、何らかのストレスが生じるものですから。

大切なのは、それが蓄積しないよう、こまめに流して心を清浄に保つことだと思います。

できれば毎日、自分の想念や感情を確認し、ネガティブな思いや気持ちが見つかれば、自分の心をケアし、意識を清浄に保つよう心掛けることが、病気の原因を作らないためにとても大切だと思います。

 

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「アメリカン・スナイパー」を観て

先日、「アメリカン・スナイパー」のDVDを観ました。

イラク戦争で、160人の敵を打ち殺し、伝説の男と言われたアメリカ人兵士を主人公とした実話で、その人の心理に興味があったので、以前から観てみたいと思っていました。

実際に観てみて、戦場のシーンが多く、彼の心理描写は思ったより少なくて、ちょっと物足りない気がしましたが、いろいろ思うところがありました。

彼が殺した160人の中には、自爆テロを実行しようとした子供や女性もいた。イラクでは、こんな残酷なことが、毎日行われていたのか、と改めて思いました。

この兵士は、愛国心が強いあまりに、自分のやっていることに疑問を持たず、人を打ち続けたようですが、そんなに多くの人を殺し続けて、人間の心がおかしくならないほうが不自然だと思います。なぜなら、人間の潜在意識に原初から備わっている良心に反する行為を続けると、必ず反動で心が悲鳴を上げるものだから。

彼には国や仲間を守るためという正当な理由があり、彼自身にとっては正しいことだったのでしょうし、何が正しくて何が間違っている、と二元論的な議論するのは無益でしょう。一方から見たら正しいことは、他方から見たら間違っており、その逆も真なり、というのが、この世に蔓延する二元論的な世界観なので。

でも、宇宙的な大きな観点から見ると、人を傷つけることは、自分を傷つけることに他ならない、というのは紛れもない真実であり、誰も逃れられない法則なので、殺しだ分だけ、彼の心には深い傷が刻まれたのではないかと思います。

かつ、生きるか死ぬかの戦火の中で、常に緊張を強いられ、感覚を研ぎ澄ませ、ぎりぎりの判断を求められる任務に長くついた後遺症として、この人は無意識のうちに、母国の安全な場所においても、闘うか逃げるか反応を起こし、常に過剰なストレスがかかった状態で生きなければならなくなります。妻と訪れた病院で、血圧を測ったら異常に高かった、というのがそれを物語っています。そして、少しの刺激でも過剰に攻撃的で暴力的な反応を起こすようになっていく。

加えて、de-personalization、de-realization、つまり離人症、非現実感に悩まされ、体は安全なアメリカにいても、脳内の音や映像は、戦場のそれを再現し続け、心は戦場にいるままになってしまう。

これは、PTSD特有の症状で、感覚をつかさどる右脳が過剰に活発になり、論理的思考や現在という時間観念をつかさどる左脳が不活発になっているためだと思われます。また、危機的な状況に長くさらされた結果、危機をとらえる動物脳が働きすぎ、社会脳である前頭葉が鈍化してしまっているので、社会的な関わりを持つことができなくなってしまう。奥さんや子供とも、人間的な温かい関わりを持つことができなくなってしまった。

これが、「伝説の男」と呼ばれる偉業の代償でした。

ネタバレになりますが、彼は、同じくイラク戦争の帰還兵で心が病んだ男と関わったがために、不本意に悲劇的な死を遂げます。

戦争がもたらす代償は、いつでも、とてつもなく大きく、悲劇的です。この映画を見ながら、そんな代償を払ってまでする意味のあった戦争だろうか、と疑問に思いました。

そして、「誰のものでもない地球を、境界線で分けて互いに殺しあうなんて、人類はなんて愚かで幼稚なんだろう」、といつも思っていることを、改めて思った次第です。

 

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父親像

先日、久しぶりに旧友とお茶をしました。

私が長年勤めた職場を辞めて、子育てのカウンセラーとして働いていることを話したら、彼女は唐突に「やっぱり、父親って可哀想だよね。」と呟きました。

彼女は、父親が癌と宣告されてから、亡くなるまでのことを振り返っていました。
父親が癌であることを聞かされた時は、ショックで何とかしてあげたいと思い、思い出をたくさん作ろうと旅行に連れて歩いたり、ドライブに連れ出したり、癌に効くサプリメントを探してはプレゼントしたり、一生懸命だったと。でも、小さい時から感じていた身勝手な父親という感覚が拭い去れなかったので、身の廻りの世話をやいたり、父親の不安を聞いてあげようという気持ちにはなれなかったと。

彼女は小さい時から母親の愚痴の聞き役であり、愚痴の半分は、父親に対するものであった。だから、父親は身勝手な人という感覚が彼女の中に住みついたのだ。父親が癌になってからも、それは変わりなかった。

父親が亡くなってからは、彼女は母親を支えるために今まで以上に重要な立場を担っていった。毎日毎日、泣きながら夫との生活を振り返り語る母親の傍に居続けた。

それは、彼女にとっては、小さい時から習慣なので全く苦痛ではなかった。むしろ、話を聞いてあげることで、母親が元気になっていくのを実感でき、彼女の安心にもつながっていた。

ただ、一つだけ、母親を恨みたくなる時があるそうだ。それは、彼女の知らない家族思いの父親像が、母親の口から語られた時だ。思い出は美化されると言うけれど、実は、いい父親で、いい夫であったエピソードが語られると、彼女は、親身に介護してあげれなかった自分を責めるのだそうだ。

彼女にとって、父親はどこか遠い存在で、二人の関係はぎこちなかったそうだ。自分の弱みを見せることもなかったし、父親も同様だった。何処となく、心の距離を感じていたという。だから、彼女の父親像は自分が目で見て感じた父親像ではなく、母親から聞いた身勝手な父親像だったのだと亡くなってから気付いた。そのことがとても悔しいと。

彼女の話をひとしきり聞いた後、私もつい「なるほど、確かに、父親って可哀想だ。」と呟いた。

でも、ありがちな話だ。
まして、彼女の祖母は格式高い家の生まれなので、嫁である母親にはかなり厳しかったらしい。彼女の母親は、辛い気持ちを外で話すこともできずに、優しい気持ちを持った彼女に話すことで支えられてきたのであろう。

それにしても、亡くなった後で、覚える後悔の念は、かなり辛いものがあるだろう。

さらに、彼女は言った。
「だからね、私は、子どもにはお父さんのいいところをいっぱい話すようにしているんだ。絶対、愚痴は言わないの。そしてね、子どもに相談された悩みのうちね、肝心要な相談事はね、直接お父さんに相談するように言うの。そうすれば、お父さんと子どもの心の距離が近くなるでしょ。結果、いざ、夫が介護が必要になった時、子どもにちゃんと看取られるだろうし、子どもも後で後悔することないでしょ。」と。

私は、ずっと感心して聞き入っていました。そして思いました。

彼女は強い。そして、優しい。後悔の念を抱きつつも、母親の辛さを理解し、その経験を自分の子育てに生かしている。素敵なお母さんだ。その素敵なお母さんを育ててくれた彼女の両親もまた素晴らしいと。

                         

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                                                                                                                            (佐々木 智恵)

コールバーグの6段階の道徳レベル

社会・心理学者のコールバーグは、道徳や倫理の規範を、次の6つの段階に分けて考えました(Kohlberg’s six stages of morality)。 

正しい行いをする理由が

①罰を避けるため

②ご褒美をもらうため

③いい人だと思われたいから

④法律を信じているから

⑤社会の決まり事を信じているから

⑥自分の心に照らし合わせて、正しい・間違っていると感じるから

 

今の社会においては、子供のしつけや学校教育は、まだ①、②あたりが主流であり、大人になっても、社会はせいぜい⑤あたりまでを規範として動いているように思います。

私個人としては、法律よりも社会制裁よりも、自分の良心の方が怖いので、なるべく⑥を基準として生きたいなと思っています。

けれども、何が正しくて、何が間違っているとみなすかは、人によって違いますよね。

正解って、本当はないんだと思います。

カウンセリングをしていて、何かを質問したとき、たまに、正しい答えを言おうとして一生懸命になったり、間違った答えを言わないか心配して、口ごもってしまうクライアントさんがいらっしゃいます。

そういうとき、私は、

「思ったことをそのまま言っていいですよ。正しいとか間違っているとかないから。」

といいます。

なぜなら、その人がその時本当にそう思ったなら、その答えはその人にとって真実なのだから。

私がセラピストだからといって、私の言うことが、その人にとって正しいとは限らないのです。

ちなみに、カウンセリングのとき、私は誘導尋問をしないように、極力気を付けています。誘導尋問というのは、質問する際に、こちらが想定した正解にたどり着くよう、相手を導くことです。

私がなにかを質問するときは、通常、その人の中に何があるのか、純粋に知りたいと思ってしているので、こちらで答えをあらかじめ想定せず、白紙の状態でしています。

そのほうが、私の限られた思考に制限されたりせず、想定もしなかった役立つ情報が、クライアントさんの中から出てくることが多いのです。

話が少しそれましたが、もし、他の人を感心させたり、喜ばせたり、それが社会に受け入れられそうな無難な回答だから、というのを基準に答えを見つけるなら、それって、誰にとっての真実?と思います。

一人一人が、自分にとっての真実を追求して、自分の心が正しいと信じることを行っていくなら、自分以外の誰かの真実にしたがって生きる、一見楽だけど本当は苦しい生き方をせずに済むはず。そして、(今まで何度も歴史の上で繰り返されてきたように)人々が周りに流されて、社会が誤った方向にいってしまうことも、防げるんじゃないかな、と思います。                                                                                                                                                                                                                                             (Chika)                                                                              

 

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嫌なことから逃げないと・・・

嫌だなあ、逃げ出したいなあ、と思うことから逃げないで、その時の自分にできる最善を尽くして、真摯に向き合うと、たいてい、心配していたよりはうまくいく上に、なんらかのご褒美がもらえます。

最善を尽くしてもうまくいかないこともあるけれど、それはそれでしかたがない。

うまくいかないことにも、意味はあるのだから、それでかまわないと思う。

大事なのは、うまくいくかいかないかよりも、その時の自分が誠実であったかどうかだと思います。    

                                       (Chika)

 

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