盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

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謹賀新年

2023年、生きとし生きるものが癒され、満ち足りて、平和な世界になっていきますように。みなさんにとって、光ある1年になりますよう、お祈り申し上げます。 今年もよろしくお願いいたします。

ダライ・ラマの見た西洋世界

ダライ・ラマ自伝(ダライ・ラマ著 山際素男訳 文春文庫)の中に、こんな一文がありました。

(前略)西欧社会の考え方にいくつかの疑念を抱くこともある。その一つは、物事を”白と黒”、”あれか、これか”で考え、相互依存性、相対性を無視する傾向である。つまり二つの観点の間には灰色の部分が必ずあるという目が欠けているように思われる。

  また、こうも思う。大都市で便利に暮らしている人々の多くは、実際には大勢の人間から孤立して生きているのではないか、と。これほど物質的に恵まれ、近隣の何千という人間のなかに暮らしていながら、猫や犬にしか心を開くことができない人がなんと多いことか。どこかおかしい気がする。これは心の貧しさを意味するのではないだろうか。またもう一つには、これら諸国の厳しい競争社会、そこから生み出されるおそれと人生への深い不安感があるように思う。

これは、中国のチベット侵略後、インドに亡命し、ダラムサラに亡命政権を樹立した後、 欧米諸国を訪問するようになった ダライ・ラマ法王が、 旅先で目にした光景から得た感想なのですが、その鋭い洞察力には感服します。
しばらく住んで、その国に入り込み、内側からその国の文化を体験したわけではなく、忙しいスケジュールの中、外から垣間見ただけでしょうに、ここまで奥深く見通せるとは、さすがの叡智ですね。

以前、メキシコに4年ほど住んでいたとき、貧しい人が多かったのですが(ただし階級社会なので、お金持ちはとてもお金持ち)、人々の心は日本やアメリカなどの先進国より豊かだと思いました。人々が温かく、親密な文化なので、 お互いの距離が近すぎて干渉的だと感じる場合があるかもしれませんが、その一方で、人が孤独になるということがあまりない社会でした。当時、大家さんの家の2階で一人暮らしをしていたのですが、近所の家の人が表に椅子を出して1日ひなたぼっこをしており、家に帰ると、留守の間に誰が訪ねてきたとか、荷物が届いているとか、逐一教えてくれました。数日、外に出ないでいると、大家さんはもちろん、友達や近所の人など、いろんな人がとっかえひっかえ、どうした、何かあったのか、と心配して見に来ます。だから、うかうか引きこもっていられません。孤独死なんて不可能です。兄弟や親戚も多くて、中流階級以下は一つの家に大勢で住んでいることが多いので、プライバシーはないけど、人間同士のつながりが濃く、そのせいか、自殺率がとても低い社会だと聞いています。鬱などの精神疾患もあまりなかったように思います。人々は概して明るくて、貧しい人同士、助け合って暮らしていました。物乞いの人はたくさんいたけれど、貧しい人ほど気前がよくて(お金持ちの特権階級の人のほうがケチでした)、みんなよく小銭を寄付したり、ちょっとした仕事を与えたりして、助けたりしていました。

だから、上記のダライ・ラマの記述は、とてもよくわかります。日本やアメリカのほうが、人々の顔つきが暗くて、不幸せそうに見えますし、社会にストレスが多く、不安や恐れが蔓延しているように思います。

ダライ・ラマというと、メキシコに住んでいたころ、知人のメキシコ人の運転手が、私が何気なく手に取った、車に置いてあったボールペンを見て、それ、ダライ・ラマがくれたペンだよ、といったので、とても驚いたことがありました。彼はダライ・ラマがメキシコに来た時に運転手を務めたそうです。「どんな人だった?」と聞くと、「英語が上手で、気さくで、ちっとも偉そうじゃなくて、いい人だったよ。インドに帰った後、お礼状とハンカチが送られてきたよ。」とのこと。お人柄がしのばれるエピソードですね。

余談ですが、ダライ・ラマの自伝を読んで私が思ったこととしては、なるほど、菩薩というのはこういう人なんだろうなということ。幼少期からとても頭脳明晰な人のようで、記憶力や理解力、洞察力も抜群だったようですが、一方で、先が見通せる千里眼があるわけではなく、怒ったり、悲しんだり、苦悩したりもする、一人の人間です。けれども、エゴが非常に少なくて、自分より人、衆生を苦しみから救うこと、 世界の平和を常に考えている人。慈悲の心を高め、人格を向上させる為に、ストイックに修行に励んでいる人という印象を受けました。

ダライ・ラマがおっしゃる通り、今の先進国、「文明社会」の在り方は、どこか間違っていると思います。物質が豊かにしてくれるのは、表面的な生活だけで、それだけでは心が満たされないことはないこと。競争社会は争いを生み、人々を分離させ、心を貧しくしてしまうこと。この世界は白黒では割り切れず、たいていグレー、中間色なので、白黒の考えで生きようとすると現実にフィットしない。それどころか、ことあるごとにストレスを感じる、苦しい生き方になってしまうこと。そんな矛盾を抱えているのが、私たちが住む、先進国の現状ですね。

これからは、物質的な豊かさだけではなく、心も豊かになるような世界になっていけばいいなと思います。

 

焦りの意味すること

焦りって、自分が感じる心地よいペースと、頭で追おうとしている目標との間に、ズレがあるとき、生じる感情なんですね。

先日、こんなことがありました。

海外からアメリカ人の友達が2人遊びに来ていたもので、色々なところに観光案内したのですが、時間が限られていて、連れていきたいところ全部を回りきれない状態でした。

平泉の世界遺産、中尊寺や毛越寺を回った後、猊鼻渓という、舟下りができる渓谷にも連れていきたい思ったのですが、あんまり紅葉がきれいで、ゆっくり見ていたもので、もう時間ぎりぎり。その後の温泉宿のチェックインに間に合わなくなるかもと思ったけど、思い切って向かいました。

もう時刻は夕方。猊鼻渓の舟下り自体、最終の舟が出る時間ギリギリになりそうでした。

それでも、もう少しで着く、なんとか舟に乗る時間も確保できそうというときに、こともあろうか、車で道を通り過ぎてしまいました。すぐ気づいてUターンして戻ったら、今度は別の道に入って少し迷ってしまいました。

ああ、どうしよう、間に合わない、と焦りつつ、猊鼻渓に到着。今から舟に乗ったら、予定の時間をオーバーしてしまい、宿の人に迷惑がかかる。ということで、ここまで来たけど舟下りは断念することに。アメリカ人の友達は、2人ともいい人たちで、「全然いいよ、途中の景色だけで十分楽しいもの。」と言ってくれました。

でも、せっかく来たんだからと、舟つき場を見て、お土産屋さんを物色することにしました。

その頃にはもう、日も暮れて暗くなってきており、それまで天気予報以上にお天気がよくて、なんとか持ってくれたのが、ようやく雨が降り始めました。

その時、アメリカ人の友達が言ったこと。

「雨に濡れなくて済んだから、舟に乗れなくてかえってラッキーだったね。道に迷ったのは、舟に乗れなくなるようにっていう、天の計らいだったね。」

なるほど、本当にそうだ。

その時、舟着場の方から、舟を降りたばかりの、着物姿の花嫁と花婿がやって来て、アメリカ人の友達は「わあ、着物だ、花嫁さんきれい!」と大喜び。舟上でウェディングがあったみたいで、そんなめったに見れないものを見て、一層、ラッキー感が増しました。

このできごとで思ったこと。内心、間に合わないと焦っていたけど、無理やり行こうとしていたのは、心と頭のギャップに他ならなかった。心では、舟に乗らないほうがいいとわかっていた。舟に乗ってしまったら、最後まで心は焦るばかりだったでしょう。だって、本当に帰りが遅くなりすぎて間に合わなかっただろうから。でも、舟に乗らない選択をしても、大丈夫だった。そのほうが、すべてうまくいったのです。

そして、それを教えてくれるサイン、自然に間に合わなくなるできごとが、ちゃんと起こってくれる。

頭で考えたことではなく、自然に任せること、心の感覚、直観に従うことの大切さを、改めて思い知らされた経験でした。

効果的でない感情の解放の仕方

ゲシュタルト療法のセミナーに行ってきたという知人に、その内容を聞いて、驚いたことがあります。

ゲシュタルト療法には、空椅子療法という手法があります。誰も座っていない椅子を前に置いて、架空の相手との対話で感情を引き出すやり方なのですが、そのセミナーでは、「毒親」のお母さんをイメージしながら、お母さんを棒で叩くことをしていたそうです。(ちなみに、私は「毒親」という言葉があまり好きではありません。自分の苦しみを他者のせいにして、被害者意識を強めてしまい、苦しみから抜け出すことを困難にしてしまう効果があるので、気をつけたほうがいい言葉だと思います。)

「あんなことするんだ、ってびっくりしました」

と、知人は言いました。

私は率直に、それはあんまりいい方法ではない、そのセミナーの主催者は何か勘違いしていると思う、とその知人に伝えました。

感情を傷つけられた相手に対して、イメージ上とは言え、暴力をふったりすることは、感情の癒しにはならず、却って逆効果です。人を攻撃することで心が癒されるということは、本当の意味ではありえないからです。

人は潜在意識のレベルではみんなつながっており、一つです。ゆえに相手を傷つけることは、奥深い部分では、自分を傷つけることになるので、空椅子でお母さんを棒で殴って、表面的、一時的にはスッとした気がしたとしても、モヤモヤしたり、後味の悪さが残ったりするでしょう。お母さんに対する怒りや恨みが、減る代わりにエスカレートし、かえって強化されてしまう可能性もあります。

空椅子の上のお母さんに、暴言を吐いたり、暴力をふるったりするよりは、お母さんの行為によって、自分がどんな気持ちになったか、どんなに傷ついたか、本当はどうしてほしかったか、伝えるほうが効果的ではないでしょうか。

「お母さんはひどい」という、you statement (「あなたは」を主語にした言葉。相手を批判したり攻撃したりするニュアンスになりやすい)ではなく、「自分は腹が立った、悲しかった」という、I statement(「私は」を主語にした言葉。相手がどうこうではなく、自分の気持ちに言及)を使うのですね。

お母さんが「毒親」で辛い子供時代だった、という場合、通常、裏を返せば、本当はお母さんに愛されたかったのに、愛されなかった、という悲しみがあります。怒りより、その悲しみのほうが、心の深い層にある真実です。そちらのほうに光を当てて、言葉にし、表に出してあげるほうが、より深い感情の解放になります。

人間は誰でも、手つかずの状態では、無条件の愛を持って生まれてきます。子供は生まれながらにして、親がどんな親だろうと無条件に愛します。例えば、どんな容姿だろうが、声だろうが、障がいがあろうがなかろうが、関係なく、子供は親を慕いますよね。もし親が、時々感情的になったり、理不尽なふるまいをしたとしても、根本的に無条件の愛を持ち続けて子供に接することをすれば、子供は親を愛することを決してやめないものです。

でも、なんらかの事情で、親が無条件の愛を子供に表現できないとき、子供は親に愛されないと感じて深く傷つきます。「お母さんを愛している。お母さんはかけがいのない存在だ。そんな大事な人に愛されないことはとても傷つくことだ。もっと自分を愛してほしかったのに、辛い」と感じるわけです。

毒親に対する傷つきの根本にあるのは、怒りではなく、愛なので、そちらにフォーカスして表現するほうが、自分の本当の心と一致して、カタルシスになると思います。

ラジオ出演

先日、公共機関のお仕事の関係でご依頼いただき、FM岩手の凸凹チャンネルという番組で、ゲスト出演させていただきました。

先週の金曜日の放送から出ているのですが、明日もAM10時45分から、10分弱の短い間ですが、少しお話させていただいています。

収録なので、編集があり、どの部分が使われているかわからないのですが、ご質問に答える形で、マインドフルネスや、感情の扱い方などのお話をしました。

8月5日まで、毎週金曜の同じ時間に放送となります。

もし電波が入り、お時間があって、興味があれば、聞いてみてください。