盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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アメリカの日々

人生のような曲

ブラームスの間奏曲、Op.118-2。

この曲を聴くと、大学院を出て、カウンセラーという職業に初めてつくために、ミネソタ州からニューメキシコ州を目指して、車を走らせていた時のことを思い出します。

距離にして2000キロ以上を、3日ほどかけてドライブし、4つの州を越えて、ようやく、これから住むニューメキシコ州が見えてきたとき、これから始まる仕事で、どうか大勢の人の役に立てますように、一人でも多くの人の苦しみを救うことができますようにと、祈りを込めながら、大好きなブラームスのこの曲を聴いて、決意を新たにしていました。

人生の苦しみを美しく昇華させたようなこの曲は、深い癒しと慰めをもたらすように感じます。

ブラームスは、あまり多くの人に語らなかったようですが、よく、霊感に打たれて曲を作っていたそうで、この曲もその一つなんだろうと思います。大いなる力の働きが、辛い思いをしている人たちの助けとなるよう、ブラームスを通じて、顕現している曲。ベートーヴェンもそうですが、多くの天才は、一種の依り代のようなところがあるなと思います。

カウンセラーになった理由

たまに、「先生は、どうしてカウンセラーになったんですか」と聞かれることがあります。

私にとって、心に痛みを抱えている人たちと関わり、苦しみを喜び変えるお手伝いをすることは、それ以外の職業はあり得ないライフワークであり、ごく自然に導かれたことでした。

思えば、今まで生きてきた道のところどころに、そうなるような導きがあって、どうあってもこの仕事に到達するように、人生が仕組まれていたと思います。

私が、人生というものが、そもそも、辛く苦しいものであるということを知ったのは、子供の頃でした。そして、今、考えると、これは幸いだったと思うのですが、子供心に壮絶な心の苦しみを抱えている自分を理解し、助けてくれる大人は、周囲に誰もおらず、世界に一人ぼっちのような孤独感をたくさん味わいました。

それにより、私は、誰にも頼ることなく、自分で工夫をして、自分の心をなんとかして救うということを強いられ、何年もかかって、それができるようになっていきました。

自分以外に自分を救える人はいない、そしてそれができるようになるのは、最強であるということを、身をもって知ることができたこと、また、自分の苦しい体験によって、人の苦しみが手に取るようにわかる、共感力を身に着けることができたことは、恩恵に他なりませんでした。

だから、私は自分の生い立ちを振り返って、不幸だったとは思っていません。すでに過去の苦しみを浄化しているので、特に辛い感情がよみがえることはなく、ただ、大変有意義だった、必然の体験だったと思うだけです。

辛いことがたくさんある=不幸とは限りません。どんな体験も、裏を返せばギフト(=贈り物)なのです。

学校時代は文系、特に英語が得意だったので(理数系は全然ダメでしたが)、英語に力を入れている大学に進学して、アメリカ文化を専攻し、アメリカインディアンの文化や悲惨な侵略の歴史に興味を持ちました。

日本の大学を卒業後は、就職する道を選ばず、アルバイトをして貯めたお金を元に語学留学し、そのうち機会に恵まれてアメリカの大学に編入して、社会学と文化人類学を専攻。特に、社会の底辺で生きる人たちの苦しみ、社会の不平等さに強い関心を抱きました。

アメリカの大学を卒業後はいったん日本で働いた後、メキシコのユカタン州でマヤ族の人たちの間で暮らし、またアメリカに戻って、ご縁あってインディアンの居留地に住みました。

そこでは、文化をめちゃくちゃに破壊されて心を壊された先住民たちの悲惨な現状を目の当たりにしました。親は子供をネグレクトし、子供は小学高学年から麻薬やアルコール依存になり、子供を含めた住人の確か7割がアルコール依存。子供は十代になるかならないか犯罪を犯すようになる。事故(飲酒運転、冬に酔っぱらって道で凍死もよくある)、殺人(喧嘩、酔っぱらったインディアンが白人に殺されることもよくある)、自殺、麻薬やアルコールの乱用などにより、平均寿命は50代。これが、アメリカ先住民の実態でした。オーストラリアのアボリジニーや、カナダのエスキモーなどの先住民も、同様だと聞いています。

カウンセラーになりたいという思いは、それまでにも往々にして頭に浮かんだことがあったのですが、本当になろうと強く決心したのは、アメリカインディアンの人たちの間で暮らし、その悲惨で、希望のない生活を、肌で知ったからでした。この人たちの中で暮らすことは、自分も引きずり落されて鬱になりそうになる。だけど、どうせここにいるなら、自分はそうならずに、自分にできる 最善のことをしよう。この人たちを助けるために、大学院にいって、勉強をして、カウンセラーになるしかない。そう思ったのでした。

そうはいっても、最初のうちは、大学院に合格するだろうか、お金は続くだろうか、大学院の勉強についていけるだろうか、文化が違うのに、アメリカ人をカウンセリングしてやっていけるだろうか等、いろいろな不安や自信のなさがありました。

けれども、決めた道を進むうち、不思議なことに、すべての問題はクリアされ、やってみたら心配することはなかった、ということが次々起こり、気がついたら今に至っています。

大学院の勉強は、とても大変でしたが(何しろものすごい量の課題)、自分が興味がある分野なので、中学や高校や、大学での勉強さえも比較にならないくらい面白くて、スポンジのように脳が吸収して、身に着けることができたように思います。

大学院卒業後は、インターンを経て、アメリカのコミュニティのカウンセリング機関に就職し、日々、壮絶なケースのカウンセリングに追われました。

麻薬、アルコール、性的・精神的・身体的虐待・近親相姦は、日常茶飯事。自殺や殺人も珍しくない町で、何重ものトラウマで精神を病んでいる人たちが訪れ、私たちカウンセラーのスケジュールは毎日いっぱいでした。それでも、クライアントさんたちと関わることは喜びで(なぜなら、ほとんど例外なく、誰もが心の奥底はピュアで、光の性質を持っていましたから)、特に、何十年も苦しんできた人たちの苦しみが癒されたときは、何物にも代えがたい喜びをもたらしてくれました。

諸事情で、そんなアメリカ生活を切り上げて、帰国することになったのが、2011年、震災の年。日本語でカウンセリングやったことないけど、アメリカの資格で、日本で、職業としてカウンセリングをやっていけるだろうか、と不安に思ったのもつかの間。今でも、大好きなこの仕事を続けていけているのは、とてもありがたく、幸せなことだと思っています。

これからも、体が動く限り、私にとって、自己実現の最たる形である、この仕事を続け、自分ができる範囲内ではありますが、世界がよくなるお手伝いを続けていけたらと願っています。

聖なる山(2)

マウントシャスタにある木々は、うっとりするようないい香りがします。森林浴効果が抜群でした。同じ聖地でも、アリゾナにあるセドナは、行くと活力がわいてきて、一気に元気になるような場所でしたが、ここはそうではなく、とても繊細で精妙なエネルギーの場所でした。いつか、もう一度行ってみたいです。

シャスタ山の麓の森
最初に行ったときは、ハロー現象が起きていて、かなり長い間、日暈がかかっていました。

うっすら虹のようなものもありました。
湖もいくつかあります。とても静かで美しい場所でした。

聖なる山(1)

アメリカにある、マウントシャスタは、日本でよく飲まれている、クリスタルガイザーの水の源泉がある山です。知る人ぞ知る聖地で、何度か訪れたことがありますが、とても特別な場所です。木も水も、とても純粋なエネルギーにあふれていて、豊なのです。大昔の汚染されていない地球では、木や水は、こんな風だったのかな、という感じを受けます。

遠くからみたマウントシャスタ
頂上近くの水。これがクリスタルガイザーの源泉です。
水というより、光の道のようです。
マウントシャスタの近くには滝がたくさんあります。


アメリカ西部の風景

たまには趣向を変えて、アメリカから帰国する直前、2011年の冬に、アメリカ西部を1週間ほど旅した時の光景を、いくつかご紹介します。

大好きな場所のひとつ、モニュメントバレー。ユタ州とアリゾナ州にまたがる砂漠の岩山地帯です。

とても静かで落ち着くところです。いつまでも見ていたくなる光景で、アメリカに住んでいる間に、何度も訪れました。たしか、ここで、ネイティブアメリカンのハーブでできたハーブティーを注文して飲んでいました。。

アリゾナの砂漠地帯には、恐竜の骨や足跡が残っているところがあります。足跡は思ったより小さかったです。

昔、ネイティブアメリカンが住んでいた遺跡です。メサベルデという国立公園になっています。ここもとても静かで、いつまでもいたくなる場所でした。

これがメサベルデです。風の音だけが聞こえるような静かな場所でした。

アリゾナ州には、バリンジャークレーターという、直径1.2キロもの巨大なクレーターがあります。大きすぎてカメラに収まりきりません。

この旅の途中で、ハミングバードの形の雲に出会いました。セラピールーム・ハミングバードの名前は、ここから取ったものです。

アメリカ時代

アメリカでカウンセラーをしていたときのオフィスです。

アメリカでは、コミュニティカウンセリングエージェンシーのセラピストとして働いていました。

心理療法による治療が一般的なアメリカでは、カウンセリングを受けられるエージェンシー(会社)が、どんな街にもいくつもあり、保険がきくので、経済的に恵まれていない人でも安価で受けられるシステムになっていました。私の属していたカウンセリングエージェンシーには、複数のセラピスト(日本でいうと臨床心理士が一番近いですが、診断や治療ができる点で、日本の臨床心理士よりも精神科医に近いと思います)と一人の精神科医がいて、精神疾患の患者さんを心理療法と薬物療法の両方のアプローチから治療していました。その他、デイケアや、家庭訪問をするソーシャルワーカー、グループセラピーなど、手厚いメンタルヘルスのサービスが受けられました。患者さんにとっては、日本ではまだ考えられないような恵まれた治療環境だと思います。

犯罪と薬物が蔓延し、家族形態が崩壊しているアメリカでは、重度のトラウマの非常に多くて、私たちのオフィスには、いくつもの疾患名がつく重症の患者さんがあふれていました。オンコール(緊急電話)担当の週は、昼夜を問わず電話で呼び出されて、寝る暇もないほどでした。

写真は、約9年前のものです。

自分のカウンセリング用のオフィスには、来てくださる患者さんの癒しのために、色々なグッズを置いていました。机の上のシンシングボールは、グループセラピーのマインドフルネスの瞑想のときに使っていました。アロマのディフューザーもあります。卓上噴水を置いていたときもありました。

今思えば懐かしい日々です。

 

悲嘆のセミナーに参加して

9月の後半、アメリカのオレゴン州ポートランドで行われたセミナーに参加してきました。

2日連続のトラウマ解消のセミナーと、1日だけの悲嘆のセミナー、計2つ受講しました。

トラウマ解消のほうは、主にニューロフィードバックというコンピューター機器を使って脳の状態を変えるという手法についてで、いかにニューロフィードバックが素晴らしいかという話はたくさんあったのですが、肝心の、どうやってニューロフィードバックを使うかというのはなかったし(それについてはまた別にセミナーを受講しなければならないらしい)、ソフトを購入して機器を用意するだけでかなり莫大な費用がかかるようで、実際的ではないなと思いました。でも、経験豊富な心理療法セラピストがプレゼンターだったので、内容はそれなりに興味深かったです。このプレゼンターは、DBT(弁証法的行動療法)を編み出したマーシャ・リナハンと古くからの友人で、「昨夜もマーシャと電話して話したんだけど」などと言っていたのが、個人的には面白かったです。DBTは、境界線パーソナリティ障害の画期的な治療法として今でも盛んに使われており、私のセラピーにも取り入れて、とても役に立っていたので、マーシャの個人的な話が聞けたことはよかったです。

一方、悲嘆のセミナーのほうは、文句なしに興味深く、一流のセミナーで、とても感銘を受けました。プレゼンターは悲嘆の第一人者であるデビッド・カッセラー(David Kesseler)という人で、アメリカでは悲嘆の専門家としてテレビにもよく出演している人のようです。悲嘆の5段階のプロセスを提唱した、故エリザベス・キューブラー・ロスとも友達で、キューブラー・ロスが亡くなるのを看取ったそうです。

この人の何に感銘したかというと、まず、初めの印象から、とてもいい人だという感じを受けました。明るくて穏やかで優しく、ユーモアのセンスもあって話も面白い人というのが、最初の10分くらいでもう伝わってきました。最初、私を含め50人前後の受講者一人一人にマイクをまわして、自己紹介や、このセミナーを受講する理由を話させたのですが、その中で、自分自身が誰か大切な存在を亡くして、喪失を経験しているので、という人が何人かいました。それを聞くと、デビッドは必ず、「その人の名前は?」と聞きます。中には、犬やネコなどペットを亡くしたという人もあったのですが、そういう場合でも、「その子はなんていう名前ですか?」と聞きました。そして、皆の自己紹介が終わると、デビッドは言いました。「亡くなった人やペットの名前を言葉にしただけで、部屋の雰囲気が変わったのに気づきましたか?」亡くなった人を、ただ、名無しの状態で話すよりも、固有名詞を言葉にしたほうが、ずっと故人のイメージが形をとって具体的なものになり、その人に尊厳を与え、大切なものとして敬う雰囲気になる。だから自分は必ず亡くなった人の名前を聞くのだと言うのです。なるほど、素晴らしいなと思いました。

デビッド・カッセラーは、自分自身、強烈な喪失を体験した人です。彼は13歳の時、腎臓系の重病で緊急病棟に入れられた母親を見舞うために、父親と一緒に病院を訪ねた経験があります。その時、緊急病棟に入れるのは14歳以上と決められており、会えたとしても2時間に一度、一回5分という時間制限が設けられていました。看護師によっては子供のデビッドの心情を考えて面会を許可してくれる人もいたそうですが、中には規則は規則だといって、今日明日の命かもしれない母親に一目会うことも許さない看護師もいたそうです。父親は病院の前のホテルに宿泊するお金を持っておらず、デビッドと父親は、何日も病院のロビー寝泊りしていました。そんなある晩、その病院で火事が起こりました。その火事は普通の火事ではなく、銃を持った犯人の無差別大量殺人による火事だったそうで、結果として母親は亡くなり、デビッドは、専門用語でいうところの複雑性悲嘆に苦しむことになりました。自分の体験を意味のあるものにしようと、悲しみや苦しみを乗り越えて、デビッドは喪失や悲嘆の専門家になり、たくさんの本を書き、多くの人を救うに至ったのでした。

デビッドの講義でポイントなることの1つは、「喪失による痛みは避けられるものではなく、取り除くべきものでもない。しかし、喪失による苦しみは避けられる」というのものです。大切な人に先立たれて悲しむというのは、古今東西、あらゆるところで起こってきたこと。私たちの祖先から脈々と受け継がれてきた力が私たちには内在しており、私たちの心や体はそれに耐えられるように作られている。でも、喪失による苦しみは、私たちが頭(マインド)の中で作り出すものである。その喪失に関してマインドが何を話すかによる。「死んだのは自分のせいだ」「こんな死に方をさせるべきじゃなかった」などとマインドが私たちに話しかけると、苦しみが生じる。そのマインドのおしゃべりは変えることができるというのが、デビッドの主張です。

デビッド自身、悲嘆の苦しみに役に立ったのが、手紙を書くことだったそうです。亡くなったお母さんに対してのみならず、母親自身の立場から、また、父親、瀕死の母親に会わせてくれなかった看護師など、関りになる人たちの一人一人の心情になって手紙を書くことで、その人たちの立場を理解することができ、デビッドの苦しみはだいぶ救われたと話していました。おそらく、デビッドは、かつて看護師に対する恨みや怒りに長く苛まれ、苦しみを強めたのだと思いますが、「許し」に対する重要性も抗議のなかで説いていました。許すことは、過去の呪縛から解放され、嫌な人とのつながりを断ち切り、苦しみから逃れることであり、自分の中に平和を取り戻すこと。相手を罰するために自分の心の平和を犠牲にするのは、割に合わないことだと話していました。

デビッドは、マザーテレサが亡くなる1年前、会って話をしたそうです。その時、デビッドは、インドで多くの死に瀕した人を看取ってきたマザーテレサに、こんな質問をしたそうです。「悲嘆している人を助けるために、一番大事なことはなんですか。」マザーテレサは、(デビッド曰く)この人バカじゃないの、というような目つきをして、「その人に対する心からの愛をもってそばにいること。それだけです。」と答えたそうです。

デビッド自身、思いやりが深く、そばにいると慰められるタイプの人だと思いますが、彼のその存在から放つ癒しは、他者の苦しみに対する理解からくるものであり、それは、彼自身の苦しみによって心の深いところに培われたものだと感じました。

アメリカ旅行はハードスケジュールで肉体的には大変でしたが、素晴らしいセミナーに参加できて、オレゴンに住んでいる大学院時代の親友とも旧交を温められ、とても有意義なものになりました。行ってよかったなと思います。

 

オレゴンの森。

 

 

アメリカに行ってきました

アメリカのセミナー旅行から戻りました。

 

ニューメキシコ州のアルバカーキという町で開かれた3日連続セミナーに参加してきました。

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セミナー会場の様子。

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朝8時から午後4時まで、休憩をはさんで1日7時間のセミナーです。

内容は、認知行動療法の集中講座なのですが、サイコセラピスト(臨床心理・精神療法士)向けで、精神疾患の治療に役立つような実践的な内容でした。1日目は既に知っている基本的な内容で、正直退屈でしたが、2日目、3日目になると、うつ、不安障害、PTSD、薬物依存、強迫観念症から、各人格障害まで、色々な精神疾患にどう応用するかという具体的な内容に発展していて、なかなかおもしろかったです。

日本では認知行動療法の基本計が数年前からやっと少しずつ広まってきているようですが、アメリカでは認知行動療法はすでに使い古された療法(と私は思っている)で、現在はすでに第三波として、その発展形であるACT(Acceptance and Commitment Therapy)、マインドフルネス、DBT(Dialectical Behavioral Therapy=弁証法的行動療法)が確立しています。

私はどちらかというと、認知行動療法はPTSDや双極性障害のような深いレベルの心の治療には向かない、限界のある療法だと思っていて、今回も3日間連続で、まとめて免許更新に必要な単位が手っ取り早く取れるという理由だけで、このセミナーに参加したのですが、それなりに役に立つ知識も得られたので、まあ参加してよかったなと思いました。

認知行動療法の強みは、なんといっても、とても実践的で、具体的なスキルが数多く存在し、使いやすいという点だと思いますが、カウセリングのツールとして使える資料がたくさん手に入ったのはよかったです。(ただし、全部英語なので、日本語に訳さないと使えないけど。ああ、面倒くさい(-_-;)。)

 

セミナーを終えた後、2日ほど自由行動の時間を取っていたので、以前働いていた町に足を延ばしました。

 

人呼んで、覚せい剤の町。(覚せい剤以外の麻薬も蔓延していましたけど。)

 

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ギャングがたくさんいて、心を病んでいる人がとても多い街でした。仕事的にはとてもやりがいがありました。

当時のクライアントさんたちは、みんな元気かな~、どうしているかなあ、と思いを馳せました。

 

元同僚と会って、一緒にご飯を食べ、積もる話もしました。アメリカの料理は量が半端ないです。ギャル曽根じゃあるまいし、こんなものを全部食べたら、一晩じゅう胃もたれに苦しむ羽目になります。私はレストランで食べたら、半分残してお持ち帰りし、次の日のお昼に食べていました。ニューメキシコは、メキシコ料理がたくさんあるので、ここにいる間しか食べられないと思い、毎日のようにメキシコ料理を食べていました。

 

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ニューメキシコ北部にも足を延ばしました。ちなみにニューメキシコはUFOがよく飛んでくるとか、NASAの秘密基地があるとか言われているところです。UFOが墜落して宇宙人が生け捕りにされた、Rosewellという町もニューメキシコにあります。

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広島に落とされた原爆が作られたLos Alamosという町もあって、そのそばも通りました。

そういえば、ニューメキシコに住んでいた頃、Los Alamosの核爆弾の研究所で働いている科学者と、あるパーティーで一緒になったことがありますが、実験で使った燃料を川にそのまま流していると小耳にはさんで、びっくりしたことがあります。聞き違いかと思いましたが、初めて会う人だし、たくさん他に人もいて、聞き返して確認することができませんでした。もしかすると、核開発とか、原子量発電は、当事者の間では杜撰な管理が当たり前なのかもしれないと思います。本当は、安全というものはあり得ないのではないでしょうか。

 

ニューメキシコ北部の典型的な景色は、ジュニパーやピニョン(松の一種)が生えた砂漠です。

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砂漠の気候は、日中と夜の気温差が大きくて、夜や明け方はかなり冷え込むので、紅葉も日本より進んでいました。

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イーグルネスト州立公園というところに行ってみました。たぶん、日本人は誰もいかないところです。(こんなところまでわざわざ行く人はいない。)アメリカ人もあんまりおらず、静かでよかったです。

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公園内には、プレーリードッグという野生の小さい動物の巣穴がいたるところにあって、モグラたたきのごとく、あちこちから顔を出していました。

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リスっぽい顔だけど、日本語だと山ネズミっていうのかな。かわいらしい姿でキーキー鳥みたいな声で鳴きます。私が行くと、「人が来たぞ~!」「わかった!」と呼び合って、あたりの仲間に知らせあっているのがわかりました(←動物語が少しならわかる私)。

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その他、タオスとサンタフェという町に行きました。両方とも観光地で、ニューメキシコに典型的なアドビー(土で作った家)がたくさんある感じのいい街です。

 

サンタフェのプラザ(町の中心の広場)では、インディアンの人たちが、トルコ石のジュエリーをたくさん売っていました。

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キャメルロック(らくだ岩)。

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フリーウェイ沿いのインディアカジノの近くにあります。自然にできた岩です。

本当にラクダの形をしています。

 

締めくくりは虹の写真で。

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空が広いから、雨が降ると空のどこかにたいてい虹が見つかります。ダブルレインボーもしょっちゅう見ることができます。

 

実際のところ、今回の旅は、色々ハプニング満載で、思い通りにならないことばかりの旅でした(しょっぱなから飛行機が5時間近く飛ばず、乗り継ぎ便を逃すとか)。

でも、予定外のできごとって、anxiety mnagement(不安のマネージメント)や、decision making(意思決定)のスキルを磨く格好の経験なんですよね。最初から最後まで、想定外の出来事ばかりなので、途中から

「そらきた。次はなにかな。」

と、想定外を想定するようになりました。

大変だったけど、ハプニング満載だった分、かえって面白くて、とても楽しい旅行になりました。(^^♪

 

アメリカの3・11

5年前の3月11日、私はまだアメリカに住んでいました。

当時、テレビを見ない生活を送っていた私は、東日本大震災のことも知りませんでした。(ちなみになぜテレビを見なかったかというと、当時、悲惨なドラマやニュースさながらの壮絶な話を聴くのが日常だったため、オフの時までメディアに触れてそういう話にさらされたいと思わなかったからです。)

その頃、私の車での通勤ルートに、何十年もホームレスだった、あるクライアントさんの住むアパートがありました。彼は筋金入りのアルコール依存症で、初めて会った頃は砂漠の真ん中に寝て暮らしていました。その時は彼はまったく希望がない状態で、鬱がひどく、差し迫った希死念慮もあり、実行するためのピストルも砂漠に隠し持っていたので、とても危ない状態でした。でも私たちのカウセリングエージェンシーに来るようになって、精神療法やデイプログラムに加え、ケースワーカーもついて、ハウジングプログラム(無料で家をあてがうプログラム)に加入させることができ、なんとか人並みの生活ができるようになっていた人でした。(確か精神科医の薬物療法は拒否し、受けていなかったように記憶しています。)

彼は私が通勤する時間になると、いつもアパートの前に立ち、私が通る車に合図をするのが日課でした。2011年3月11日、いつものように朝、通りすがりながら彼を見たのですが、この日はいつもと違って、頭の上で大きく手を振って、今思えば、私に一生懸命合図を送っていたのです。

それから15分後、出勤して朝の準備をしていた私のオフィスに、このクライアントさんから電話が入りました。

「チカ、大変だ。日本で大地震が起こった。それだけ知らせようと思って。チカの家族や友達は大丈夫か?」

この人は電話を持っていなかったのですが、知り合いの電話を借りてかけてくれたのでした。その時、私は日本でどれほど大変なことが起こっているか知る由もなく、彼の知らせを受けても、

「日本の地震ならこっちでも時々報道されるけど、いつもたいしたことないから、今度も大丈夫だろう。」

と楽観的にとらえていました。想像をはるかに超えた規模の地震と津波が、私の母方の親戚たちの住む東北沿岸を襲ったことを知ったのは、その日、仕事が終わって帰宅してからでした。

岩手の沿岸に住むいとこに連絡を取ろうとしてもつながらず、その後、私は毎日、空いている時間はインターネットで親戚の安否確認をするのに費やしました。1週間ほどたって、津波の時刻仕事で陸前高田にいた、一番心配していたいとこの生存が確認できたときは、とても安堵したのを覚えています。

アメリカでも、東日本大震災は大ニュースでした。同僚も心配してくれましたが、それよりも、自分自身とても辛い思いをしているはずのクライアントさんたちのほうが、本当に親身になって心配してくれたのには、心を打たれました。

ある男性の重症のクライアントさんは、生活保護を受けており、お金の心配をいつもしているのにも関わらず、

「チカ、今日、赤十字に20ドル寄付しにいったよ。日本の人たちのことを考えたら、いてもたってもいられなかったよ。お気の毒になあ。」

と、涙を流してくれました。この人は不安が強く被害妄想的で、かつ、事故の後遺症で慢性的な痛みを抱えている人だったので、カウンセリングに来てもいつも怒った顔をしていて不機嫌な人だったのですが、本当はとても優しい心をもった人だったのです。

東日本大震災は、世界中の人の善意や祈りが国境を越えて、日本に集まった時でもあったと思います。そして、自分が傷ついて、辛い思いをしたことのある人のほうが、他人に対して優しくあり得るものです。思いやりは人と人をつなぎ、双方の心を満たします。憎しみや争いや競争が、人と人を切り離し、双方の心を荒ませるのとは真逆に。

震災で亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、生きておられる被災者の方のお気持ちも癒されるようにお祈りいたします。

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昔のオフィス

過去の写真のデータを見ていたら、なんだか懐かしい写真が出てきました。

 

アメリカにいたときのカウンセリング・オフィスの一画。

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壁に貼ってあるのは、自分で描いたパステルアート。絵はへたくそですが、パステルの淡い色は癒しになるかなと思って貼っていました。

太陽の光の写真を何枚か飾っていたら、ある日、いつも週末にオフィスを掃除してくれるおじさんが、手作りのフォトフレームに、雑誌から切り抜いた光の写真を、プレゼントしてくれました。(一番左のがそれ。)月曜日に来たら机の上に置いてあり、びっくりしました。

ぬいぐるみは、リサイクルショップから買ったものか、クライアントさんにもらったものばかり。真ん中へんの服を着たクマのぬいぐるみは、野球狂の双極性障害のクライアントさんからもらったもの。彼の好きな野球チームのロゴ入りの服を着ています。その隣の小さいぬいぐるみ2つは、ホームレスのクライアントさんが、多分ゴミ箱から拾ってきたもの。ぬいぐるみが座っている椅子は、器用な彼が、拾った材料から手作りしたものです。

 

 

こっちは、共有のキッチン兼休憩室の一画。

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おなかがすいたときは、缶の中に小銭を入れて、スナック菓子を買って食べていました。壁に貼セミナーのパンフレットが貼ってあります。時々セミナーに通ってスキルを磨くことは、カウンセリングの免許の維持のためにも必須。アメリカのセミナーは高いけれど、経験豊富な専門家から、最先端の技術や知識が学べて、とても興味深いので、私は大好きでした。今でもオンラインセミナーやDVDセミナー、1~2年に一度は渡米して現地でセミナーを受けています。

                                                                                                                                (Chika)