盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

お問合せ: 019-681-2268 (完全予約制です。ご予約の際は、留守電にご連絡先を残していただくか下記お問い合わせフォームよりメールでご連絡ください。)
☆営業時間:9時~18時  定休日:第二、第四土曜、日曜、祝日

このエントリーをはてなブックマークに追加


サイコセラピスト(心理療法士)として、のべ8,000人以上のクライアントさんの心の治療に携わる過程で、私は、痛みのあまり見ないふりをしたり、抑圧し続けた心の傷が、長い間に重度の精神疾患や精神病を作り出し、最終的には、細胞レベルに蓄えられた感情的な痛みが、身体的な痛みや疾患となって表面化するケースを、数多く見てきました。

また、感情的な痛みが癒されないまま、意識に潜在しているがために、知らず知らずのうちに自らを傷つけるような行動パターンを形成して、自分にとって幸せではない環境や人間関係を引き寄せてしまう、といった状況も、カウンセリングの現場ではよく見かけます。このような幸せではない現実は、その源となっている心の傷に自ら気づき、その痛みを癒して解放するまで、続きます。

幸い、体と同様、心にも、自己治癒力、本来のバランスのとれた状態に戻す、自己回復機能があります。今、置かれている境遇がどんなに辛かったとしても、人は誰でも、それを乗り越えて、光の差す方へと伸びていく力を、必ず内に秘めています。どんな深い心の傷を負ったとしても、過去の痛みを癒して幸せになる力は、私たち一人一人の中に潜在的に備わっています。過去の傷が癒されれば、私たちは、現在において、よりよい選択をすることができ、結果として、幸せな未来を創造することができるのです。

セラピールーム・ハミングバードは、さまざまな精神療法を用いた心理カウンセリングを通して、クライアント様ご自身がもつ癒しの力にアクセスし、よりよい現実を築くためのためのサポートをいたします。



   
このようなお悩みで生きづらさを感じていませんか

うつ気味である、虐待やいじめによるトラウマを克服したい、自分はアダルトチルドレンだと思う(※「アダルトチルドレン」は、正式な精神医学用語ではありません)、不安感が強く、いろいろなことが気になって仕方がない、人前に出たり外出するのが怖い、いつも緊張気味でリラックスできない、自分が好きになれない、自分にもっと自信を持ちたい、パニック症状、強迫観念、虚無感や無意味感がある、喪失感や罪悪感に苦しんでいる、依存症を克服したい、解離性人格(多重人格)の傾向がある、対人関係がうまくいかない、子育ての悩み・子供の発達の問題

その他、様々な心に関するご相談を、プロの心理療法士が承ります。まずはお気軽にお問合せください。


  

          

  

ブログ

エネルギーを強めるものと弱めるもの

私たちのエネルギーは、私たちが摂取する食べ物や飲み物、接する人や身を置く場所、私たちが抱く思考や感情によって、増えたり減ったりします。私たちのエネルギー、すなわち「氣」が損なわれずに十分あれば、人は「元気」でいられます。今回は、私たちの氣を増やして強化するもの、減らして弱体化するものについて、お話したいと思います。

まず、食べ物や飲み物でいうと、添加物がたくさん入った加工食品はエネルギーを低下させます。肉や脂っこいものも、消化に多くのエネルギーを要するので、体に負担がかかります。江戸時代の飛脚は、当時の日本に肉を食べる習慣がなかったため、豆製品からたんぱく質を摂っていました。ある時、飛脚に肉を食べてから走らせたら、体が重くて走れなかった、という話を聞いたことがあります。

カフェインを含む飲みものも、大量に摂取すると、不安になりやすくなったり、イライラしやすなったりして、精神の不安定さを引き起こします。アメリカでカウンセリングをしていたころ、不安が強く、小さなことが気になるクライアントさんがいて、聞けば毎日2リットルのコーラを飲んでいるというので、カフェインが少ない飲み物に置き換えるようにいったところ、それだけで不安感が減少しました。また、統合失調症で幻覚に煩わされているクライアントさんも、コーラの大量摂取を減らしただけで、幻覚の症状が落ち着いたことがありました。

電子レンジで調理したものも、食べ物のエネルギーを損なうと思います。同じ料理でも、火で調理したものと、レンチンしたものでは、数字の上での栄養素が同じであっても、エネルギーの質が変わってくるように感じます。冷凍食品や缶詰、冷蔵庫に長く入っていて古くなったものも、新鮮な食べ物に比べて、生命エネルギーが激減します。

エネルギーを増やすものは、新鮮な野菜や果物、豆類、全粒穀物など。とれたてで新鮮なものほど、生命エネルギーが豊富で、私たちを元気にします。個人的には、海の近くの町で、とれたての魚を使った海鮮丼を食べたときなど、ぱっと目の前が明るくなるように意識が澄み渡り、身体が元気になります。スーパーでパック詰めされたお刺身にはそこまでの効果は感じられません。メキシコに住んでいた時は、新鮮な果物をその場でジュースに絞ってくれる屋台があって、それを飲むととてもおいしく、エネルギーが高まりました。当時のメキシコは、まだ加工食品があまりなくて、あっても高価で手に入りづらかったので、新鮮な材料を使って、ちゃんと手間ひまかけて調理して食べることが多く、そのせいもあって、貧しい人が多くても、割合、心身ともに丈夫で健康な人が多かったように思います。

ただし、今までの食生活をいきなり大きく変えることは、ストレスを生み、かえって心身の負担になりますので、お勧めはしません。変えたいと思うなら、少しずつ変えること、また、悪いものをやめることより、まず、いいものを増やしていくことされる方がいいと思います。体にいいものを取り入れていくと、自然に悪いものを食べたくなくなるという変化が起きやすいからです。

日々、接する人によっても、私たちは力を得たり奪われたりします。エネルギーを吸い取るタイプの人は、例えば、依存的な人、支配的でコントロールしてくる人、自分ばかり話して、相手の話を聞かない自己中心的な人、承認欲求が強い人、ネガティブ思考で、不平不満や悪口が多い人などです。一緒に過ごした後、疲れたと感じるなら、エネルギーを奪われているということなので、やむを得ない場合を除いて、一緒にいないほうがいいでしょう。どうしても関わねばならない場合は、心の中で一線を引くことが大切です。

逆に、その人と話したら、楽しい、癒される、勇気づけられる、と感じる場合は、その人の高いエネルギーをもらって、元気になっているということです。人は、目には見えなくても、お互いにエネルギー交換をしているのです。もし、元気をもらっているなと感じたら、こちらもお返しをしたいですね。一方的にもらう依存的な関係だと、いい人が離れていき、長続きしにくいものです。ギブアンドテイクのバランスが取れている方が、安定し、関りは永続します。

人と同様、私たちは、場所ともエネルギー交換を行っています。だから、癒されたり、元気になるような場所に時々行って、エネルギーを補充することは、大事ですよね。海や山など、自然が豊かな場所へいくと、誰でも気分がよくなると思います。水辺や植物が多いところは、いい「氣」があふれていて、浄化力があるので、人は皆、それを無意識に感じるのでしょう。海や山が近くになくても、緑の多い公園に行ったり、庭がある人は庭いじりをしたり、ない人でも観葉植物を置いたりすることが、幾分、代わりになります。神社やお寺は、清浄な氣があふれ、浄化力が強い場所なので、そういう場所に興味があり、敬虔な気持ちで訪れることができるなら、時々行かれるといいと思います(訪れる人の純粋な信仰心は、その場所を清めて、神様や仏様を喜ばせ、神様のパワーをアップさせます。これも一種のエネルギー交換ですね。)

私たちの思考や感情も、私たちのエネルギーを高めたり、低下させたりします。もののとらえ方が厳格だったり、偏狭で、歪んでいたりすると、ネガティブ思考をいだきやすくなり、必要以上にネガティブな感情(本来、感情にポジティブもネガティブもないと思いますが、今は便宜上、この言葉を使います)を感じやすくなります。怒り、自責(自分に対する怒りですね)、恥、無力感、哀しみ、絶望などの感情は、心を重く、硬く、暗くさせます。体も重く、硬くなり、免疫も下がります。とらえ方が柔軟で、視野が広いと、おのずとポジティブ思考になり、同じ出来事を経験しても、ダメージを受けにくくなります。喜び、愛しさ、勇気、達成感など、自分自身のエネルギーを高める感情をいだくことも多くなります。

いかがでしたか。今回は、自分のエネルギーを強めるものと弱めるものについて、書いてみました。自分の元氣(もともと持っている、いい氣)を、増やすも減らすも自分次第です。できることを意識して、強くて健康な心や体を手に入れたいものですね。

健全な遊び

最近、メキシコに住んでいた頃のことをふと思い出し、しみじみ、思ったことがあります。

メキシコには20代の終わりから30代の初めにかけて、4年ほど住んでいました。メキシコ人はとてもフレンドリーで温かい人種なので、現地に友達もたくさんできて、馴染んで暮らしていました。

そんな中、メキシコ人の友達と遊んでいたことを思い返してみると、メキシコ人の遊び方って、とても健全だったなあと思うのです。

例えば、友達夫婦やその親戚、友人たちと集まって遊んだときのこと。地面に丸や線を書いて、日本でいうところのケンケン・パーみたいなことをやりました。メキシコにもこういう遊びがあるんだと思いつつ、みんな、当時の私と同じ20代後半くらいなのに、いい大人が真剣にケンケン・パーをするとは、メキシコ人て純真だなあと思いました。その時、サンダルを履いていたので、サンダルが壊れないか、心配になりながら、ジャンプしていたのを覚えています。

それから、当時、私はジムに通っていたのですが、そこで知らない20代くらいの女の子たち2人に、おずおずと声を掛けられたことがありました。

「私たち、集まって、クイズを出し合って楽しむ会をやっているんだけど、あなたも来ないかと思って」

これまた、ピュアな遊びをやってるなあ、と思いましたが、あまりクイズに興味がなかったので、これはお断りして、行きませんでした。

また、あるとき、レストランのボーイをやっていた顔見知りの男の子(20代前半くらい?)に招待されて、彼の家に、お昼をごちそうになりに行ったことがありました。彼は、近くの村から通っていて、おばあちゃんやお姉さん、甥や姪など、大家族で住んでいました。お店もほとんどない、のんびりした村で、休みの日とか、仕事が終わった後、何をして過ごすの?と聞いたら、みんなでサッカーをしている、と答えました。

今、思えば、メキシコ人たちは、みんなで集まり、顔を合わせて、健全な関りを持つような遊びをしていました。昔の日本もそうだったのだと思います。メキシコ人には鬱の人が少ないといいますが、こういう素朴な社会の在り方は、とても心にいいと思います。

今の日本は、子供はもちろん、大人でも、スマホのゲームに夢中になっている人が多く、人とのコミュニケーションも、ネットの世界の中だけということも、ままあるようです。こういう遊び方や人との関わり方は、脳に過剰な刺激が行き、思考が乱れるし、心も栄養失調になって偏るような気がします。

直に人と会って話したり、一緒に何かしたり、体を動かしたりすることは、人が健全な心を保つために、とても大切だと思います。機械の中のバーチャルな世界に浸って自然から離れすぎるのは、心身のエネルギー不足やエネルギーの乱れを招く原因になります。

いわゆる「発展途上国」(むしろ「先進国」の方が遅れをとっていることも多々あると思うので、この呼び方もどうかと思いますが)の在り方から学べることは、たくさんあると思います。

過去と未来が同時によくなる方法

過去と未来を同時によくする方法があります。

それは、自分の現在をよくすることです。

現在の自分を、幸せで、満ち足りた気分にしてあげれば、過去も未来も、自然に、悲観的な目でみることができなくなります。

心が満ち足りた状態で未来を見たら、前途が明るく見え、不安な未来は描きにくくなりますよね。

また、過去にたくさん苦しい体験をしたとしても、今が幸せなら、過去の苦しみと同調しなくなり、「あの体験があったから、今の自分がある」等、前向きな視点を持つことが容易になります。

今の自分がよく変われば、過去と未来を見る目がよく変わる。見る目が変わる=過去と未来が変わるということ。

結局、過去も未来も、私たちの頭の中でしか存在しない概念であり、実際に私たちが体験するのは、いつでも、「今、ここ」。現在の連続体があるだけです。現在を支点として、過去、未来を眺めている状態なので、支点である現在の意識状態を変えれば、過去も未来も、いっぺんに変わるというわけです。

そもそも、出来事自体はニュートラルで、それを体験する人が、それぞれの視点によって、いい、悪いを決定しています。例えば、「過去にとても嫌な思いをした」、「未来に嫌な用事がある」、どちらも、今の自分の心境がよりよくなり、視点が高くなれば、より肯定的にとらえられるようになります。

だから、今、ここが大切なんですね。過去に何があろうが、未来に何が待っていようが、現在の心の状態を上げてあげることが肝心。そうすれば、過去も未来も、今までとは違って、よりよく認識することができるということです。

カウンセリングの手法について

最近、日本でも、認知行動療法が定着してきていて、認知行動療法を使ったカウンセリングの提供をする医療機関やカウンセリング会社が増えてきているように思います。

私が日本に帰ってきたばかりの頃は、まだ、認知行動療法さえもさほどよく知られておらず、大学院を出た臨床心理士の同僚に、特段、心理療法は習っていない、日本のカウンセリングは傾聴がメインだよ、と聞かされて、びっくりした記憶があります。

認知行動療法が編み出されたのは1950~1960代で、心理療法としては、アメリカの大学院では必ず習う、基本中の基本であり、個人的には、古典的な手法だと思っています。認知行動療法が効果的だというエビデンスは多くありますが、その後、フォローアップで継続的な効果を調べたら、効果は一時的で、後になって、だんだん薄れていき、元に戻っていくという研究データがあって、なるほどな、と思ったことがあります。

現在は、認知行動療法を基盤として、より発展した、第3ウェーブといわれている療法が数多く編み出されています。DBT(弁証法的行動療法)や、ACT(アクセプタンス・コミットメント・セラピー)、マインドフルネスは、私が比較的よくカウンセリングに取り入れている療法ですが、これらも第3ウェーブに入ります。

どの療法にも、長所と短所があって、これですべての症状が必ずよくなる、という万能の療法はありません。どの療法を使ったら効果がでやすいかは、その人の症状によって、また、気質や認知の度合いによっても変わってきます。

例えば、認知行動療法は、比較的浅い、日常的なストレスを解消するにはとても効果的だと思いますが、深く刻まれた感情的なトラウマを解消するには届きにいです。思考や行動を変えることで感情を変えるという理念が認知行動療法の基盤になっているのですが、視点を変えて考え方を変えるというのは、強い感情に圧倒されているときは、できにくいものです。そういう時は、その感情にのまれないで観察しつつ味わうという、マインドフルネスとか、自分の感情と向き合って対話することに長けている、ゲシュタルト療法の方が、効果がでやすいと思います。

そもそも、心理療法という、人が頭で考えて体系づけたものに合わせて、人の心を当てはめるというのは、無理があると思います。その人の心に合わせて、やり方を調節する方が、自然なのではないでしょうか。

こういうわけで、カウンセリングの手法を限定することに抵抗を覚えるため、私は、直観に従って、その人の状態や資質を見極めて、合うと思われるやり方をひっぱってくることをしています。

マザーテレサの言葉 :思考が現実を作る

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

パターン化された思考が、いかに自分を取り巻く現実を作っていくかを、よく示している言葉です。

思考って、自分の目の前に起きる出来事=体験を、どう捉えるか、で生まれるものだと思います。

捉え方の癖って人によってあるんですよね。いいようにとらえれば、ポジティブな思考になりやすいし、悪くとらえてばかりいると、ネガティブ思考の人になります。

自分の捉え方の癖に気づくことが、まず第一歩。気づいたら、変えることはできますから。

ちなみに、性格は、思考や行動が集積して作られていくものです。だから、思考や行動を変えて行けば、性格も変わっていきます。

習慣とというのは、反復された行動に他なりません。今までとは違う、新しい行動を意識的にとるようにしたり、自他ともに傷つけるような言葉をやめて、よりよい言葉を使うように心がけたりし、それを繰り返せば、運命も変わっていくということですね。

自分が放ったものが自分を取り巻く現実を形作るというのは、量子物理学で証明される事実です。それが思考であれ、言葉であれ、行動であれ、自分が瞬間瞬間に放つものは、自分が住み、体験する世界を形成する材料になってしまうんですよね。

だからといって、無理にポジティブ思考にしようとするのは、逆効果。こう考えなきゃいけない、と思うと、言葉づらがポジティブだったとしても、苦しみの念が放たれてしまいます。言葉よりは、言葉に伴う念の方が真実であり、物事を左右する力を持つものです。

~すべき、~してはいけない、というべき思考は、苦しみの現実を作る元なのです。「こうなったらいいな」、「こうなったら幸せだな」という思いを放つようにした方がいいと思います。

氣の流れをよくする

先日、某温泉に行って、日帰り入浴してきました。

でも、申し訳ないのですが、正直いって、その入浴施設、なんだか、癒されないのですよね。有名な温泉郷にある施設の一つで、泉質はいいのですが、居心地が悪いのです。すごく混んでいるわけでもないのに、なぜでしょうか。

そのわけは、建物の材質と構造にあると思いました。

綺麗な色で塗ってあるとはいえ、コンクリートでできていて、窓が一つもなく、天井が高いのです。天井の方に大きく空気孔が空いているから、息苦しさはないし、コンクリートだから外が暑くても中は涼しいし、その辺はいいのですが、四方をコンクリートで囲まれていると、氣の流れが遮られることを、改めて実感しました。

もし、窓でもあって、外に木の生えた庭でもあったら、視覚を通して氣の交流が起こるから、全然違っていたでしょう。

昔、ある映画でみた、刑務所の中のシーンを思い出しました。その刑務所は、重い罪を犯した受刑者が長年入っているところで、建物にはほとんど窓がなく、唯一、空が見える小さい窓があります。そこから青空を見るのには、順番待ちがあって、何週間に一回か回ってくるだけです。そこで、外を見ることに飢えている受刑者たちの間で、順番を奪い合うための殴り合いが始まるという、本筋とはあまり関係のないワンシーンが、今でも印象に残っています(何の映画だったか、タイトルも本筋は忘れてしまいましたが)。

この時、受刑者たちが欲していたのは、窓から見える青空ですが、それはとりもなおさず、清らかな氣のことだったのだと思います。

実際、アメリカにいたとき、州で一番大きな刑務所でカウンセラーの求人募集があったので、ちょっと興味があって応募したことがあったのですが、面接に行って刑務所を見学し、やっぱりやめよう、と辞退しました。その一番大きな理由が、コンクリートでできた大きな刑務所の建物に窓が一つもなく、太陽光が入って来なくて、1日中、昼か夜かわからないような場所だったから、でした。ここに毎日いたら、(受刑者と接することより、建物の構造的に)心身に悪そうだと思ったのです。

刑務所にあまり窓がないのは、逃亡できないようにするためだと思いますが、これでは、ただでさえ、心の闇を抱えている受刑者は、一層心が荒んで、更生から遠ざかってしまうかも、と思います。

コンクリートで囲まれた建物や場所は、氣の流れを遮ります。駅の地下道なんかもそうですね。物理的な穢れ(地下道の排水路のちょっとした汚水とか、カビとか)や、目に見えない穢れ(人の念とか)もたまりやすくなります。大きな窓があって、絶えず新鮮な空気が流れ込んで循環したり、二酸化炭素を吸って酸素を吐き出してくれる植物(やはりエネルギーの循環を促してくれる)が十分あったなら、穢れはたまりにくいでしょう。コンクリートでなく、木でできた建物も、やはり、氣の流れが遮られにくいように感じます。

個人的には、色々な人が泊まる割に、冷暖房完備で窓を開けることが少ないホテルなんかも、氣がよどんでいて、居心地の悪さを感じます。なので、開けていいなら、まず窓を少しでも開けて、空気を入れ替えるようにしています。

もし、鬱状態の方がいらっしゃったら、何かをする気持ちになりにくくなると思いますが(鬱はそもそも気持ちが淀んで流れが悪くなっている状態ですから、そうなってしまう)、毎朝、窓を開けて、空気を入れ替えたり、太陽の光(特に朝日)を入れたりするだけでも、少し気持ちが晴れると思います。

または、氣がいい場所に行って、しばらくそこにいるのも、お勧めです。自然の多い場所とか、神社を参拝するのもいいですね。

意識的に、自分の氣をよくすることを、心がけたいものですね。

罪悪感と恥の違い

罪悪感は、自分が違った行為をしてしまった、または、正しいことをしそこなったと思うときに感じるものです。罪悪感を覚える人は、通常、その行為を修正しようとするか、殻に閉じこもるか、どちらかをしたくなります。

通常、罪悪感は、「本来、自分がありたいという姿と違っているよ。自分の理想の道からそれちゃっているよ」と教えてくれる感情であり、本来の道に戻るよう、行為の修正を促す働きがあります。罪悪感を覚えるのは、健全な証拠であり、罪悪感は役立つ感情でもあり得るということです。

(ただし、生い立ちの過程で認知に何らかの歪みができた場合、不当な罪悪感を覚えることがあります。幸せになってはいけないと思い、いいものを受け取ることに罪悪感を覚えるなどがこれに当てはまります。その場合、罪悪感は役に立たないばかりか、足を引っ張るものなので、手放した方がいいです。この場合の処方箋は、罪悪感を覚えても、それをし続けて、慣れるということです。罪悪感を覚えながらも、与えられるものを受け取り、幸せを許す、それを何度も繰り返す、ということをすれば、罪悪感はだんだん薄れて消えていきます。)

これに対して、恥は、自分という存在自体を、悪い、間違っていると認識するとき、感じる感情です。自分のしたことではなく、自分そのものを悪いとみなしているわけです。なので、恥を覚えている人は、通常、殻に閉じこもり、人から自分を切り離し、孤立しようとします。

大事なのは、どんな感情も、その人自身ではないということ。「その人=恥」ではないのです。いかなる思考も、感覚も、その人自身ではなく、その人が一時的に持って、体験しているものに過ぎません。自分というのは、自分がもつどんな感情、思考、感覚よりも、大きな存在なのです。

なので、「自分は何をやってもダメだ」「人に受け入れない、恥ずかしい存在だ」と思ったり、感じたりしたとしても、そしてそれがどんなにリアルに感じられたとしても、それは、自分がその時に握っている、一時的に訪れてはいても、やがて移り行く思考や感情のひとつにすぎないということを理解してください。どんな体験も、自分の存在そのものではないということを理解し、それと自分を同一化してしまわないことが大切です。

トラウマ解消にかかる時間

カウンセリングを受けた際、トラウマが解消するまでにどのくらいの時間がかかるかは、人それぞれです。

一般的に、トラウマが深く、その人の心にトラウマが内在していた時間が長いほど、解消するまでに時間がかかるというのは確かにいえるかもしれません。ただし、これはあくまでも大まかな傾向にすぎず、そうでない多々見受けられます。

例えば、同じようないじめにあった人でも、比較的早く立ち直り、心に負の痕跡を残さない人もいるし、いつまでも傷がいえない人もいます。起こった出来事自体よりも、その後、その出来事をどう捉えるかも、トラウマに発展させるかどうかのポイントになります。例えば、容易に人を許せる人、こんな人ばかりじゃない、世の中にはきっといい人もいると思える、人を信じる心を捨てずにいられる人、自分が辛かったから自分は絶対人をいじめないでおこうと思う、利他的な心の強い人は、傷の風化も早いように思います。一方で、頻繁にされたことを思い出して、「あいつのせいでこうなった」と恨みを募らせていれば、10年たっても傷はいえず、むしろ深まってしまいます。

ちなみに、自分の不幸は人のせい、または、自分がすべて悪いからこうなった、という、人を責める思いは、心の傷を深め、精神的な成長の歩みを止めてしまいます。自責・他責の念は、負の体験のまま、心を足止めしてしまう効果があるので、持たないほうがいいし、持ってしまっていたら早めに手放した方がいいです。

アメリカでカウンセリングをしていた時、深刻なトラウマを抱えた人を、数多く治療していました。アメリカは犯罪大国で、殺人や自死、虐待やネグレクトも多く、レイプや近親相姦も多発しています。そんな中、多重のトラウマを抱えていながら、劇的によくなった人も、何人もいらっしゃいました。

マギーさん(仮名)は当時50代の女性でした。彼女は、小学生だったある日、遠足に行って帰宅したら、竜巻で家が崩壊しており、母親が亡くなり、父親も半身不随になっていました(父親は自暴自棄の数年を過ごした後、ケガがもとで亡くなりました)。育ててくれる人がいなくなったマギーさんは、親戚をたらいまわしにされました。親戚の集まりでは、聞こえよがしに迷惑がられ、自分の押し付け合いをされ、深く傷ついたそうです。その後、引き取られた遠縁の女性には性的虐待を受け、10代後半では見知らぬ人にレイプされて、20代の頃はやけになり、色々な男性と派手に遊び歩いたといっていました。そんなことで心が癒えるはずもなく、やがて重症のうつ病に陥り、何度か自殺未遂もしています。後に、ようやくいい男性と巡り会って、生涯の伴侶を得た彼女ですが、私が担当した時は、慢性的な鬱状態が治ってはいませんでした。

マギーさんは、もともと、とても心優しく誠実な人柄で、イマジネーションも豊かな人でした。また、何十年もかけ、紆余曲折を経て、トラウマ解消の土壌ができていたのもあったと思います。もし、解消するまでの準備ができていなかったら、私に今までの辛かった過去を詳しく話すこともできなかったでしょうから。彼女の場合は、数回のカウンセリングの後、とある、自分を癒すイメージングをしてみるように誘導したら、一回で、今までの痛みの大浄化がワーッと起こりました。それ以降、彼女はそれを家でもするようになりました。セルフヒーリングの結果、マギーさんは長いトンネルを抜け出たかのように180度変わり、過去に煩わされなくなり、幸せを感じられるようになりました。

このように、何かのきっかけで、大きな転換が起きる人もまれにいますが、多くの人は徐々に良くなっていくコースをたどります。

やはりアメリカでカウンセリングをしていた時のクライアントさんだった、ショーンさん(仮名)は、子供の時に、男性から性的虐待を受けました。女性でも幼少期の性的虐待は深い心の傷になりますが、男性の場合、恐怖はもちろん、恥の気持ちも痛烈で、長い間、誰にも言えないまま、大人になるケースが多いです。ショーンさんは、当時、30代で、結婚して子供もいました。料理が好きで、料理人を職業とし、女優のシャロン・ストーンに料理を提供してことがある、飛行機でくるんだ、と言っていたので、きっと腕のいいコックさんだったのでしょう。けれども、彼は長年、鬱と不安に苛まれていて、職場を転々としていました。どこに雇われても、些細なことで、男性の上司に対して強い怒りを抱いてしまい、トラブルを起こしてしまうのです。無力だった幼少期に、年上の男性から有無を言わさず乱暴された過去から、男性のコントロールに対する嫌悪感や反発心が非常に強かったのでした。

ショーンさんの場合は、はじめは、トラウマになっている過去の話をすると、沸き上がる憤怒で顔を赤くし、汗をかくほどでしたが、カウンセリングを重ねるうちにだんだんとそれも収まってきて、穏やかになってきました。はじめのうちは、人に対する警戒心が強くて、スーパーで人とすれ違うだけでも怒りと不安を覚えるほどでしたが、それもなくなり、ずいぶん、生きやすくなったといっていました。彼の場合は、そうなるまでに、1年もかからなかったでしょうか。

同様に、ジェーンさん(仮名)も、幼少期の性的虐待を何十年も引きずり、人を信じずに、過剰に警戒して壁を作り、怒りを抱いていてた人でした。彼女は、何年もの間、別のカウンセラーが担当した後に、私のところに来ました。鬱と不安の症状が強く、仕事はしておらず、生活は福祉に頼って引きこもりがちの人でした。スーパーに行くと、並んでいるだけで、周りの人が自分を見て嘲笑っているような気がして、腹が立つといい、男性に繰り返し性暴力を振るわれたために男嫌いで、レズビアンでした。最初のうちは、私に対しても警戒心をいだいていた様子がありましたが、少しずつ心を開いてくれ、強烈だったフラッシュバックも和らいでいきました。彼女はユーモアのセンスがあり、面白い人でもあったので、そこから話を切り込んで信頼関係を築くこともできたと思います。

ジェーンさんは、ホイットニー・ニューストンが大好きで、私がアメリカの職場を退職して、日本に帰る時、大事にしていたホイットニーのCDの歌詞カードにメッセージを書いて、プレゼントしてくれました。

ちょっとたどたどしい字で、「Take care of my woman Chika. Thanks for all your help and you are the only one that was able to get me out of my anger! And so grateful ‘cause now I’m not so angry. God bless you. I’m gonna miss you. 」と書いてあります。(ざっと訳すと、「助けてくれてありがとう、あなたは私を怒りから救ってくれたたった一人の人です!もうあんまり怒らなくなったので、とても感謝しています。神のご加護がありますように。いなくなって寂しいです」とあります。最後に本名で署名がしてありますが、マスキングしました。)

アメリカで働いてたのは15年くらい前ですが、このCDを久しぶりに見つけて、ジェーンさんのことを思い出し、元気にしているかなと懐かしく思い出しました。彼女は、性的虐待のトラウマ以外にも、お母さんに愛されていないというトラウマがありました。最初のトラウマが薄れてきたら、次の心の痛みが浮上してきました。こちらのトラウマも、最初のトラウマに負けず劣らず深いもので、痛くてなかなか口にすることができないほどの痛烈な記憶がありました。それは彼女の現在に、母親との不健全な距離感として影響していましたが、そちらの方も徐々に正常化していき、生きづらさは解消していきました。

ジェーンさんの場合は、2~3年かかってよくなっていき、最終的には鬱や不安の症状がほぼなくなっていたように記憶しています。

ジェーンさん以外にも、アメリカでは、壮絶な過去にさいなまれた人たちと数多く関わってきて、今でも忘れられない人たちが多くいますが、今頃どうしているかな、幸せだったらいいなと思います。

このように、トラウマから回復する時間や過程は人によって違いますが、一つ、付け加えるとすれば、アメリカは麻薬が円満していて、心の痛みを消すためにドラッグを使っていたクライアントさんがほとんどだったので、心の回復もその分時間がかかったと思います。日本のクライアントさんはそうでない分、回復が早く、何年もかからない人が多いように思います。ただ、日本では、カウンセリングに保険が効かないので、経済的に恵まれていない人であっても、気軽に何度も受けられるアメリカと違い、よくなるまで、ある程度の期間続けるのが、費用面で難しいと思います。日本でも、早く、アメリカみたいに、国の補助や保険制度が整って、専門的な心理療法へのアクセスが容易になればいいですね。

「自分には価値がない」を解決する方法

「自分には価値がない」という思いが強い人は、無意識のうちに、その信念をもとにして言動を起こすので、うまくいかないことが多くなります。

例えば、価値を上げるために躍起になり、過剰に努力して、心身を疲弊させてしまいがちです。こういう人は、なんでもやりすぎてしまうので、空回りしやすく、頑張っているのにうまくいかない現実を作り出します。承認欲求をもとに人と関わったり、仕事や勉強を頑張ったりするので、人間関係では無意識にマウントを取ろうとして嫌がられるか、あるいは人に気に入られようとして、なんとなく煙たがられたりします。頑張りすぎや気疲れで、病気や鬱になったりする傾向があり、たとえ業績を上げたとしても、それで気分が上がるのは一時的。慢性的に満たされない、ということが起こります。

または、「自分なんか、いいことに値しない」という自己卑下が根底にあるので、周囲から差し出された好意を受け取らなかったり、いい機会があっても手を伸ばさなかったりするかもしれません。その結果、人が嫌になり離れて行って(だって、せっかく差し出したプレゼントをいらないと返されたら、あげたほうも悲しくなりますよね)孤独になったりします。いい機会を受け取らず、自分にはこの程度がふさわしいと、低いものを自分にあてがって、不本意な状況を自分で作り出し続けながら、「やっぱり、こうなる。どうせ自分なんか」と、自己卑下を強めるパターンを繰り返す人もいます。

そもそも、自分に価値があることを疑っていない、健全な自尊心を持つ人は、自分に価値があるとかないとか、考えません。自分の価値を意識すること自体がないのです。例えば、目や鼻や口があるのが当たり前だと思っていたら、自分に目や鼻や口があるとかないとか、取り立てて意識しないですよね。

人が、自分に価値があるかないか、どんなに考えたとしても、そこには思考の偏りが入り込みます。なので、真に正当な評価を下すことは不可能なのです。

同じ人でも、気分がいいときは自分に価値がある気がするでしょうし、誰かに嫌なことを言われて落ち込んでいるときには、価値がない気がするでしょう。テストでいい点を取って褒められたときは価値がある気がするけれども、悪い点を取ったら価値が下がった気がする。

また、自分で価値がないと思っても、他人は、「この人すごいな、この人みたいになりたい」、と思っているかもしれないし、逆に、自分は価値があるすごい人間だと思っていても、他の人にはそう思われていないということもありますよね。

人に価値を下そうと思ったら、人によって、気分によって、状況によって、違う価値判断になってしまう。ということは、その価値判断は、絶対的ではないということ。誰かに対して、絶対的に正しい価値判断なんて、下しようがないということなのです。

それなのに、自分に価値があるとかないとか、悶々と考えるだけ、無駄だと思いませんか。

それでは、どうやったら、「自分に価値がない」という思いを消すことができるのでしょうか。ポイントは、「ノンジャッジメント」です。

ノンジャッジメントとは、いい・悪い、正しい・間違っているで価値判断を下すのをやめることをいいます。

人は、多くの場合、無意識に、思考の中で、自分や他者に対し「いい、悪い」「正しい、間違っている」というジャッジ(裁き)を下しています。ジャッジすると、人の心は波立ち、平和はかき乱されます。自分に対しても、人に対しても、ジャッジするのをやめれば、思考は鎮まり、心は中立で穏やかな状態になるのです。

「自分に価値があるとかないとか、どうでもいい。だって、考えたって、どうせ正しい答えは得られないんだから、考えるだけ無駄。自分が存在していることに、いいも悪いもない、自分はただ存在している、それだけ。生きているから生きている。」そういう風に思うと、価値がないと悩んでいる人は、葛藤が鎮まり、心が平和になるはずです。

自分の価値をあげようと躍起になって何かしたり、自分のいいところを探そうとするより、そのほうが効果的だと思います。

人と会って疲れるなら

人と会うと疲れるという人は、どこかで余計に力を使ってしまっているのだと思います。自分のエネルギーを過剰に消耗してしまう心の癖に気づいて、修正することができれば、人と会っても疲れなくなるはずです。

例えば、人に嫌われたくない、よく見られたいという思いが強いと、気を張ってしまい、ありのままの自分よりも背伸びしようとする分、疲れてしまいます。普通に1km歩くより、つま先立ちで1km歩いた方が消耗するのと同じです。人にどう思われるかをあまり意識しない人と比べたら、一日が終わった時点で、疲れ具合が全然違うということになります。

また、人は自分を傷つけるもの、攻撃してくるもの、自分をだまし、自分から奪うもの等の信じこみがあると、そうされないように周りに防御壁を作り出してしまい、やっぱりとても疲れます。壁を作ると、一見、人と距離が取れて安全に思えるかもしれませんが、同時に、人と関わることで得られる優しさや温かさ、楽しさ、喜びなどの愛の要素も入って来られなくなります。愛は最大のエネルギー源であり、心の傷を癒してくれる薬でもあるので、結局、心の傷は満たされず、孤独とみじめさ、不幸せ感を覚える結果に至ります。

それに、壁を作り続けることは、無意識にやっているにしても、不自然な力を使うことになり、疲れるのです。「敵に囲まれて暮らしている」のが、そうでない生活と比べて疲れるのは、明白ですよね。本当は、多くの場合、自分の頭がそう思いこんでいるだけで、敵なんていないのです。自分が敵とみなしている人たちが、良くも悪くもそこまで自分に関心を抱いていないとしたら(他の人は私たちが思うほど、私たちのことを気にしていませんからね)、気を張って生きているのは、骨折り損のくたびれ儲けです。Tシャツを着た人が普通に歩いている通りで、一人、重い鎧に身を固めて、刀に手をかけ、戦々恐々として暮らしていないかどうか、もしそうなら、そんな無駄に疲れることを続けたいかどうか、自分の心に聞いてみてましょう。

同様に、周囲の人を心の中で批判しがちな人も、やっぱり疲れます。悪口や否定的な念は、心身を重く硬くし、流れを停滞させる力をもっています。体が重いと、同じことをするにも多くの気力を使い、疲れますよね。無意識に周囲の人を否定的にとらえる癖がある場合は、ネガティブな思考の解釈やおしゃべりに気づいて、それをなくしていくだけで、楽になっていくはずです。その際、悪口を止めようとするのでなく、(無理にせき止めてもあとからあとからやってこようとするだけなので)悪口を言いたくなる自分の心の苦しみに気づいてあげ、「何が辛いの?」と優しく聞いてあげたほうが効果的でしょう。幸せな人は人の悪口をいいたくならないし、いいたくなるとうことは、自分の中に何らかの不幸せや満たされていない思いがあるはずです。それに気づいて優しく包み込むイメージをするだけで、心が楽になって、自然に人を悪く思う気持ちが消えていく可能性があります。

それから、エネルギーを吸い取る人とばかり関わってしまうパターンが自分の中に形成されてしまっている人もいます。例えば、威圧的に支配しようとしてくる人や、承認欲求が強く、マウントを取ろうとしてくる人、愚痴や不平不満ばかり言ってくる人、人の話を聞かず自分の話ばかりしてくる人、夜中でも構わず電話をかけてきて相談してくる人などは、自分自身でエネルギーを生み出すことができない(と信じている)ために、人からエネルギーを補給して自分を満たそうとします。そういう人とばかりご縁ができてしまうというなら、自分の中にそういう人をひきつけ、関わってしまう何かが必ずあります。恐らく、自己価値観の低さから、粗末に扱う心の癖があると、エネルギー吸血鬼さんタイプの人と絡んでしまいやすくなりますね。なぜなら、エネルギー吸血鬼さんタイプの人も、同じように自己否定や自己不信が根底にあるので、類は友を呼んでしまうんですね。

一番疲れないのは、不必要に人目を気にせず、自然体であることです。同じ人に気を遣うにしても、「自分がよく思われるために」というエゴが動機になっていると疲れます。逆に、自分を意識せず、人が心地よくあるようにという無私の思いやりがモチベーションになっている場合は疲れません。ただし、自分も大事にし、自分が苦しんでいるのに、人のために尽くすという自己犠牲がない場合は、です。(自己犠牲は自他のバランスが崩れている状態なので、持続しません。疲れてしまって、行き詰まる結果になります。)

欠点があっても、失敗しても自分を許し、何があってもなくても自分を慈しみ、自分を信じることができるくらい、自分をおおらかに扱うことができたら、人目を気にすることはなく、自然体でいることが容易になります。人と接していても疲れなくなり、疲れる人との関わりもなくなっていきますよ。

› more