虐待された子供にTAT(Thematic Appreciation Test=絵を見せて、自由に読み解いてもらい心理を探るテスト)を行うと、それがどんなに穏やかでなにげない場面の絵や写真であっても、残酷で悲劇的な結末のストーリーを描き出すのだそうです。
これは、虐待された子供にとって世の中は、どこに危険が隠れているかわからない恐ろしい場所であり、彼らには見るものすべてが災いの種に映る、ということを示唆します。
子供時代、愛と慰めに満ちた安全な家庭で育つことは、健全な心を持った大人になるために大変重要なのですが、残念ながら現実はそうはいかない場合が多いようです。
私がアメリカで受け持っていた何百人ものクライアントさんは、その大半が不幸な子供時代を経てきており、少なくとも半数はなんらかの虐待やネグレクトを受け、近親相姦やレイプ、親に銃を突きつけられる、親がドラッグ中毒で満足に食べ物も与えられない、里親を10軒以上転々とするといった、ひどいケースは日常茶飯事でした。
自分ではまだ何もできない幼児期に、基本的欲求を満たしてくれ、呼べば助けてくれ、心が傷ついたら愛を持って気持ちをなだめてくれる大人が、もし周りに一人でもいれば、その子供は大きくなって、
「困難な状況に遭遇してもなんとかなるものだ。人生を思うとおりに変えて、切り開いていく力を、自分は持っている。」
という、自己信頼を抱き、自己コントロール力を持てるようになるでしょう。
自分の意志や欲求に沿って反応してくれる大人が周りにいるということは、周囲の環境と共鳴して生きるということで、これを経験した子供は、たいてい、自己認識力や共感力を身につけ、人と調和し、社会に適応して生きていくことができるようになります。
けれども、虐待やネグレクトのある環境に育ち、自分の基本的欲求や感情的なニーズが満たされず、親または世話をしてくれる大人が自分に合わせてくれない場合、子供は周りの大人の「子供はこうあるべき」という概念に自分を合わせる以外なくなります。つまり、大人のニーズに自分を合わせることになり、これによって、「ありのままの自分ではいけないのだ、自分はどこか間違っているのだ」という観念を抱くようになるのです。
虐待された子供は、周りの人たちの声や表情にとても敏感ですが、それに共鳴するというより、そのサインを脅威とみなして反応する傾向があります。そのため、虐待された子供は、防衛的になったり怯えたりしやすいといえます。そういう子供は、やがて、強いふりをして内心の恐怖感を隠すようになったり、心を閉ざしてコンピューターゲームに一人で没頭するようになったりすることがあります。
回避型愛着(avoidant attachment)と呼ばれるタイプの幼児は、母親がいなくなっても泣かず、戻ってきても無視して、一見、何が起こっても知るもんか、というそぶりを見せます。けれども、実際のところ、子供の身体の方は過覚醒(神経過敏で緊張が高まっている)状態にあります。このタイプの子供の親は、子供を触ったり抱いたりするのを嫌がる傾向が強いようです。回避型愛着タイプの子供は、学校に行くようになると、しばしばいじめる側にまわり、大人になってからも、自分や相手の気持ちに無頓着である場合が見受けられます。
不安型愛着(anxious attachment)、またはアンビバレント愛着(ambivalent attachment)と呼ばれるタイプの幼児は、泣いたり、わめいたり、しがみついたりして、常に自分に注意を引こうとします。母親の姿が見えなくなると非常に取り乱しますが、かといって母親がそばに戻ってきてもあまり満足しません。不安型愛着タイプの幼児の不安傾向はしばしば大人になっても継続し、学校ではしばしばいじめられる側(=犠牲者)になります。
上記の二つの愛着型に加えて、世話をしてくれる大人自体が自分に苦しみや恐怖をもたらす原因である場合、子供は混乱型愛着(disorganized attachment)という第三タイプに分類されることがあります。
混乱型愛着の子供は、生きるために依存しなければならない相手が、同時に身を脅かす危険な人物であるというジレンマに置かれます。逃げることもできず、つながることもできない、という手立てのない状態にあるわけです。結果として、誰が安全で誰に愛着を示していいかわからないこのタイプの子供たちは、知らない人に過度に愛情深く接したり、または誰も信じなかったり、といった極端な愛着のしかたを見せるようになります。
混乱型愛着を引き起こす要因はなにも虐待ばかりではありません。親自身が、家庭内暴力やレイプ、深刻な喪失などのトラウマを抱えている場合、自分の感情が不安定なために、親は子供と向き合って安定した保護や慰めを与える場合ができないことがあります。親が感情的に引きこもってしまい、子供のニーズにこたえられない場合、しばしば役割の逆転が起こり、子供の方が親のニーズを満たそうと懸命になります。こうして親の世話をせざるを得なかった子供は、大きくなってからしばしば自分や他者に対して攻撃的になり、自分や人を傷つけるようになることがあります。
ここまで書いてきて、自分の子育てに不安を覚えた親御さんがおられるかもしれませんが、理想通り完璧な子育てができなくても、基本的部分で愛情がありさえすれば、子供は親と適切なつながりを維持し、ちゃんと育つものなので、大丈夫です。感情にまかせて怒ったり、思い通りに世話をできないことが時々あったとしても、本当は愛するわが子にそんなふうにしたくなかった、という思いがあれば、子供が親に対する信頼を失うことはありません。第一、「理想通りの完璧な子育て」というもの自体、存在しないものです。誰しも、時折迷ったり後悔したりしながら、子供を育てているのではないでしょうか。
また、仮に、虐待やネグレクトにあって、辛い子供時代を送ったとしても、その後社会に出て、愛のある経験をしたり、あるいは本人の生来の資質が優れている場合、心の傷を自ら癒やして、健全な心をもった大人へと成長することは十分可能です。私はそういう人たちをクライアントさんの中に少なかず見てきたので、苦境を乗り越える人間の力には、絶対的な信頼を抱いています。
(参考文献:Van Der Kolk, B. (2014) The Body Keeps the Score. New York: Penguin Group)
(Chika)
ニューメキシコ州で撮った、ダブルレインボーです。ニューメキシコに住んでいた時は、空が広いから、雨上がりにはだいたいどこかに虹を見つけたものです。