盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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04月

似顔絵

アメリカで働いていた頃、クライアントさんが書いてくれた似顔絵。

 

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ちなみに彼は、元麻薬密売人でした。なぜ「元」かというと、捕まってしまったので、もうその仕事はもうできなくなったから。

捕まったから、セラピーに連れられてきた、というわけです。執行猶予中か仮釈放か忘れたけど、そんな身分のお方でした。

麻薬の密売はてっとり早く大金が手に入るので、いい商売らしいです。(お勧めはしませんが(^_^.)。)

私が住んでいた町は、小さく貧しいコミュニティで、めぼしい産業もなかったので、住民の就職率は低く、失業率もとても高かったです。生活保護を受けている人も大変多くて、日本の比ではありませんでした。アメリカって、貧富の差が激しい国だなと、つくづく思います。経済的その他の事情で、大学進学率はもちろん、高校を無事卒業する人も、その町では少なかったです。中卒も多かったし、小学校しか出ていない人もちらほらいたような。

何もない砂漠の町で、他にすることがないからとか、ひどい家庭環境の苦境を紛らわすためにとか、親代わりにギャングに養われ、そこで自然と麻薬を覚えてとか、色々な手段で早くから麻薬に手を染め、食べていくために麻薬密売をする人も、あまり珍しくなかったです。

…ていうか、どうでもいいけど、この似顔絵…。どうよ、と悲しいツッコミを入れたくなります。

自称絵が得意という彼に描いてもっている間は、期待で胸を膨らませていたのですが、出来上がりを見て、

「そうか、こんなにブサイクやったんや、自分。」

と、現実を見た気がしたひとときでした。(-_-;)

 

これは、当時の仕事風景。

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アメリカは心理療法がとても進んでいるので、アメリカでカウンセラーをしていると、とても勉強になります。質の高いセミナーを受ける機会もたくさんあるし、職場でも本格的な心理カウンセリングをどんどん使って薬を使わない治療行為ができるし。

そういう意味では、多忙を極めて身を削るような、大変な職場でしたが、戻りたいなあ、と懐かしく思うことがたまにあります。

お知らせ:心理学セミナー in 盛岡

ここでお知らせです。

盛岡でセミナーを開催いたします。

色々なことが気になってなかなかリラックスできない、気づいたら体がいつも緊張している、といった、慢性的な不安をテーマに、その気質的要因と、改善方法について、お話いたします。実際に不安症状がある方でなくても、なんとなく心理学に興味がある方、どなたでもご参加いただけます。最後にリラクセーションを体感していただくエクササイズも用意しております。

内容は割合本格的ですが、わかりやすくお話しますので、初心者でもOK!ふるってご参加ください。

 

日時: 5月31日(土)

AM: 10:00-12:00

場所: 盛岡市中央公民館(愛宕町)

内容: 心理学講座「慢性的な不安の原因と解消法」

参加費用: 500円

定員: 12名ほど

 

お問い合わせ・お申込みは、本ホームページのお問い合わせフォームよりお願いします。(定員に限りがありますので、お早めにどうぞ。)

 

 

共依存の依存パターン(3)

以前に書いた共依存のしくみ(4)(http://therapyroom-hummingbird.com/?p=906参照)でも少し触れたのですが、最後に、共依存になりやすい人の特徴をもう一度、詳しく見てみましょう。

  • 自尊心が低い
  • 自分が必要とされることや、自分の欲求が少ないことによって、自己価値や自尊心が支えられている。
  • 提案や要求、不適当な命令に、過剰に従う。
  • 他の人の問題や困難、必要に際しては一生懸命になる一方で、自分のそれは無視する。
  • あらゆる人のために、あらゆることをしようとして、自分のニーズがおろそかになる。
  • 人の問題を解決する術に長けているが、自分の問題を解決することができない、または解決しようという気になれない。
  • 常に人を喜ばせようとして、手助けする機会を待ち構えている。
  • 頼まれたら嫌といえない。
  • 頼まれごとを断る際、罪悪感を感じて困難を覚える。
  • 大切な人たちとの関係において、なんでも引き受けすぎることが多い。
  • 不可能な、または過剰なスケジュールを立ててしまう
  • 欲しいもの、必要なことを要求することができない。
  • 助けを求めることは、利己的で厚かましいことだと思う。
  • 自分の感情を突き止めて、感じることが難しい。
  • 非現実的、非合理的な期待に、すすんで応えようとする。
  • 意見の不一致や衝突を怖がったり、避けたりする。
  • 無力で、有害なものから自分の身を守ることができないと感じる。身勝手な人たちに、容易に操られたり、搾取されたりする。
  • 意地悪されたり、虐待されたりしたとき、しっかり境界線を張ることができない。
  • 自分を無視する人たちを、操作したりコントロールしたりしようとする。
  • 助けになろうといて、人に親切を押し付ける。
  • 仕事上の付き合いと個人的な付き合いを混同する。

 

それでは、健全な関係性というのは、どういうものでしょうか。

Hazan とShaverは、健全な親子の関係は、健全な大人同士の恋愛関係と類似しているという仮説を唱えました(Hazan, C. & Shaver, P. (1987). Romantic love conceptualized as an attachment process.  Journal of Personality and Social Psychology, 52(3), 511-524)。彼らによると、深い感情的な絆で結ばれた親子には、下記のような特徴がみられるということです。

  • お互いに、相手がそばにいて反応を示してくれていると、安心する。
  • 親密な身体的接触を、お互いにしあう。
  • 相手が手に届かないところにいるとき、お互いに不安になる。
  • お互いに、発見を共有する。
  • お互いに、相手に魅かれ、関心を抱く。
  • お互いに、”赤ちゃん言葉”を発し合う。

(参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

 

共依存の人が、対人関係において、自分という存在が小さくなりすぎて、相互のバランスが崩れてしまっているのに比べて、健全で親密な関係は、お互いの愛情のバランスが取れていて調和している、というのが大きな違いだと思います。

確かアメリカの研究機関で行われた実験だったと記憶していますが、深く愛し合っている二人の男女を、向いあわせに立たせ、二人のオーラを測定すると、ハートチャクラ(心臓のあたりに位置する、主に精神的な愛のエネルギーを司るセンター)から、それぞれの周りに大きな円を描いているエネルギーが合わさって、ちょうどハート型に見えたのだそうです。

二人の互いに向けた愛のエネルギーのバランスが取れているからハート型になるのであって、どちらかが大きくすぎて、どちらかが小さすぎると、ちゃんとしたハートの形にはなりませんよね。

相手に対するリスペクトに欠けた、一方的な強い思いは、愛ではなく、執着です。

自分に対するリスペクトに欠けた、相手への強い思いも、やっぱり、本当の愛ではないと思います。それは、自己愛の欠乏を補って埋めるための、代替的な擬似愛に過ぎず、やっぱり、根底には執着があります。

大いなる宇宙から見たら、自分という存在も、相手も、同等に尊い存在です。両方とも、大切に扱われなければならないもの。両者のうち一方だけを、もう一方のために犠牲にして成り立つ関係というのは、この宇宙の理念に反しているので、長続きはしません。ひずみが生じて、長い間には耐えきれなくなり、必ずいつか、修正を余儀なくされるものです。

結局のところ、本物の愛に根差し、自己と他者の双方を尊重した、調和のとれた関係だけが、長くつづくようにできているのだと思います。

 

 

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共依存の依存パターン(2)

Co-Dependence Anonymous(無名の共依存者たち)という自助グループが分類した、5種類の共依存パターンを、次にご紹介します。

 

否認パターン

  • 私は、本当の気持ちを控えめに表現したり、変えたり、否定したりします。
  • 私は、自分のことを、完全に利己心のない、他人のために尽くす人間だと思っています。

自尊心欠如パターン

  • 私は、決断が苦手です。
  • 私は、あらゆるものを裁き、態度や言葉も厳しく、ものごとが決して十分ではないと考えます。
  • 私は、承認や賞賛や贈り物を受け取ることを、恥ずかしいと感じます。
  • 私は、他の人に自分の欲求や願望を満たしてもらうよう、頼むことがありません。
  • 私は、他の人が自分の考えや気持ちや行動を認めてくれることに、価値を置いています。
  • 私は、自分が愛すべき人間、または価値ある人間だとは思いません。

従順パターン

  • 私は、他の人の拒絶や怒りを避けるために、自分の価値や尊厳を犠牲にします。
  • 私は、他の人の気持ちにとても敏感で、それと同じように感じてしまいます。
  • 私は、非常に忠実で、有害な状況にあまりにも長く身を置いてしまいます。
  • 私は、他の人の意見を、自分の意見よりも尊重し、異なる意見や自分の気持ちを表現することを恐れます。
  • 私は、自分の興味や楽しみをわきに置いて、他の人が欲していることをしてあげます。

コントロールパターン

  • 私は、たいていの他の人は、自分の面倒を見ることができないと考えています。
  • 私は、他の人が、どう考える「べき」で、「ほんとうは」どう感じているかを、説いてきかせようと試みます。
  • 私は、他の人が自分の助けを受け入れてくれないと、腹を立てます。
  • 私は、乞われなくても、遠慮なく他の人に助言を与えたり方向性を示してあげたりします。
  • 私は、自分が気にかけている人に、惜しみなくものをあげたり、何かしてあげたりします。
  • 私は、他の人と関係を築く際、”必要とされる”ことが必須です。

回避パターン

  • 私は、他の人が自分を拒絶したり、辱めたり、怒りを抱くよう、しむけます。
  • 私は、他の人が思ったり、言ったり、したりすることを、厳しく裁きます。
  • 私は、距離を保つために、感情的、身体的、性的な親密性を避けます。
  • 私は、親密な関係を避けるために、人や場所やものに依存します。
  • 私は、衝突や対立を避けるために、間接的または曖昧なコミュニケーションの取り方をします。
  • 私は、自分の弱さを感じないように、感情や欲求を抑えます。
  • 私は、感情表現は、弱さの表れだと信じています。
  • 私は、感謝の気持ちを抑制します。

(参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

 

いかがでしたか。この中に、当てはまりそうなパターンがあったでしょうか。

共依存というのは、色々な視点から見ることができると思いますが、ごく大雑把にいうと、「アンバランス」というキーワードでくくることができると思います。

自分と他者との関係において、自分の存在にくらべ、他の人の存在が大きくなりすぎている。ギブ・アンド・テイクのバランスが崩れていて、与えすぎ・受け取りすぎ、の関係になってしまっている。自分と他者との間に、健全な境界線が引けておらず、他者の境界線に侵入して、相手が欲する以上に与えてしまう、など。

自分と他者とは、それぞれ、両方とも尊重する必要があり、どちらかを犠牲にしてどちらかに価値を置きすぎると、関係性のバランスが崩れて長い間にはひずみが大きくなり、必ずうまくいかなくなります。

そもそも、誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなんてものは、決して長続きはしません。それは、そもそもこの世界が、自分と相手と両方とも満たされることによってのみ、調和が保たれるようにできているからだと思います。

(今回の共依存シリーズ、次が最終回の予定です。)

 

 

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共依存の依存パターン(1)

前記事に続いて、共依存の特徴を詳しく見ていきます。

共依存の人は、しばしば、感情操作タイプのパートナーをコントロールしようと執着し、中毒的なパターンを形成します。(感情操作タイプの詳細については過去記事:http://therapyroom-hummingbird.com/?p=741を参照してください。)

コントロールできない誰かをコントロールしようと躍起になるという強迫観念的な衝動は、共依存の人を、まるで車輪の中で回り続けるハムスターのように、一歩も前に進ませないという不毛なパターンに陥れ、怒り・欲求不満・恨みというスタート地点にとどまらせます。

得られないものを求めようとする共依存の人の試みは、度重なる人間関係での失敗を通して、結局のところ自分は他者に対して無力なのだと、痛感させるに至ります。

感情操作タイプの人を変えようとして躍起になり、失敗して、嫌な気持ちを味わうという悪循環の中で、共依存の人は次第に疲れ切ってしまいます。そして、結果的に、慈しまれたい、感謝されたい、認めてもらいたい、という願望を、あきらめてしまうことになります。

こうして、感情操作タイプのパートナーが、いつか自分が望むものを与えてくれるだろうと、あんなにも自己犠牲的に、忍耐強く、待ちこがれていた信念は、やがて怒りと恨みへと形を変えていきます。

パートナーがいつかお酒をやめてくれるだろう、浮気をやめてくれるだろう、愛情や優しさを示してくれる日が来るだろう、という期待が実らないと気づいた共依存の人は、直接的な、あるいは、受け身の攻撃へと身を転じ、不屈の相手を積極的にコントロールしようとし始めます。

 (参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

 

ここまでみてみると、共依存を依存パターンに駆り立てている原因が明らかになってきます。つまり、慈しみ、評価、承認を、自分自身ではなく、相手に求めようとしているということです。これが共依存が依存であるゆえんです。

その裏には、自己愛の欠如・自己肯定感の欠如といった、欠乏感があり、ゆえに、共依存の人は、おしなべて自尊心が低いという図式になるのです。

自分の中にないと感じているから、相手から与えてもらおうとし、それが自分にとって、とても必要なものだと本能的に知っているので、必死になって相手に執着する、というわけです。

けれども、自己愛、自己肯定感というのは、本来、自分の中に見出すべきであり、相手から得ることで補おうとする試みは、必ず失敗に終わります。

自己愛というのは、人間が存在する上でとても大切な要素であり、非常に強いパワーの源になります。逆に、自己愛の欠如というのは、あらゆる心の問題の源になります。

臨床の現場で、感情障害、不安障害、人格障害等、深刻な精神疾患を抱えているクライアントさんを診ていると、その根底に自己愛の欠如がある、自分に対する愛情不足がある、というケースが非常に多いことは、とても印象的です。

次回は、共依存のいくつかの種類をご紹介したいと思います。

 

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共依存のルーツ

共依存については、以前、何回かに分けてお伝えしましたが、興味がある方が多いようなので、もう少し掘り下げてご紹介したいと思います。

発達心理学の権威であるフロイトやエリクソンは、愛され慈しまれて育った子供は、精神的に健康な大人として成長しやすくなり、逆に、ネグレクトや虐待を受けたり、必要なものを与えられないで育った子供は、大人になってから、機能不全な対人関係を築く傾向が強くなると主張しています。条件付きの愛(conditional love)を受けて成長した子供は、心理的・精神的に問題を抱える傾向にあるということです。

幼児期の子供というのは、周囲の環境に敏感で、とても影響されやすいものです。愛情豊かな両親に守られ、安心して育った子供は、精神的に準備が整った状態で成人期を迎えることができます。一方、子供の心理的、身体的な必要を満たすことができない、または、満たそうとは思わない両親のもとで育った子供は、成人期でつまずく確率が、とても高くなります。

夫婦間の暴力、ネグレクト、親のアルコール依存、性的・身体的虐待といった、有害で危険な環境に適応することを強いられた子供は、多くの場合、自己評価、自我、自分に対する観念が損なわれ、成人してから、心理的なスキルや能力に問題を持つようになります。

子供が親の子育てをまねて、自分が育てられたように自分の子供を育てるというのは、自然な人の摂理です。なので、よほど抵抗して変化を起こさない限り、機能不全な家庭環境というのは、代々続き、悪循環を形成します。

家族システムの理論を提唱したアメリカの精神科医、ボーウェンは、変化というのは、どの家族にとってもストレスになるが、機能不全の家族にとっては、とりわけ不快であり、例えそれが子供のためによいものであっても、脅威とみなされることがある、と言っています。

機能不全の家族の影響から逃れることができない子供は、親の機能不全な性質を自分に取り込み、自分と一体化させてしまいます。そして、人を満足させることで他者に同調するか、もしくは他者を強制(コントロール)して自分に同調させるようになっていきます。

こうして、変化に抵抗する家族は、自分たちの感情的な機能を、次世代に継承していくことになります。

(以上の参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

虐待された子供が、親になって自分の子供を虐待する、というのはよく言われており、実際、カウンセリングの現場でも、それは非常に多く見かけることです。虐待的な親にならなかったとしても、共依存関係に陥り、不健全な家庭を再現することによって、子供に有害な環境を継承することは、とても多いです。

けれども、重要なのは、すべての人がそうなるわけではない、ということです。機能不全の家庭環境に育った人が、屈せずにその悪影響を克服し乗り越えた場合、順境に育った人以上に深くて優れた資質を帯びるようになる、そして、自分の子供にとって理想的な親になり、他の人や社会全体に対しても祝福となるような、大きな影響力を持つことができるようになることが多い、というのも、事実です。

悪循環を繰り返すか、それとも断ち切るかの分かれ目は、本人が自分の傾向に気づいてそれを意識し、受けた傷を癒して、一見ネガティブな体験を、反面教師として、よりよい人生を創造するために生かせるかどうか、ということだと思います。

「一見ネガティブ」と書きましたが、どんな体験であっても、その体験自体はニュートラルなんですよね。それを不幸とみなすかどうかは、自分次第なのです。そこには自分の人生に役立て、もっと幸せになるための資源が必ず隠されています。この点で、すべての逆境は、例外なく試金石であり、自分の中に眠る輝きを引き出すきっかけを与えてくれる、チャンスなのだと思います。

 

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過食症について

神経性大食症、いわゆる過食症(Bulimia Nervosa)は、摂食障害というカテゴリーに分類される精神疾患です。

コントロールが効かずにドカ食いしてしまい、そのあと、太らないように何らかの浄化行動(のどに指を突っ込んで吐く、下剤を使う、過度な運動を行う等)を行う、というのが、主な症状になります。

過食・嘔吐は、中毒性が高い行為です。つまり、やめられずに繰り返してしまう傾向があるということ。吐くことにより、脳は飢餓モードになり、さらに食べ物を欲するようになってしまうのです。

これを改善するコツとしては、きっぱりやめようという意思の力だけに頼るよりは、自分をうまくだましてやらないようにもっていく。浄化行動の衝動は一時的なので、気を紛らわせて時間を稼げば、次第に収まります。

下記に、過食と、主な浄化行動である嘔吐の頻度を減らす具体的な方法を、簡単にまとめてみましたので、興味がある方は参考にしていただければと思います。

<過食頻度を減らす方法>

  • ジャンクフードではなく、良質の食べ物を摂取する
  • 吐いたら、脳が飢餓モードになり、また食べたくなることを思い出す。
  • ゆっくり食べて、よく味わう。(五感をフルに使ってゆっくり食べると効果的。)
  • 食事中、休憩を入れて、より満腹感を感じられるように工夫する。
  • 過食してしまいそうな食べ物を、目につくところや手の届くところに置かない。
  • デザートは、後で食べたかったら食べてもいいからと体に言い聞かせ、まずは別のものから食べる。

 

<嘔吐頻度を減らす方法>

  • 吐いて浄化したい衝動を、気を紛らわせて遅らせ、引き延ばす。
  • 今回の嘔吐衝動を抑えられたら、再び吐く可能性が少なくなることを思い起こす。
  • 呼吸法を試す。
  • 誰かと一緒にいるようにする。
  • 信頼できる人に、自分がしようとしていることを打ち明ける。

 

下記のようなアファメーションを唱えてもいいでしょう。

  • 今日だけは、私は、お腹がすいたときにだけ食べます。
  • 今日だけは、私は、食べ物がどんな味がするか、どんな気持ちにさせてくれるかを、意識しながら食べます。
  • 今日だけは、私は、好きなもの、かつ、食べて気分がよくなるものを選んで食べます。
  • 今日だけは、私は、楽しんで体を動かす方法を見つけて実践します。
  • 今日だけは、私は、自分の体に優しくし、愛と敬意をもって扱います。

                   参考資料:Guisinger, S. (2013) Eating Disorders & Obesity; Help Clients Take Back Their Lives (live seminar)

 

この、「今日だけは~」というのは、AA(Alcoholics Anonymous=アルコール依存症の自助グループ)で唱えるアファメーションと共通しています。依存症の人が行動を変えようとする際、これからずっと~する、と思ってしまうと、プレッシャーが大きくて耐え切れなくなってしまい、続かないことが多いんですよね。なので、明日以降のことはわからないけれど、今日一日だけは、と毎日誓ったほうが、効果が高いのです。

個人的には、摂食障害というのは、やはり、潜在している何らかの大きな不安感が原因している症状だと思います。

なので、行動療法的に食べたり吐いたりする異常行動を矯正するだけでは十分ではなく、最終的には、心の奥底にある不安(おそらくは、存在に対する不安、安全や帰属意識の欠如に関係する)をつきとめて癒やしていく必要があると思います。 

 

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原因は自分の中にある

自分に起きた不幸を、他人や環境のせいにして、被害者意識をもってしまうと、そこから前に進むことはできず、癒しのプロセスも起きません。

アメリカで働いていた時、7年も8年も足しげくカウンセリングに通ってくる割に、症状は全く変わらず、回復の兆しはないというクライアントさんがかなりいらっしゃいました。

そういう人たちの担当になってみて実感したのは、セッションが周りに対する非難や愚痴に終始する人の心の問題は、何年通っても100%よくならないということ。

自分の問題を人のせいにすることを、専門用語でexternalization of blame(非難の外化)といいますが、これは、自分の問題の本質を見ず、別の方向を見てしまっているということなんですよね。なので、どうしても問題の解決には至らない。

問題の原因も解決へのカギも、外側ではなく、いつも自分の内側にあります。

自分の心の問題というのは、たとえ状況的には他者によって引き起こされたように見えても、やはり自分の中に原因があります。

人は自分の持つ感情に責任を持たなければなりません。どんな感情を持つかというのは、人に強制されるものではなく、実をいうと、自分自身の選択だからです。

例えば、「お金を盗まれた」という単純な例でみてみましょう。

もちろん、盗んだ人が悪いのは当たり前ですが、それで怒りや恨み、人間不信を抱き、人生が不幸に感じられるようになったとすると、そういう精神状況を作り出したのは、盗んだ泥棒ではなく、自分自身なのです。

「お金を盗まれた」という状況に対して、どういうリアクションをとるか。怒りや恨みや失望を抱き続けて心を害してしまうか、それともそうならないかは、自分の選択であり、自分次第なのです。

自分に原因がある、というと、厳しく聞こえるかもしれませんが、だからといって、今こうなったのは自分が悪いと、自分を責める必要はありません。これは、いいとか悪いとかいう問題ではなく、あくまでも原因がどこにあるか、ただ、それだけのことです。原因を知ることは、問題の解決に役立つので、大切なのです。

自分の中に原因があると知ることは、実はとても素晴らしいことです。

なぜならそれは、

「自分の人生は、他人や周りの状況に制限されたり左右されるものではなく、自分次第である」

「もし今の人生の状態が気に入らなければ、それを自由に創り変えることができる、そしてそれを実現するパワーは自分の中にある」

ということに他ならないからです。

よく言われるように、他人は変えられませんが、自分は自分の意思で変えられるということです。

ただし、自由には必ず責任が伴いますから、原因を自分の中に見つけ、対処していくというこは、自分の人生に責任を持たなければならない、ということでもあります。でも、本当に意義のある人生を送りたいならば、この責任は避けて通ることはできません。

自分に起きた問題を誰かのせいにして、自分のもつパワーを他人に明け渡してしまうと、結局のところ、無力感(文字通り、自分にはパワーがないという感覚)を引き起こすことになります。無力感は、鬱につながります。

また、被害者という不毛な役割を演じると、今抱えている問題の中にはまり込んで動けなくなり、人生を停滞させてしまいます。

それよりも、自分の人生に責任を持って、自分で自由にコントロールできる唯一の存在である、自分自身をコントロールし、変えていったほうが、確実に、建設的で幸せな結果を引き寄せることができる、ということです。

 

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人の評価が気になるとき

人にどう思われるか気になって萎縮してしまう人が、よくいます。

周りの人がみんな、自分のことを批判の目で見ているんじゃないかと、気になってしまう。

ひどい場合だと、スーパーに買い物にも行けなくなり、引きこもりになる人もいます。

こういう人たちを見ていると、問題なのは、人の評価ではなくて、実は自己評価であることが多いようです。

自分に対する評価がとても低い。だからそれを周りに投影し、周囲の人の評価を恐れるのです。

実際、本当に雄弁で、影響力があるのは、人が自分をどう評価するかではなく、自分が自分をどう評価するか、だと思います。

仮に、100人の人に口々に賞賛されたとしても、もし自分自身が自分を認めておらず、自己否定しているのであれば、その賞賛は耳に入らず、その人の自己評価は低いままでしょう。

反対に、100人の人にけなされて、否定されたとしても、もし自分に恥じるところがなく、自分で自分を認めてあげることができるなら、自信を失わずにいられます。

本来、人の評価というのは、無責任なものです。ごく限られた一部だけを見て、勝手にあれこれいう。でも、自分のことを一番よく知っているのは、自分自身です。

人の評価に振り回されて一喜一憂するよりも、自分自身に恥じることのないように生きて、それさえクリアしていれば、後は堂々としているほうが、よほどエネルギーの無駄がないと、私は思います。

 

 

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