盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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丁寧に、優しく、心をこめてすると起こる、気分の変化

もし、なんとなく気分がふさいでいて、面白くない日々が続いていたら、やってみてほしいことがあります。

それは、日常のささいなことでいいので、何かをするとき、丁寧に、優しくする、ということ。

例えば、ドアや扉の開け閉めも、乱暴にするのではなくて、優しく閉める。玄関の靴を靴箱にしまうときも、丁寧に、優しくしまう、など。物に触れる時、動かす時に、丁寧に、優しく、を心掛けてみてください。

料理をしたり、誰かに何かを渡したり、伝えたりするときは、いい加減な気持ちやぞんざいな態度ではなく、丁寧に心を込めてやるよう、心がけてみてください。

それだけで、低調だった気分が上がるはずです。

なぜかというと、丁寧に、優しく、心を込めて何かをすると、自分の波動が上がるからです。

ざっくりいうと、人はもちろん、すべてのものや事象、目に見えない思念も、すべて、細かい粒子の集まりでできています。細かい粒子は振動していて、その振動数が遅ければ、波動が低くなり、早ければ高くなります。何かをするとき、乱暴に扱ったり、いやいやしたりすると、遅く振動して低い波動になりますし、優しく、丁寧に、心を込めてすると、振動数が高まって、エネルギーレベルがアップもアップします。

自分が高い波動を出し始めると、接する人の波動も引き上げることができるので、結果的に、周囲の人の自分に対する反応もよくなったりもしますね。

意識するだけで、いつでも、どこでもできる、自分の気分を改善する方法なので、ぜひ、やってみてください。

未来を変える

今の自分を作っているのは、過去の自分の在り方です。過去の選択、起こった出来事への反応や対応のしかた、持った感情や思考の結果が、今の自分の心身の状態や、人間関係を含む、自分を取り巻く環境を作っています。

わかりやすい例でいうと、過去に暴飲暴食をし続けていると、現在、胃や肝臓が悪く、脂肪の多い、疲れやすい体になりますよね。

過去に、人に対して、思いやり深く、誠実な態度で接し続けてきたら、現在、快いやり取りができて、何かあったときは進んで助けたいと思ってくれる人が近くにいる、充実した人間関係ができているはずです。

過去に、恨みや妬み、不安などの感情を多く抱き続けたり、ずるい考えや、傲慢な考えをいだいたりし続けていると、知らず知らずに心は重く濁り、必ず表情がけがれてきます。こういう人は、健全な人であれば避けたくなり、同じように不健全な思考や感情を持っている人が寄ってきやすくなるので、取り巻く人間関係も、いい人がいなくて、嫌な人ばかり、ということになります。

人相にはその人の生き様が出ます。普段、何を考え、感じて生きているか、顔に染みついて隠しようもなく出てしまいます。ただし、一時的に怒っているとか、不安に駆られているとかではなく、長年、持つことが習慣になっている思考や感情のパターンが、人相を作ります。行動や選択も、一度の行動や選択ではなく、繰り返されるパターンが、その人の状態や環境を少しずつ作り上げていきます。

だから、こんな人生、嫌だ、変えたい、と思ったら、今から、普段、自分が抱きがちな感情や思考、やりがちな行動や選択、出来事が起こったときや人と関わるときの反応パターンに気づくことが大拙です。それを変えることを、今から始めれば、未来を変えることが可能だからです。

これは、いつ始めても遅いということはありません。自分の現実は自分が創造できるものであり、それは誰しもに与えられた特権なのですから。

情報を減らす

現代社会では、色々な情報があふれかえっています。知らず知らずのうちに、頭に情報が渦巻いて、処理が追い付かないまま渋滞しており、心もその分揺れ動いて、不安定になっている人が多いように思います。

物がたくさんあふれている家では、「印鑑どこだっけ」と、いざ、大事なものを探そうと思っても、雑多なものに紛れて、見つけづらくなります。それと同じで、情報があふれかえっていると、自分の中に、本当に必要なものを見つけようと思っても、目に入らなくなります。

本当は自分のここに気づいて、今までの在り方を変えたら幸せになれる、というポイントがあって、そのお知らせサインを自分の心や体の叡智が発していても、いつも雑音でうるさい場所では、か細い繊細な声が聞こえないがごとく、聞きとれなくなります。

静かに自分と向き合って、自分が発している本当の声を聞き取るのが恐ろしくて仕方がないがために、一人にならなくてすむよう、いつも誰かと一緒にいて、ずっとしゃべり続けていなければならない、依存症の人が時々いらっしゃいます。

こういう人は、おのずと共依存関係を形成してしまうがために、パートナーとの関係も、いずれうまくいかなくなるのですが、そうなると、即座に次のパートナーを見つけて、同じことをしてしまいがちです。結果として、問題が未解決のまま、問題から目をそらすために、対象を変えて依存し続ける繰り返しになってしまいます。未解決の問題が、平行線のままだとまだいいのですが、こうして負のループを繰り返すと、目を背けているうちに問題は蓄積し、どんどん大きくなるものです。そうなると、もっと強力に自分の声を遮断しなければならず、ますます依存傾向が深まってしまうということになります。

不安が強い人は、情報を求めて安心しようとする傾向が強くなりますが、心の中にある恐れが吸引力となって、同じ性質のものに引かれてしまうため、不安な情報ばかり探してしまい、内面の不安を強めてしまうという結果を作り出します。世の中には、もっと気持ちが明るくなったり、元気をもらえたりする情報もたくさんあるのですが、不安が強い人は、そういう情報とは自分の心との親和性がないので目に入らず、調べれば調べるほど、不安になっていくのです。

生きていくのに必要な情報は、実はそんなに多くなく、探しにいかなくても不思議と自然に入ってくるものです。

私が昔、メキシコにいた頃は、まだメキシコではインターネットがさほど普及しておらず、インターネットカフェに行って、お金を払わなければ、アクセスできませんでした。当時は、スマホどころかガラケーを持っているメキシコ人も少なく、テレビがない家もさほど珍しくなかったと思います。私は途中から中古のテレビを買いましたが、新聞を読むわけでもなく、情報はそんなに入って来ない環境に住んでいました。一人で暮らしていましたが、今、思えば、情報がない生活は、静かで、快適でした。時々、真夜中に「コケコッコー」と盛大に時を作る近所のニワトリには辟易しましたが、朝は庭の木をつつくキツツキの音で目が覚め、気持ちがよかったです。

そんな生活でも、必要(?)なニュースは、階下に住む大家さんが、階段の下から叫んで、教えてくれていて、なんとかなっていました。ダイアナ妃が亡くなったときには、「イギリスの王女さまが死んだよ!」と叫ぶので、たぶん、エリザベス女王が亡くなったんだろう、ダイアナ妃はまだなくなる年じゃないものな、と聞き流していました。小渕総理が亡くなった時も、数か月知らないままでしたが、メキシコに住む生活では、知らなくても全く差支えありませんでした。ある時は、日本から来た観光客の人に、「日本のニュース、何かありませんか。こっちに住んでいると、何もわからなくて」と聞いてみたところ、「アンディ・フグが死にました」といわれ、アンディ・フグが誰か知らなかった私は、たぶん、珍しい種類のフグが水族館かどこかで死んだんだろうと思っていました。

いずれにしても、メキシコにいた頃は、情報が少ないのに、むしろ、少ないがゆえに、色々なことを感じ、たくさんの人と交流しながら、生き生きと暮らせていたように思います。

一つの情報を処理するために、脳の神経細胞は、シナプス(神経細胞同士をつなぐ接合物)を介して、超高速で何百万もの電気信号をやり取りします。近年は、ただでさえ、情報を多く取り入れている上に、大人も子供も長時間、スマホゲームをするので、脳は過剰な刺激で疲弊し、休まることがあまりありません。交感神経が活性化しすぎるので、不眠症の人も増えるでしょう。当然、心にもいい影響があるわけがなく、自然とつながることによって活性化されるはずの感覚は劣化し、情緒に乏しい人が多くなってきているように思います。とても懸念される風潮だと思います。

かつて、不安がとても強く、鬱症状もひどい、20代前半のクライアントさんがいらっしゃいました。この人は、同じ年代の人たちがするように、SNSをしたりネットを見たりしていましたが、ある時、情報に触れることが自分の症状を悪化させていると気づき、自発的に情報断捨離を決行しました。その結果、ほんの1~2週間で、以前よりも不安が減り、心が安定したのでした。その上、自分への気づきがあって、精神的にも進化されていました。

放っておいたら情報が自分の中にあふれかえってしまう、情報が多すぎる今の社会では、情報断捨離することは、健全な心を維持するために、とても役立つことだと思います。

最近読んで、よかった本

最近読んで、とてもよかった本をご紹介します。

「おじいちゃんが教えてくれた人として大切なこと」アルン・ガンジー著 桜田直美訳 ダイヤモンド社。

愛と非暴力を説き、実践した、マハトマ・ガンジーの孫、アルン・ガンジーが書いた本です。

南アフリカで育ったアルン・ガンジーは、子供の頃、人種差別からくる理不尽な暴力を受けることが日常茶飯事でした。そのため、心が荒んで、怒りを持て余し、自分自身も暴力的な子供になっていました。そんな時、祖父のマハトマ・ガンジーのもとにしばらく預けられ、一緒に暮らすことになります。

マハトマ・ガンジー自身、差別や暴力を受けて育ったので、若い頃は粗暴なふるまいがある人でした。けれども、自分の心をコントロール術を身に着け、その結果、絶大なパワーを発揮して、インドを独立に導き、国境を越えて多くの人の心に影響を及ぼすに至りました。

子供だった孫から見たマハトマ・ガンジーは、決して怒ることがなく、どんなときにも穏やかな人だったそうです。けれども、孫がずるいこと、よくないことをしたときには、それを見抜き、怒るよりももっと深いやり方で、二度とそれをしないよう、教えました。

マハトマ・ガンジーの存在に触れ、直接、色々なことを教わった孫は、自身も心のコントロールを身につけるようになり、高い志をいだく大人に成長し、やはり、世のために役に立つ生き方をするようになったのだと思います。

暴力よりも、愛と非暴力の方が、多くを成し遂げ、周囲を変える力を持つか。暴力よりも愛の方が、パワフルなんですよね。暴力のパワーは、一時的に、表層の部分しか影響を及ぼせない、偽物のパワーです。愛は本物のパワーなので、根本的かつ持続的な変化を及ぼすことができるのです。

暴力による支配は、怖いからいうことを聞く、でも心の底では従わないという現象を起こします。愛による働きかけは、心の底から納得して、従いたくなる。どちらがよりパワフルか、ということです。

当時、インドを支配していたイギリス政府は、言うことを聞かないマハトマ・ガンジーに逮捕命令が出しますが、マハトマ・ガンジーは終始穏やかで、「はい、わかりました」と素直に応じるため、逮捕しにきた役人は戸惑い、困ったと言います。あなたがそういう態度だと、逮捕したくなくなる、いっそ、敵対的に抵抗してくれた方が、こっちも威圧的に逮捕しやすい、というわけです。

マハトマ・ガンジーは、怒りを持つことが悪いとは言っていません。怒りは必要な感情。でも、怒りを暴力で表すことは、よい結果をもたらさない。怒りを建設的に使えば、物事を変化する力になるということです。

読みやすい本なので、興味がある方は、読んでみてはいかがでしょうか。

エネルギーを強めるものと弱めるもの

私たちのエネルギーは、私たちが摂取する食べ物や飲み物、接する人や身を置く場所、私たちが抱く思考や感情によって、増えたり減ったりします。私たちのエネルギー、すなわち「氣」が損なわれずに十分あれば、人は「元気」でいられます。今回は、私たちの氣を増やして強化するもの、減らして弱体化するものについて、お話したいと思います。

まず、食べ物や飲み物でいうと、添加物がたくさん入った加工食品はエネルギーを低下させます。肉や脂っこいものも、消化に多くのエネルギーを要するので、体に負担がかかります。江戸時代の飛脚は、当時の日本に肉を食べる習慣がなかったため、豆製品からたんぱく質を摂っていました。ある時、飛脚に肉を食べてから走らせたら、体が重くて走れなかった、という話を聞いたことがあります。

カフェインを含む飲みものも、大量に摂取すると、不安になりやすくなったり、イライラしやすなったりして、精神の不安定さを引き起こします。アメリカでカウンセリングをしていたころ、不安が強く、小さなことが気になるクライアントさんがいて、聞けば毎日2リットルのコーラを飲んでいるというので、カフェインが少ない飲み物に置き換えるようにいったところ、それだけで不安感が減少しました。また、統合失調症で幻覚に煩わされているクライアントさんも、コーラの大量摂取を減らしただけで、幻覚の症状が落ち着いたことがありました。

電子レンジで調理したものも、食べ物のエネルギーを損なうと思います。同じ料理でも、火で調理したものと、レンチンしたものでは、数字の上での栄養素が同じであっても、エネルギーの質が変わってくるように感じます。冷凍食品や缶詰、冷蔵庫に長く入っていて古くなったものも、新鮮な食べ物に比べて、生命エネルギーが激減します。

エネルギーを増やすものは、新鮮な野菜や果物、豆類、全粒穀物など。とれたてで新鮮なものほど、生命エネルギーが豊富で、私たちを元気にします。個人的には、海の近くの町で、とれたての魚を使った海鮮丼を食べたときなど、ぱっと目の前が明るくなるように意識が澄み渡り、身体が元気になります。スーパーでパック詰めされたお刺身にはそこまでの効果は感じられません。メキシコに住んでいた時は、新鮮な果物をその場でジュースに絞ってくれる屋台があって、それを飲むととてもおいしく、エネルギーが高まりました。当時のメキシコは、まだ加工食品があまりなくて、あっても高価で手に入りづらかったので、新鮮な材料を使って、ちゃんと手間ひまかけて調理して食べることが多く、そのせいもあって、貧しい人が多くても、割合、心身ともに丈夫で健康な人が多かったように思います。

ただし、今までの食生活をいきなり大きく変えることは、ストレスを生み、かえって心身の負担になりますので、お勧めはしません。変えたいと思うなら、少しずつ変えること、また、悪いものをやめることより、まず、いいものを増やしていくことされる方がいいと思います。体にいいものを取り入れていくと、自然に悪いものを食べたくなくなるという変化が起きやすいからです。

日々、接する人によっても、私たちは力を得たり奪われたりします。エネルギーを吸い取るタイプの人は、例えば、依存的な人、支配的でコントロールしてくる人、自分ばかり話して、相手の話を聞かない自己中心的な人、承認欲求が強い人、ネガティブ思考で、不平不満や悪口が多い人などです。一緒に過ごした後、疲れたと感じるなら、エネルギーを奪われているということなので、やむを得ない場合を除いて、一緒にいないほうがいいでしょう。どうしても関わねばならない場合は、心の中で一線を引くことが大切です。

逆に、その人と話したら、楽しい、癒される、勇気づけられる、と感じる場合は、その人の高いエネルギーをもらって、元気になっているということです。人は、目には見えなくても、お互いにエネルギー交換をしているのです。もし、元気をもらっているなと感じたら、こちらもお返しをしたいですね。一方的にもらう依存的な関係だと、いい人が離れていき、長続きしにくいものです。ギブアンドテイクのバランスが取れている方が、安定し、関りは永続します。

人と同様、私たちは、場所ともエネルギー交換を行っています。だから、癒されたり、元気になるような場所に時々行って、エネルギーを補充することは、大事ですよね。海や山など、自然が豊かな場所へいくと、誰でも気分がよくなると思います。水辺や植物が多いところは、いい「氣」があふれていて、浄化力があるので、人は皆、それを無意識に感じるのでしょう。海や山が近くになくても、緑の多い公園に行ったり、庭がある人は庭いじりをしたり、ない人でも観葉植物を置いたりすることが、幾分、代わりになります。神社やお寺は、清浄な氣があふれ、浄化力が強い場所なので、そういう場所に興味があり、敬虔な気持ちで訪れることができるなら、時々行かれるといいと思います(訪れる人の純粋な信仰心は、その場所を清めて、神様や仏様を喜ばせ、神様のパワーをアップさせます。これも一種のエネルギー交換ですね。)

私たちの思考や感情も、私たちのエネルギーを高めたり、低下させたりします。もののとらえ方が厳格だったり、偏狭で、歪んでいたりすると、ネガティブ思考をいだきやすくなり、必要以上にネガティブな感情(本来、感情にポジティブもネガティブもないと思いますが、今は便宜上、この言葉を使います)を感じやすくなります。怒り、自責(自分に対する怒りですね)、恥、無力感、哀しみ、絶望などの感情は、心を重く、硬く、暗くさせます。体も重く、硬くなり、免疫も下がります。とらえ方が柔軟で、視野が広いと、おのずとポジティブ思考になり、同じ出来事を経験しても、ダメージを受けにくくなります。喜び、愛しさ、勇気、達成感など、自分自身のエネルギーを高める感情をいだくことも多くなります。

いかがでしたか。今回は、自分のエネルギーを強めるものと弱めるものについて、書いてみました。自分の元氣(もともと持っている、いい氣)を、増やすも減らすも自分次第です。できることを意識して、強くて健康な心や体を手に入れたいものですね。

健全な遊び

最近、メキシコに住んでいた頃のことをふと思い出し、しみじみ、思ったことがあります。

メキシコには20代の終わりから30代の初めにかけて、4年ほど住んでいました。メキシコ人はとてもフレンドリーで温かい人種なので、現地に友達もたくさんできて、馴染んで暮らしていました。

そんな中、メキシコ人の友達と遊んでいたことを思い返してみると、メキシコ人の遊び方って、とても健全だったなあと思うのです。

例えば、友達夫婦やその親戚、友人たちと集まって遊んだときのこと。地面に丸や線を書いて、日本でいうところのケンケン・パーみたいなことをやりました。メキシコにもこういう遊びがあるんだと思いつつ、みんな、当時の私と同じ20代後半くらいなのに、いい大人が真剣にケンケン・パーをするとは、メキシコ人て純真だなあと思いました。その時、サンダルを履いていたので、サンダルが壊れないか、心配になりながら、ジャンプしていたのを覚えています。

それから、当時、私はジムに通っていたのですが、そこで知らない20代くらいの女の子たち2人に、おずおずと声を掛けられたことがありました。

「私たち、集まって、クイズを出し合って楽しむ会をやっているんだけど、あなたも来ないかと思って」

これまた、ピュアな遊びをやってるなあ、と思いましたが、あまりクイズに興味がなかったので、これはお断りして、行きませんでした。

また、あるとき、レストランのボーイをやっていた顔見知りの男の子(20代前半くらい?)に招待されて、彼の家に、お昼をごちそうになりに行ったことがありました。彼は、近くの村から通っていて、おばあちゃんやお姉さん、甥や姪など、大家族で住んでいました。お店もほとんどない、のんびりした村で、休みの日とか、仕事が終わった後、何をして過ごすの?と聞いたら、みんなでサッカーをしている、と答えました。

今、思えば、メキシコ人たちは、みんなで集まり、顔を合わせて、健全な関りを持つような遊びをしていました。昔の日本もそうだったのだと思います。メキシコ人には鬱の人が少ないといいますが、こういう素朴な社会の在り方は、とても心にいいと思います。

今の日本は、子供はもちろん、大人でも、スマホのゲームに夢中になっている人が多く、人とのコミュニケーションも、ネットの世界の中だけということも、ままあるようです。こういう遊び方や人との関わり方は、脳に過剰な刺激が行き、思考が乱れるし、心も栄養失調になって偏るような気がします。

直に人と会って話したり、一緒に何かしたり、体を動かしたりすることは、人が健全な心を保つために、とても大切だと思います。機械の中のバーチャルな世界に浸って自然から離れすぎるのは、心身のエネルギー不足やエネルギーの乱れを招く原因になります。

いわゆる「発展途上国」(むしろ「先進国」の方が遅れをとっていることも多々あると思うので、この呼び方もどうかと思いますが)の在り方から学べることは、たくさんあると思います。

過去と未来が同時によくなる方法

過去と未来を同時によくする方法があります。

それは、自分の現在をよくすることです。

現在の自分を、幸せで、満ち足りた気分にしてあげれば、過去も未来も、自然に、悲観的な目でみることができなくなります。

心が満ち足りた状態で未来を見たら、前途が明るく見え、不安な未来は描きにくくなりますよね。

また、過去にたくさん苦しい体験をしたとしても、今が幸せなら、過去の苦しみと同調しなくなり、「あの体験があったから、今の自分がある」等、前向きな視点を持つことが容易になります。

今の自分がよく変われば、過去と未来を見る目がよく変わる。見る目が変わる=過去と未来が変わるということ。

結局、過去も未来も、私たちの頭の中でしか存在しない概念であり、実際に私たちが体験するのは、いつでも、「今、ここ」。現在の連続体があるだけです。現在を支点として、過去、未来を眺めている状態なので、支点である現在の意識状態を変えれば、過去も未来も、いっぺんに変わるというわけです。

そもそも、出来事自体はニュートラルで、それを体験する人が、それぞれの視点によって、いい、悪いを決定しています。例えば、「過去にとても嫌な思いをした」、「未来に嫌な用事がある」、どちらも、今の自分の心境がよりよくなり、視点が高くなれば、より肯定的にとらえられるようになります。

だから、今、ここが大切なんですね。過去に何があろうが、未来に何が待っていようが、現在の心の状態を上げてあげることが肝心。そうすれば、過去も未来も、今までとは違って、よりよく認識することができるということです。

カウンセリングの手法について

最近、日本でも、認知行動療法が定着してきていて、認知行動療法を使ったカウンセリングの提供をする医療機関やカウンセリング会社が増えてきているように思います。

私が日本に帰ってきたばかりの頃は、まだ、認知行動療法さえもさほどよく知られておらず、大学院を出た臨床心理士の同僚に、特段、心理療法は習っていない、日本のカウンセリングは傾聴がメインだよ、と聞かされて、びっくりした記憶があります。

認知行動療法が編み出されたのは1950~1960代で、心理療法としては、アメリカの大学院では必ず習う、基本中の基本であり、個人的には、古典的な手法だと思っています。認知行動療法が効果的だというエビデンスは多くありますが、その後、フォローアップで継続的な効果を調べたら、効果は一時的で、後になって、だんだん薄れていき、元に戻っていくという研究データがあって、なるほどな、と思ったことがあります。

現在は、認知行動療法を基盤として、より発展した、第3ウェーブといわれている療法が数多く編み出されています。DBT(弁証法的行動療法)や、ACT(アクセプタンス・コミットメント・セラピー)、マインドフルネスは、私が比較的よくカウンセリングに取り入れている療法ですが、これらも第3ウェーブに入ります。

どの療法にも、長所と短所があって、これですべての症状が必ずよくなる、という万能の療法はありません。どの療法を使ったら効果がでやすいかは、その人の症状によって、また、気質や認知の度合いによっても変わってきます。

例えば、認知行動療法は、比較的浅い、日常的なストレスを解消するにはとても効果的だと思いますが、深く刻まれた感情的なトラウマを解消するには届きにいです。思考や行動を変えることで感情を変えるという理念が認知行動療法の基盤になっているのですが、視点を変えて考え方を変えるというのは、強い感情に圧倒されているときは、できにくいものです。そういう時は、その感情にのまれないで観察しつつ味わうという、マインドフルネスとか、自分の感情と向き合って対話することに長けている、ゲシュタルト療法の方が、効果がでやすいと思います。

そもそも、心理療法という、人が頭で考えて体系づけたものに合わせて、人の心を当てはめるというのは、無理があると思います。その人の心に合わせて、やり方を調節する方が、自然なのではないでしょうか。

こういうわけで、カウンセリングの手法を限定することに抵抗を覚えるため、私は、直観に従って、その人の状態や資質を見極めて、合うと思われるやり方をひっぱってくることをしています。

マザーテレサの言葉 :思考が現実を作る

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

パターン化された思考が、いかに自分を取り巻く現実を作っていくかを、よく示している言葉です。

思考って、自分の目の前に起きる出来事=体験を、どう捉えるか、で生まれるものだと思います。

捉え方の癖って人によってあるんですよね。いいようにとらえれば、ポジティブな思考になりやすいし、悪くとらえてばかりいると、ネガティブ思考の人になります。

自分の捉え方の癖に気づくことが、まず第一歩。気づいたら、変えることはできますから。

ちなみに、性格は、思考や行動が集積して作られていくものです。だから、思考や行動を変えて行けば、性格も変わっていきます。

習慣とというのは、反復された行動に他なりません。今までとは違う、新しい行動を意識的にとるようにしたり、自他ともに傷つけるような言葉をやめて、よりよい言葉を使うように心がけたりし、それを繰り返せば、運命も変わっていくということですね。

自分が放ったものが自分を取り巻く現実を形作るというのは、量子物理学で証明される事実です。それが思考であれ、言葉であれ、行動であれ、自分が瞬間瞬間に放つものは、自分が住み、体験する世界を形成する材料になってしまうんですよね。

だからといって、無理にポジティブ思考にしようとするのは、逆効果。こう考えなきゃいけない、と思うと、言葉づらがポジティブだったとしても、苦しみの念が放たれてしまいます。言葉よりは、言葉に伴う念の方が真実であり、物事を左右する力を持つものです。

~すべき、~してはいけない、というべき思考は、苦しみの現実を作る元なのです。「こうなったらいいな」、「こうなったら幸せだな」という思いを放つようにした方がいいと思います。

氣の流れをよくする

先日、某温泉に行って、日帰り入浴してきました。

でも、申し訳ないのですが、正直いって、その入浴施設、なんだか、癒されないのですよね。有名な温泉郷にある施設の一つで、泉質はいいのですが、居心地が悪いのです。すごく混んでいるわけでもないのに、なぜでしょうか。

そのわけは、建物の材質と構造にあると思いました。

綺麗な色で塗ってあるとはいえ、コンクリートでできていて、窓が一つもなく、天井が高いのです。天井の方に大きく空気孔が空いているから、息苦しさはないし、コンクリートだから外が暑くても中は涼しいし、その辺はいいのですが、四方をコンクリートで囲まれていると、氣の流れが遮られることを、改めて実感しました。

もし、窓でもあって、外に木の生えた庭でもあったら、視覚を通して氣の交流が起こるから、全然違っていたでしょう。

昔、ある映画でみた、刑務所の中のシーンを思い出しました。その刑務所は、重い罪を犯した受刑者が長年入っているところで、建物にはほとんど窓がなく、唯一、空が見える小さい窓があります。そこから青空を見るのには、順番待ちがあって、何週間に一回か回ってくるだけです。そこで、外を見ることに飢えている受刑者たちの間で、順番を奪い合うための殴り合いが始まるという、本筋とはあまり関係のないワンシーンが、今でも印象に残っています(何の映画だったか、タイトルも本筋は忘れてしまいましたが)。

この時、受刑者たちが欲していたのは、窓から見える青空ですが、それはとりもなおさず、清らかな氣のことだったのだと思います。

実際、アメリカにいたとき、州で一番大きな刑務所でカウンセラーの求人募集があったので、ちょっと興味があって応募したことがあったのですが、面接に行って刑務所を見学し、やっぱりやめよう、と辞退しました。その一番大きな理由が、コンクリートでできた大きな刑務所の建物に窓が一つもなく、太陽光が入って来なくて、1日中、昼か夜かわからないような場所だったから、でした。ここに毎日いたら、(受刑者と接することより、建物の構造的に)心身に悪そうだと思ったのです。

刑務所にあまり窓がないのは、逃亡できないようにするためだと思いますが、これでは、ただでさえ、心の闇を抱えている受刑者は、一層心が荒んで、更生から遠ざかってしまうかも、と思います。

コンクリートで囲まれた建物や場所は、氣の流れを遮ります。駅の地下道なんかもそうですね。物理的な穢れ(地下道の排水路のちょっとした汚水とか、カビとか)や、目に見えない穢れ(人の念とか)もたまりやすくなります。大きな窓があって、絶えず新鮮な空気が流れ込んで循環したり、二酸化炭素を吸って酸素を吐き出してくれる植物(やはりエネルギーの循環を促してくれる)が十分あったなら、穢れはたまりにくいでしょう。コンクリートでなく、木でできた建物も、やはり、氣の流れが遮られにくいように感じます。

個人的には、色々な人が泊まる割に、冷暖房完備で窓を開けることが少ないホテルなんかも、氣がよどんでいて、居心地の悪さを感じます。なので、開けていいなら、まず窓を少しでも開けて、空気を入れ替えるようにしています。

もし、鬱状態の方がいらっしゃったら、何かをする気持ちになりにくくなると思いますが(鬱はそもそも気持ちが淀んで流れが悪くなっている状態ですから、そうなってしまう)、毎朝、窓を開けて、空気を入れ替えたり、太陽の光(特に朝日)を入れたりするだけでも、少し気持ちが晴れると思います。

または、氣がいい場所に行って、しばらくそこにいるのも、お勧めです。自然の多い場所とか、神社を参拝するのもいいですね。

意識的に、自分の氣をよくすることを、心がけたいものですね。