盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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メンタルヘルス

本当の自分とのつながりを断ち切るもの

本当の自分を覆い隠して、本質的な魂の部分とのつながりを断ち切ってしまう要因に、生きのびるために身に着けた仮面や、自らに課している役割があります。

これらの仮面や役割は、恐れや痛み、不快な経験に対処するための方法であり、通常、まだ若くて身を守る術がなかったころに身に着けた一種の処世術です。

これらは、自分の感情を感じることを避け、その状況において刹那的にパワーを獲得するための方法でもあり、現実から目をそらし、ぼんやりと、なんとなく生きることを手助けします。

ただ、これらのサバイバルスキルには大きな欠点があります。短期的には、痛みを感じないように助けてくれますが、長期的に使い続けると、自分の内面とのつながりを弱めてしまい、自分の魂の部分からくるシグナルを、わからなくしてしまうのです。

自分の本質的な魂は、すべてを熟知している潜在意識とつながっており、どうやったら本当の意味で満たされて幸せになれるか、いつも私たちにシグナルを送って導こうとしています。ただし、このシグナルはとても微妙で繊細な音で発せられるので、私たちが自分自身とつながり、内側に意識を向けていないと、容易に聞き逃してしまいます。

生存のための仮面をかぶったり、役割を果たすのに夢中になっていると、このシグナルをキャッチすることができず、自分が本当に行きたい方向から、どんどんずれてしまい、望まない現実を築き上げる結果になります。

それを防ぐためには、

①自分がかぶったり演じたりしている仮面や役割はどれか、気づく。

②その仮面や役割が、今でも本当に自分に必要なのか、それともデメリットの方が大きいか、それは本当に自分を満たしてくれているか、これからも続けていきたいか、自問する。

人は、自分の役に立たないこと、自分を害することは、通常、やらないものです。それがもう、自分に利をもたらしてはいないと意識することは、その行為をやめるための、第一歩です。

 

中毒/アルコール依存

–家族システムの中で恥を担う「病気持ち」。悪いことは全部この人のせい。衝動的・依存的な行動に没頭することで、現実や本当の気持ちに直面するのを避ける。

いじめっ子/支配者

–極度に怖がりで、不安定で、真の自己からかけ離れた存在。他者を身体的・精神的に支配することで、自分の中の恐れや不安を見ないようにしている。

世話人/救済者

–人の世話をすることで、自分を見ないようにする。人が必要なものは知っているが、自分が必要なものを知らない。世話することが、他者に及ぶ自分の影響力や、必要とされている感を得るのに役立っている。

不適合者/失敗者

–自尊心が低く、繰り返し恥の気持ちに見舞われる。自分は不完全、悪い、欠陥があると感じている。この信念体系を維持することによって、自分の人生に責任を負わなくてよくなる。

病みつきギャンブラー

–ゲームに依存することで、気晴らしやパワーの獲得感を得て、現実逃避する。孤独感や自己対峙の必要性から気をそらせている。

理屈屋

–感情的な問題を分析することで、直接的な対峙を避ける。知的レベルにとどまることで、本当の気持ちを感じなくて済む。

ロストチャイルド

–独りになることで、自分が注目されることを避ける。自分の世界に住む、「申し分のない」おとなしい子。人よりも物に愛着をもつ。人と深く関わるのが苦手。

マッチョな男/女

–見かけ上は強く、自分を律することができている。助けを求めるのが苦手。恐れや無力感を仮面の下に隠し、人を遠ざけようとする。

殉教者

–自己憐憫にひたり、自分は理解されない・感謝されない・重荷だ・希望がないなどと感じている。自分の人生に責任を持てず、救済者や調停役のふりをしている場合も。他者に面倒を見てほしがっている。

マスコット

–子供っぽく、かわいらしく振舞うことで、成長することを避けている。クラスのピエロ役。ユーモアを使って家庭内の緊張を和らげる。責任を避け、人に面倒を見てもらいたがる。

八方美人

–境界線が甘く、人につけこまれやすい。ノーということを恐れる。好かれるために、自分を犠牲にし、他者のニーズを満たそうとする。自尊心がとても低い。

完璧主義者

–失敗への恐怖に駆り立てられ、どんな間違いも避けようとする。心の奥深くにある無価値観を埋め合わせるため、外側で完璧であろうとする。

ぐずぐず屋

–習慣的な不注意や怠惰から、ものごとを先延ばしにする。問題を見るのを避けたり、自分の責任を人に取らせようとしたりする。

永遠の子供

–成長して大人の責任を取りたくない「ピーターパン」タイプ。遊んで楽しんでいたい。

反抗者

–反抗的な態度で責任逃れをする。否定的な行為で注意を引こうとする。学校で問題を起こしたり、法的なトラブルを起こしたりする。薬物問題を抱えることも。

生贄

–うまくいかないことがあると、いつも責めを負う。ネガティブヒーローの役割。家族の痛みや恥を表現する。

やり手の成功者

–自己価値観の低さを、生産性や競争にこだわることで埋め合わせしている。自尊心の基盤が「行為」であり、駆り立てられるようにそれを行う。

代理の夫/代理の妻

–代理の夫は、父親の代わりに母親の感情面のケアをし、母親の幸せに責任を感じている男性。代理の妻は、父親の感情面のケアをし、父親の幸せに責任を感じている女性。

尻軽男/女

–追い求めてセクシーに振舞うことで注意を引こうとする。愛を求めても、利用された感、孤独感だけが残る。

吸血鬼

–他の人の資源を使おうとする。与えるものがない人には興味を示さない。この人のそばにいると疲れる。

犠牲者

–慢性疾患を抱えた「病人」であることも。自分を哀れに思い、それを口にする。自分の痛みについてだらだら愚痴をこぼし、誰にもわかってもらえないと訴える。自分自身を助ける責任を逃れている。救済者や援助する専門家をひきつけ、人を操ろうとする。

仕事中毒

–駆り立てられるように忙しく、仕事や成功を追い求める。感情を麻痺させ、無力感を避けるために、仕事に没頭する。休暇を取ったり、娯楽や楽しみを得ることが困難。

買い物依存/物質主義者

–現実や自分の感情から逃げるために、衝動的に買い物をする。

 

いかがでしたか。ご自分に当てはまったものはありますか。

当てはまったからといって、心配したり自分を責めたりしなくても大丈夫です。誰でも一つや二つ、もしくはそれ以上の仮面や役割をもっているものですから。それがいいとか悪いとかジャッジするのではなく、ただ、気づいて認めてあげることが大切なんだと思います。

 

                                              (Chika)

記憶のしくみ

私たちは、日々、新しい体験を積み重ねて生きています。でも、その体験のすべてを記憶しているかというと、そうではありません。ある体験は記憶の彼方に葬り去られ、ある体験は、時がたっても昨日のことのように思い出してしまいます。その違いはなんなのでしょうか?

カギになるのは、その体験をしたときどれだけ心身が興奮状態にあったか、なんですね。

実は、人が最も覚えているのは、傷ついた体験、侮辱された体験です。身を脅かすものに直面し、ストレスホルモンであるアドレナリンが分泌されると、今後の防衛のために、その体験は私たちの意識にしっかりと刻み付けられます。そのため、アドレナリンがたくさん放出されたできごとほど、後々まで忘れずに覚えているというわけです。

人は、概して、いい体験よりも悪い体験の方を、よりよく覚えているものなのですが、これも生存のために古くからある原始的な脳がそのようなしくみに作られているからだと言われています。

いい体験を覚えていなくても命には別条がありませんが、身の危険を感じさせられた悪い体験を覚えていないとなると、その後、同じような体験が起きたときに危険を認識して避けることができず、命に関わります。脳の最優先事項は、命を守ること、体を生かしておくことです。感情的な快・不快は、脳にとって二の次。だから、つらい経験であっても、生存のために必要ならば、忘れることなく記憶に保存されるということです。

ただ、私たちの判断は、しばしば誤ることがあります。その結果、危険ではないものを危険だと誤認識し、不必要な警戒をして、無駄にストレスホルモンを放出し、心身を疲れさせてしまうことがよくあります。「ヘビを見たら3年縄が怖い」といいますが、ヘビを見るという恐怖体験がトラウマになり、縄のように安全なものであっても、いちいち過剰に反応してしまうというということなのです。この場合、もうこの体験は終わった、「ヘビ」はいない、あれは過去のことで現在ではない、今はもう安全だから大丈夫、ということを、身体レベルで納得させることが、過剰反応をやめるために必要になってきます。

また、その体験があまりにも恐怖や苦痛に満ちていて、心が耐え切れない場合は、安全装置が働いて、記憶は意識に刻まれる代わりに、一時的に顕在意識から消去されるということが起こります。幼児期に虐待を受けた多くの人が、子供時代何があったかよく思い出せないという、臨床現場ではよくみられる現象が起こるわけも、ここにあります。けれどもそれはあくまでも一時的な対処法であり、潜在意識に抑制された痛みの体験は、長く放っておけば置くほど、心を蝕むという代償を払わなければならないので、いつかは取り出して、直面しなければならなりません。

記憶に刻みつけられた体験であれ、一時的に消去された体験であれ、それを本当に忘れるためには、その体験がもたらした痛みの感情を昇華させることが必要です。昇華とは、消化することでもあります。痛みの感情には必ず意味があるので、それをちゃんと見つめて、受け入れ、理解するということ。自分の人生から除外するのではなく、その体験がもたらした意味を見つけ、自分の人生に必要なパーツとして組み込んみ、自分自身に統合するということ。その作業ができたとき、その体験は、痛みしかもたらさない厄介な体験ではなく、自分に力を与えてくれるリソース(資源)へと変わります。それと同時に、記憶や潜在意識にとどまっている必要性もなくなるので、自然に消えていき、私たちはその体験から自由になることができるのだと思います。                                (Chika)

幼少期の親子関係の重要性について

人間の発達において、先天的なものと生後の養育、気質と環境のどちらがより大きな影響を及ぼすかを調べるため、アメリカのミネソタ州で長期的な研究が行われたことがありました。この研究は、Minnesota Longitudinal Study of Risk and Adaptationといって、1975年よりおよそ30年かけて、180人の子供とその家族を詳細に調査するという大規模なものでしたが、その結果、次のようなことが明らかになりました。

子供が思春期に深刻な問題行動を起こすようになるかどうかは、母親の性格、子供の先天異常、IQ、子供自身の気質とは、あまり関係ない。カギになるのは親子関係であり、親がどう子供のことを思い、どのように接したかである。

幼児期、継続的によく世話をされた子供は、心身の統制が取れた子供へと成長し、不安定な子育てを受けた子供は、常に高ぶった生理状態になる。結果として、不安定な親の元に育った子供は、しばしば、承認を求めてうるさく騒いだり、ちょっとうまくいかないと強い苛立ちを覚えたりするようになる。継続的な高ぶりは慢性的な不安を生み出し、子供は大きくなると、神経質で冒険心に乏しい人になる。

幼児期にネグレクトされたり、過酷な環境で育った子供は、学校で問題行動を起こすようになり、他の子とトラブルを起こしたり、他の人の悩みに対する思いやりを持てないようになる。

私自身は、環境がすべてを決定するとは思っていないので、上記の研究結果はあくまでも一般的傾向であり、子供がどういう成長の仕方をするかには、生まれつきの気質も大きな役割を果たすことがあると思うのですが、確かに子供時代の親子関係が人の人生に多大な影響を与えるということは否めない事実だと思います。

私が見た中でいうと、不安定で一貫性のない子育てを受けた子供は、成長する過程で、強い不安、または怒りを持ち続けることが多いようです。

不安と怒り、どちらが強いかというのは、その子供の生まれつきの気質によります。特に男の子は、怒りが攻撃性を帯びる場合が多いように思いましたが、これはアメリカの臨床経験の観察によるもので、日本では違うかもしれません。(日本では子供のクライアントをまだほとんど扱ったことがないので、よくわかりません。)

例えば、ある10歳の男の子は、学校で「今度、銃を持ってきて、お前らみんな皆殺しにしてやる」と暴言を吐き、手におえないといわれてカウンセリングを受けていましたが、この子は、お母さんがアルコール依存で子育てができず、父親も不在で、お祖父さんに育てられていたのでした。強がってはいるけれど、本当は心の底で、母親のことをとても心配し、傷ついているのが、見ていてわかりました。

女の子にも似たような例がありました。小学校で問題行動を起こし、クラスメートとうまくいかずに、カウンセリングに連れてこられた子だったのですが、この子はとにかく怒りが強く、心を閉ざしていて、口をきかない。その時は私ではない別のセラピストが担当していたのですが、アートセラピーで絵を描くときだけ、夢中になって描くのだそうです。しばらくたって来なくなったこの子は、数年後、また問題を起こして、カウンセリングに連れてこられ、今度は私の担当になりました。10代半ばに成長した彼女は、以前よりも素直で穏やかになっており、私にこう打ち明けました。

「小学校のころは、私、いつも怒っていて、誰にでも攻撃的だった。とても悲しかったから、誰とも口をききたくなかったの。」

この子にも、アルコール依存で子育てはおろか、自分の世話もできない母親がいたのですが、彼女もやっぱり、母親のことをとても心配しており、だけど自分の手では母親を助けようがなく、無力感と深い哀しみに苛まれていたのでした。彼女の怒りも、前述の男の子と同様、抑うつ状態が転じたものだったと思います。

もしも、親が一貫した愛情をもって安定した子育てをするならば、例え物質的には多少の不自由があったとしても、適切な問題解決能力を備え、安定した心を持った大人が育ちます。そうなれば、結果として社会問題の多くが改善されるのではないだろうかと思います。

この研究結果を見て、社会における子育ての大切さを再認識させられた気がしました。              (Chika)

 

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境界線パーソナリティとトラウマ

境界線パーソナリティ障害は、10種類ほどあるパーソナリティ障害の一つで、対人関係、自己像、情緒が非常に不安定であり、かつ、行動が衝動的であることが主な特徴です。

境界線パーソナリティの人は、見捨てられ不安がとても強く、誰かに捨てられると思うと非常に取り乱し、必死でそれを食い止めようとします。そして、捨てられる恐怖が強いあまり、しばしば、自分から衝動的に関係を断ち切ったり、自傷行為をほのめかして、相手をつなぎとめようとしたりします。

対人関係においては、相手を理想化したと思うと簡単に幻滅するといった具合で、極端に揺れ動き、長続きしない関係を転々とする傾向があります。

情緒においては、とても繊細で過敏であり、非常に傷つきやすいので、ささいなことに激しく反応します。感情のコントロールが困難で、容易にイライラしたり、不安になりやすかったり、強烈な怒りを抑えられなかったりします。そして、いつも虚しさを抱えています。

行動においては衝動的で、しばしば、浪費、見境ない性的関係、過食、アルコールや薬物の依存、危険運転など、自分に害を及ぼすような行動に身を投じます。

自殺をほのめかしたり、自殺未遂や自傷行為を繰り返すのも、境界線パーソナリティの特徴です。

1980年代、ケンブリッジ病院に勤務していた精神科医のJudith HermanとBessel Van Der Kolkは、境界線パーソナリティと診断された患者のうちあまりにも多くが、子供時代のひどい体験を語っている事実に衝撃を受け、詳細な調査に乗り出しました。その結果、この病院の境界線パーソナリティ患者のうち81%が、子供時代、深刻な虐待かネグレクトを経験しており、そのほとんどが7歳以下に始まっているということが明らかになりました。

一般に、虐待やネグレクトは、始まった年齢が幼いほど、深刻な影響をその後の人生に与えます。子供の頃、家庭で虐待やネグレクトを受けた子供には、逃げるという選択肢はありません。頼る人もなく、隠れる場所もない環境で、恐怖と絶望の毎日を、なんとかやり過ごさなければならない。多くの子供が、外では何事もなかったようにふるまい、深い哀しみや怒りを心の底に閉じ込めて、生きているのが現実です。

そんな風に子供時代を生きた人が、大きくなって、誰でも助けてくれそうな人、わかってくれそうな人に必死にしがみつくのは無理もなく、また、現実から解離してしまう傾向をもってしまうのももっともなことだと、Bessel Van Der Kolk博士は述べています。

実際、ケンブリッジ病院の研究結果を見なくても、私が境界線パーソナリティのクライアントさんたちと接した経験からいって、ほぼ例外なく全員が、虐待かネグレクトを受けており、ごく若い年齢で凄まじい体験をしていました。仲のいい両親のもとで、愛情を受けて育った人は皆無であり、親が薬物やアルコール依存等で親として機能しておらず、複数の加害者によるレイプ、近親相姦、日常的なひどい暴力、身内の自殺や殺人、といった、強烈なトラウマ体験が数多くみられました。

子供の頃に刻印されたトラウマは、大人になったからといって自然に消えてなくなるということはありません。概して、境界線パーソナリティやPTSD、そして双極性障害といった、過去のトラウマの影響で生じることが多い精神疾患は、回復するまでに、長い時間と努力を要します。そして、自分の心の傷と向き合うことは必須であり、それはとても痛みを伴うので、楽な作業ではありません。

けれども、もしそれが効果的にできた場合、その人たちは、まず例外なく、さなぎが蝶に生まれ変わるように、まず人格において、そして日々の生活においても、素晴らしい変革を成し遂げることを、私は自分の臨床経験から知っています。だから、今、苦しんでいる人たちも、自分の人生は変わりうるということを信じて、希望を捨てないでいてほしいと思います。                                                                                                                                                      (Chika)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

 

 

 

 

 

 

考え方と症状の関係性について

認知行動療法は、端的にいうと、思考(認知)を変えることにより感情を変える療法です。物事をどうとらえるか、状況をどう考えるかが、感情や気分を作り出す、という考え方が、その基盤にあります。

今回は、認知行動療法的な観点から、どういう考え方や思い込みが、どのような症状や気持ちを引き起こしやすいか、みてみましょう。

 

うつ

  • 私には価値がない
  • 価値ある人間になるためには、完璧でなければならない
  • 私は~だから、人に愛されない。
  • どうでもいい。どうせ失敗するだけだから。
  • 私は役立たずだから、何もかもダメにしてしまう。

 

不安

  • 心配しなければ、何か悪いことが起こる。
  • 価値ある人間であるためには、完璧でなければならない。
  • まわりの人や状況を思い通りコントロールしなければ、私は制御不能に陥ってしまう。
  • 退屈や不快な感情を避けるために、忙しくしておかなければならない。
  • すべてがきちんとして、正しい場所に収まっている限り、私は大丈夫だ。

 

怒り

  • 人は私が望むとおりに行動するべきだ。
  • 人は私を尊重して、もっとよく扱うべきだ。
  • 人はもっと賢くあるべきだ。

 

痛み

  • もう~できないから、私は役立たずだ。
  • このうんざりした気分は、永遠に続く。
  • この痛みは、自分がしたことの当然の報いだ。

 

いかがでしょうか。何か、ご自分に当てはまるものはありましたか? 

うつに関していうと、無力感を感じさせる言葉、生まれながらに備わっている自己価値を否定する言葉が、うつ気分を引き起こしやすいといえます。

不安で特筆したいのは、完璧主義者、コントロール欲求・承認欲求の強い人は、不安になりやすいということ。

怒りでいうと、相手は~すべきである、という思いが強いと、そうならなかったときに怒りを感じやすくなるということがいえます。例えば、あの人はカンニングをするべきではない、など。確かにそうなんですが、相手の行為は自分次第ではなく、あくまでも相手次第。生きていれば、自分の理想通り・思い通りにならない場合は、日常茶飯事です。それを、人は~すべき、~すべきではない、と、厳格に思い決めていると、腹が立った心身に害をこうむるのは、その相手ではなく、自分。だから損、というわけです。

ちなみに、相手ではなくて、自分は~すべき、~すべきではない、と、いわゆる「~べき思考」を自分に適用すると、自分自身への怒り、ひいては理想通りにできなかったときの罪悪感や不安感を招きやすくなります。

一般に、「かくあらねばならない」という厳正で融通の利かない思考形態よりも、柔軟で順応性がある考え方ができるほうが、心は健康でいられると思います。                                                                                                                                     (Chika)

 

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虐待・ネグレクトが子供に及ぼす影響

虐待された子供にTAT(Thematic Appreciation Test=絵を見せて、自由に読み解いてもらい心理を探るテスト)を行うと、それがどんなに穏やかでなにげない場面の絵や写真であっても、残酷で悲劇的な結末のストーリーを描き出すのだそうです。

これは、虐待された子供にとって世の中は、どこに危険が隠れているかわからない恐ろしい場所であり、彼らには見るものすべてが災いの種に映る、ということを示唆します。

子供時代、愛と慰めに満ちた安全な家庭で育つことは、健全な心を持った大人になるために大変重要なのですが、残念ながら現実はそうはいかない場合が多いようです。

私がアメリカで受け持っていた何百人ものクライアントさんは、その大半が不幸な子供時代を経てきており、少なくとも半数はなんらかの虐待やネグレクトを受け、近親相姦やレイプ、親に銃を突きつけられる、親がドラッグ中毒で満足に食べ物も与えられない、里親を10軒以上転々とするといった、ひどいケースは日常茶飯事でした。

自分ではまだ何もできない幼児期に、基本的欲求を満たしてくれ、呼べば助けてくれ、心が傷ついたら愛を持って気持ちをなだめてくれる大人が、もし周りに一人でもいれば、その子供は大きくなって、

「困難な状況に遭遇してもなんとかなるものだ。人生を思うとおりに変えて、切り開いていく力を、自分は持っている。」

という、自己信頼を抱き、自己コントロール力を持てるようになるでしょう。

自分の意志や欲求に沿って反応してくれる大人が周りにいるということは、周囲の環境と共鳴して生きるということで、これを経験した子供は、たいてい、自己認識力や共感力を身につけ、人と調和し、社会に適応して生きていくことができるようになります。

けれども、虐待やネグレクトのある環境に育ち、自分の基本的欲求や感情的なニーズが満たされず、親または世話をしてくれる大人が自分に合わせてくれない場合、子供は周りの大人の「子供はこうあるべき」という概念に自分を合わせる以外なくなります。つまり、大人のニーズに自分を合わせることになり、これによって、「ありのままの自分ではいけないのだ、自分はどこか間違っているのだ」という観念を抱くようになるのです。

虐待された子供は、周りの人たちの声や表情にとても敏感ですが、それに共鳴するというより、そのサインを脅威とみなして反応する傾向があります。そのため、虐待された子供は、防衛的になったり怯えたりしやすいといえます。そういう子供は、やがて、強いふりをして内心の恐怖感を隠すようになったり、心を閉ざしてコンピューターゲームに一人で没頭するようになったりすることがあります。

回避型愛着(avoidant attachment)と呼ばれるタイプの幼児は、母親がいなくなっても泣かず、戻ってきても無視して、一見、何が起こっても知るもんか、というそぶりを見せます。けれども、実際のところ、子供の身体の方は過覚醒(神経過敏で緊張が高まっている)状態にあります。このタイプの子供の親は、子供を触ったり抱いたりするのを嫌がる傾向が強いようです。回避型愛着タイプの子供は、学校に行くようになると、しばしばいじめる側にまわり、大人になってからも、自分や相手の気持ちに無頓着である場合が見受けられます。

不安型愛着(anxious attachment)、またはアンビバレント愛着(ambivalent attachment)と呼ばれるタイプの幼児は、泣いたり、わめいたり、しがみついたりして、常に自分に注意を引こうとします。母親の姿が見えなくなると非常に取り乱しますが、かといって母親がそばに戻ってきてもあまり満足しません。不安型愛着タイプの幼児の不安傾向はしばしば大人になっても継続し、学校ではしばしばいじめられる側(=犠牲者)になります。

上記の二つの愛着型に加えて、世話をしてくれる大人自体が自分に苦しみや恐怖をもたらす原因である場合、子供は混乱型愛着(disorganized attachment)という第三タイプに分類されることがあります。

混乱型愛着の子供は、生きるために依存しなければならない相手が、同時に身を脅かす危険な人物であるというジレンマに置かれます。逃げることもできず、つながることもできない、という手立てのない状態にあるわけです。結果として、誰が安全で誰に愛着を示していいかわからないこのタイプの子供たちは、知らない人に過度に愛情深く接したり、または誰も信じなかったり、といった極端な愛着のしかたを見せるようになります。

混乱型愛着を引き起こす要因はなにも虐待ばかりではありません。親自身が、家庭内暴力やレイプ、深刻な喪失などのトラウマを抱えている場合、自分の感情が不安定なために、親は子供と向き合って安定した保護や慰めを与える場合ができないことがあります。親が感情的に引きこもってしまい、子供のニーズにこたえられない場合、しばしば役割の逆転が起こり、子供の方が親のニーズを満たそうと懸命になります。こうして親の世話をせざるを得なかった子供は、大きくなってからしばしば自分や他者に対して攻撃的になり、自分や人を傷つけるようになることがあります。

ここまで書いてきて、自分の子育てに不安を覚えた親御さんがおられるかもしれませんが、理想通り完璧な子育てができなくても、基本的部分で愛情がありさえすれば、子供は親と適切なつながりを維持し、ちゃんと育つものなので、大丈夫です。感情にまかせて怒ったり、思い通りに世話をできないことが時々あったとしても、本当は愛するわが子にそんなふうにしたくなかった、という思いがあれば、子供が親に対する信頼を失うことはありません。第一、「理想通りの完璧な子育て」というもの自体、存在しないものです。誰しも、時折迷ったり後悔したりしながら、子供を育てているのではないでしょうか。

また、仮に、虐待やネグレクトにあって、辛い子供時代を送ったとしても、その後社会に出て、愛のある経験をしたり、あるいは本人の生来の資質が優れている場合、心の傷を自ら癒やして、健全な心をもった大人へと成長することは十分可能です。私はそういう人たちをクライアントさんの中に少なかず見てきたので、苦境を乗り越える人間の力には、絶対的な信頼を抱いています。                            

 (参考文献:Van Der Kolk, B.  (2014) The Body Keeps the Score.  New York: Penguin Group) 

                                               (Chika)

 

ニューメキシコ州で撮った、ダブルレインボーです。ニューメキシコに住んでいた時は、空が広いから、雨上がりにはだいたいどこかに虹を見つけたものです。

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3つの危機反応とトラウマ

危険が差し迫ったとき、私たちの身体は、頭で考えるより先に、ストレス・ホルモンである、アドレナリンとコルチゾールを分泌します。この働きによって、心臓は血液をたくさん分泌するためにドキドキと早く打ち、酸素をたくさん体に取り入れようとして呼吸も早くなり、体の筋肉はぎゅっと収縮して固くなります。つまり、次の瞬間、体が素早く動いて、戦うか逃げるかして、危険から逃れるための準備を、身体が自動的にしてくれるわけで、これを「戦うか、逃げるか反応(fight or flight response)」といいます。このとき、私たちの意識は脅威を与える源に最大限に集中し、それ以外の情報はシャットダウンします。

戦うか逃げるか反応が起きている時は、理性や社会性を司る新しい脳が働かなくなり、動物的な古い脳が活性化します。なので、誰かと愛想よくしゃべったり、笑いあったりといった、社交的な関わりはできなくなります。

心身が強い脅威に脅かされ、トラウマが残ると、危険が過ぎ去った後でも、体がこの危機モードになったままの状態になります。そうなると、人は、自分の周りを取り巻くあらゆるものに危険を見つけ出そうとして、常に目を凝らします。そして、敏感すぎる火災警報装置のように、どんな無害な環境にでも、誤作動を起こして、過剰に反応します。

先ほども触れたように、この状態では、古い脳が優勢であり、社交性や共感力を司る新しい脳が不活発なので、人との交流も上手くいかなくなります。人との関わりを楽しむためには、安全や安心を感じ、心を許すことが必要なのですが、常に見えない危険にさらされている(と脳が認識している)状態では、周りの人々=敵である、という意識がどこかにあるので、心に防御壁を張り巡らせてしまうことになります。こうなると、当然、人と深いレベルでつながることができなくなり、対人関係にも支障をきたしてしまいがちになります。

ここまで、戦うか逃げるか反応について書いてきましたが、実は、危険にさらされたときの反応は、戦うか逃げるか以外に、もう1つあります。

それが、「凍りつく」という3つめの反応です。

歩いている虫を手で触ったとき、びっくりした虫がひっくり返って、死んだようになり、しばらく動かなくなるのを見たことがあるでしょうか。あの反応が「凍りつく」です。あの状態は、死んだふりをしているのではなく、本当に体が硬直して、意識を失っているのだそうで、死んだと思わせて敵をやり過ごすためだとか、余計なエネルギーを消耗しないで済むための省エネモードだとか、死の痛みを感じさせないために起こるとか、言われています。

ただし、虫や動物なら、ひとたび危険が去ると、凍りついた状態から比較的すぐに立ち直って、何事もなかったようにまた活動できるのですが、人間はなかなかそうはいきません。

この「凍りつく」という反応が起こるとき、人は絶望感に襲われ、無気力になります。

脅威を与えるものと戦ったり逃げたりして、自分でなんとか身の安全を取り戻すことができるなら、まだ、自力で状況を打破できるというので、人は通常、無力感には囚われません。そもそも、戦うか逃げるか反応は、エネルギーが活性化されるので、一時的にパワーがみなぎった状態です。絶望や無気力とは正反対の状態です。

けれども、もしどうやっても恐ろしい危険から逃れることができないと判断すると、人は戦うことも逃げることもあきらめて、何もしなくなります。この時、意識は、痛みを感じたくないあまり、外からの感覚を遮断し、外界と関わることをやめてしまいます。つまり、解離を起こすわけです。これは日常的に虐待された子供が、よく取る手段です。体は現実世界から逃げることができないので、意識だけ体から離れてしまうのです。

この状態にある人は、痛みも感じにくい代わりに、喜びや幸せを感じることもできなくなり、鬱状態に陥りやすくなります。現実を感じないよう、感覚を制限しているということは、五感を通して、「今、ここ」にあるものをフルに味わい、楽しむことができないということであり、生き生きと生きることができない、ということを意味するからです。

さて、ここまで、危険に際しての3つの反応、「戦うか、逃げるか、凍りつくか」ついて書いてきましたが、これらの反応を起こしている時、脳がどのような状態になるかを明らかにした、興味深い実験があります。

この実験は、カナダで87台を巻き込む大規模な交通事故に遭遇し、悲劇的な状況をなすすべもなく目撃したのちに助け出された、一組の夫婦に対して、同意のもとに行われました。この夫婦に、事故の光景を思い浮かべてもらい、その間の脳の状態を調べたのですが、結果として、彼らの脳波はそれぞれ、とても顕著な様相を示していることがわかりました。

今に生きることできず、生を楽しむことができない、という点においては、フラッシュバックに苦しみ、戦うか逃げるか反応にとどまってしまっている人も同じということなのです。フラッシュバックそのものが、現在から過去への解離現象だからです。 

これに対して、妻の方の脳は、全体的に不活発で、どこも動いていない、文字通り真っ白な状態。つまり、意識が体から解離して、離人症を起こしてしまっていました。妻の方は、幼いころのトラウマを、いつも解離して逃避することでやり過ごす癖があったため、古いパターンを繰り返していたのでした。

ちなみに、この夫婦は、後に適切なセラピーを受けて、お二人ともトラウマを克服されたそうです。

以上からもわかるとおり、トラウマというのは、「出来事そのもの」ではなく、「出来事によって引き起こされた身体反応がもたらした知覚」です。

トラウマの言語は、言葉ではなく、感覚です。身体に染みついた感覚をいかに削除し、「それはもう終わった。今はもう安全だ」という情報を、身体に新たに覚えさせることができれば、トラウマは克服できる、ということなのです。

トラウマについては、機会を見て、続きをまた書きたいと思います。                                          (Chika)

 

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外の世界で目に入るもの

なにかが自分の心の中を大きく占めていると、外の世界でも、それをいたるところで見てしまうようになります。

例えば、心の奥深くに、見ないようにしている未解決の恐れがあれば、恐れを感じるような対象に引き付けられ、出会ってしまいます。

古い怒りを押し込めたまま生きていると、それが引き出されるような人や状況に、いたるところで遭遇するでしょう。

誰かに力で支配された経験があり、権力を嫌悪している人は、コントロール欲求の強い人がいたるところにいるように思われ、また、現実に、職場などでそういう人と出くわし、さらに不自由で窮屈な体験を重ねる傾向があります。

このおうに、意識の奥に潜んでいる恐れや怒りなどの不快な感情は、繰り返しそれを誘発する外の世界のできごとにより、さらに強化され、自分の中に定着するようになっています。あなたが、それに気づくまでは。

もし、自分のパターンに気づいて、心の奥深くにある傷を癒やすことができれば、もう、それを呼び起こすような人や状況には出会わなくなっていくものです。なぜなら、波長が合わなくなるからです。

ここまで、ネガティブな要素にばかり触れてきましたが、同じことは、自分の潜在意識を占めるいいものに関しても当てはまります。

美しい意識をたくさん抱いている人は、外の世界に多くの美しいものを見出しますし、優しさがあふれている人は、優しい人や状況に出会うでしょう。

愛が深い人は、外の世界に、愛をたくさん見出すでしょう。

つまり、人は、概して、自分の中に存在するものを、外の世界に投影して見るということです。

これは、今、自分の周りに見えるものが好きではないのなら、自分の内面を変えればいいということにもなります。

自分の人生を好きなように作りかえる秘訣が、ここにあると思います。                                                                                                                                            (Chika)

 

 

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トラウマの真実(2)

トラウマの真実(1)のつづきです。

Bessel A. Van der Kolk博士によると、複雑なトラウマ体験をした人は、愛着面において問題を抱えるようになります。結果として、社会で人と関わっていくことが困難をきたすことが多いです。

人間の脳は、おおざっぱに分けて、前面が新しい脳で、後ろ側が古い原始的な脳になります。前面の新しい脳は、主に体の外で何が起こっているかにフォーカスし、人との関わりに関心を向け、属する社会や文化に適応するような行動をとるよう促す役割を果たしています。これに対し、後ろ側の古い脳は、動物的な本能を司り、体の中で何が起こっているかを監視する役割があります。

前面の社会脳は、平常時には活発に動いているのですが、非常にショッキングな体験をして、「戦うか逃げるか」南濃を起こすと、動きが鈍ってゆっくりになります。代わりに、後ろの原始脳が活性化し、サバイバルモードになります。この状態になると、周りで何が起こっているか注意を向けて、人とつながったり、交流を図ったり、ということができなくなります。

自分が生き残るため、身を守ることにすべての関心が行くので、自分の中だけで精いっぱいになり、外の世界の出来事を捉えて、味わい、体験するという余裕がなくなる、というわけですね。

そもそも、社会性を持ち、人との交流を図る、という行為は、「安全である」という前提がなければ、本当の意味できないことです。(うわべだけならできるかもしれませんが。)

脳の扁桃体は、危険を知らせてくれる煙探知機のような役割を持っているのですが、トラウマ体験をした人は、ここが「異常に敏感な煙探知機」のようになってしまい、あらゆるところに危険を察知してしまうようになります。こうなると、生存のために自分の中で起こっていることにばかり意識が行くので、人や社会とうまくつながることも、当然できなくなります。

かつ、人との関わりでひどく傷ついて、トラウマになった人は、「他人=安全ではない。害を及ぼす敵である。」という意識が根底にあるので、身を守ろうと見えない敵と常に戦おうとして、非常に消耗します。

過剰反応を起こしている脳を鎮めて、無駄な戦いをやめて、恒常的な生き残りモードから抜け出すためには、「安全だ」という認識を脳に持たせることが必須なわけです。

「危険は去った。あれは過去のことだ。今は安全だ。もう戦わなくてもいい。」という意識を、改めて植え付けるためには、Bessel A. Van der Kolk博士は、ヒプノセラピーなどが効果的であること、また、想像力を呼び起こし、実際に起きたのとは違う結末を思い描き、様々な可能性があることを認識させることにより、前頭葉を活発化させることの重要性なども説いていました。

私としては、現実に起こったのとは違うストーリーを描き、信じ込むことは、なかなか難しいと思うのですが、何が起こったかよりも、それをどうとらえるか、自分にとってどういう意味があるかの方が、実際 には重要だと思います。そして、その部分は、変換することが可能です。

過去のショッキングな出来事に、建設的な意味を持たせることができれば、過去の記憶は大きく書き換わるし、それによって、人や世界は安全ではない、という思考の上での刷り込みや体に染みついた感覚もなくすことができます。そうすれば、人とつながって、意味深い交流を図り、幸せな人生の構築を再開することは全く可能だし(なぜならそういうケースを臨床上見てきているから)、それがトラウマを乗り越えるということだと私は思います。    (Chika)                              

 

 

 

 

トラウマの真実(1)

先日、アメリカの精神科医で、トラウマの研究・治療の第一人者である、Bessel A. Van der Kolk博士のセミナーを受けました。といっても、セント・ルイスで行われているセミナーを、日本に居ながらにして、ウェブキャストでライブで受けたのですが(おかげで徹夜だったのですが)とても興味深い内容で、勉強になりました。

なので、その内容を、ほんのさわりだけですが、いくつか取り上げ、私が臨床上、経験し、理解したことと合わせて、ここでシェアしたいと思います。

①トラウマの言語は、言葉ではなく、感覚である。

トラウマを受けた人というのは、心身が「戦うか逃げるか反応*」になったまま、抜け出せなくなった状態にある。(*戦うか逃げるか反応=危険を察知したとき、他の感覚がすべてシャットダウンし、闘って相手を倒すか、走って相手から逃げるか、いずれかの手段を取るために全神経が集中すること。この時、体は、アドレナリンを放出し、素早く動けるよう、心拍数があがる・筋肉が収縮する・呼吸が早まる等の準備をする。)

トラウマは、体に感覚として染みついているものなので、何が起きたかを言葉で語るよりも、体の感覚を変えてあげる方が、症状の軽減に役立つ。なので、例えばヨガなどの実践は効果が高い。EMDR(指の動きに合わせて、眼球を左右に動かす治療法)も、感覚をシフトさせるのに役立つため、トラウマには高い効果が期待できる。トラウマの癒しには、トラウマとなった出来事を追体験したり、その詳細を言葉にして語ったりする必要は、必ずしもない。

②トラウマを受けた人は、過去に生きている。

ひどく衝撃的な経験をして、それがトラウマになった人は、そのまま時間がとまったかのように生きてしまう。その時の感覚のままに現実を見て、周りのあらゆるものにトラウマの原因となった事象を投影する。結果として、目に見えない危険から身を守るため、常に緊迫した状態にある。「その経験はもう終わったのだ」いうことを、本人の意識にわからせることが、トラウマ治療の最終目標である。

③トラウマを受けた人は、自分の内面を見つめることを恐れる。

トラウマを受けた人は、体の感覚を遮断してしまって感じることができず、自分の内面を見つめること、気持ちを感じることを、なんとかして避けようとする。なぜなら、自分の中に潜ると、恐ろしいものを見なければならないと感じるから。呼吸も浅い人が多い。なぜなら、深い呼吸は、感覚とつながり、自分自身の感情を再び感じることを、許容してしまうから。なので、アルコールやドラッグ、その他の対象に耽溺して、感覚や気持ちを紛らわせる人が、トラウマの患者には多い。けれども、それは逆効果で、逆説的だが、トラウマの克服には、自分自身とつながり、感覚や気持ちを再び感じることが、必須である。

まだまだ、セミナーからくみ取ったことは多いのですが、今日はこの辺にしておきます。また機会があれば、まとめて書くかもしれません。

ちなみに、Van der Kolk博士のお父さんは、強制収容所に囚われていた経験があるのだそうです。はっきりとは言っていませんでしたが、ニュアンスから、多分、第二次世界大戦中のナチの収容所だと思われます。お父さんは、強制収容所から釈放されて帰宅したのち、酒に溺れて、幼い子供だった博士に暴力をふるったのだそうです。

私がアメリカで参加したトラウマのセミナーのプレゼンターは、ほぼ例外なく、自分自身が筆舌に尽くしがたいトラウマを潜り抜けて生き延びてきた人ばかりでしたが、博士もおそらくそうなのだろうと思いました。

ちなみに、この博士はDSM-Ⅳ(すべての精神病が分類され、その診断基準が詳細に記載されている、精神医療従事者のマニュアル的な本)のトラウマに関する執筆も手掛けた有名な人のようです。素晴らしい業績を残した多くの人がそうであるように、この人もまた、逆境を昇華することにより、自己実現を果たした一人なのだろうと思います。

                                                     (Chika)