まだこの道に進むとは思ってもいなかった20代前半のころ、当時アメリカのアイダホ州に住んでいた私は、ある女性と知り合いになりました。
彼女は中国やネイティブアメリカンなどの他民族の血が混じったアメリカ人だったのですが、年齢不詳でした。話の端々からは恐らく40代くらいと推測されるのですが、とてもかわいらしくて若々しく、キラキラした魅力を放っている人でした。
前向きで明るく、いつも生き生きしていた彼女は、一見するとそんな風には全く見えないのですが、どうも話を聞くと、壮絶な過去を経てきた人のようでした。子供のころは山の中の掘っ立て小屋に住んでいて、とても貧しく、食べるものがないので、狩りをしてリスなんかを食べていた、などと、現代の先進国とは思えないエピソードを、ニコニコしながら屈託なく話すのです。
そんな彼女の話の中で、いまだによく覚えていることがあります。
その当時より遡ること数年前、台所で料理をしていたとき、彼女は包丁で指を切ってしまったのだそうです。「痛い!」と思って流れる血を見たとき、今まで忘れていた何十年も前の性的虐待の記憶が、まざまざとよみがえったといいます。それは、その瞬間まで、完全に記憶から抹消されていた出来事でした。
「不思議なことなのだれど、私が大人になって、自分で対処できるようになったから、抑圧されていた子供時代の記憶がよみがえったんだと思うわ。」
真顔でそう話したときの彼女の顔を、私は今でもよく覚えています。
今思えば、この人は、色々な意味で心のバランスが取れ、オープンなハートを持った人だったと思います。そしてそれは、おそらく最初からそうだったわけではなく、生まれつきの聡明さはあったものの、やはりいろいろな苦しみを1つ1つ乗り越えてクリアしていく過程で、彼女自身が獲得し、身に着けていったものだと思います。そういう人だけが放つことのできる、本物の、輝くような人としての魅力を、まだ若かった私でも感じることができましたから。
彼女が語ったことは、臨床の現場でもよく目にする、心のメカニズムの真実です。
私たちの潜在意識はとても賢明なので、心が耐えられないくらい深い傷を負った場合、一時的にその記憶を顕在意識から消して、生きる上で支障がないように配慮してくれることがあります。
ただし、潜在意識に抑圧された記憶は、一時的に目につかないよう隠されただけであって、完全に消滅したわけではありません。否定的な感情はいつかは表に出て解消されなければならず、あくまでも猶予期間を与えられただけです。
猶予期限が終わり、本人がその傷にちゃんと直面して対処できるくらい成長したら、潜在意識はそれを顕在化しようとします。機が熟したからこそ、浮上してきたというわけです。
もちろん、表出した痛みと向き合うことは、大人になったからといって、決して楽な作業ではなく、抑圧していた期間が長ければ長いほど、対処するのは難しくなります。けれども、あまり長い間、無理に抑圧しておくと、心や体を蝕み、病んでしまうことになるので、やっぱり向き合うしかないのです。
なぜずっと忘れていられないかというと、究極的には、その傷と意識的につながらなければ、解消することができないからです。
これは、必ずしも過去にあった辛い出来事の詳細をすべて思い出して追体験しなければならないというわけではなく、むしろ、過去の体験から感じたこととか、それが受けた心の影響、その出来事が自分に与えた感情的なインパクトの方をちゃんと認識するということだと、私は考えています。
それによって初めて、心の傷は癒やされ、その出来事が現在に及ぼす影響が消滅し、過去が過去になります。そしてその過程で、その人の精神レベルが強化され、心はより一層、輝きを放つのだと思います。
(Chika)