盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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自分の氣の流れを意識する

最近、目まぐるしい日々を送っていまして、ふと、時間調整の為に入った喫茶店で、コーヒーを飲みながら、

「今、自分の氣って、すごい勢いでノンストップで動いているな。」

と気づきました。

あえて、何もしないでコーヒーを味わうことを心がけ、氣の流れもスローダウンさせようと思ったけど、気をつけていないと追い立てられるかのようにガブガブ飲んでしまう。よくないなと思いました。

まさに、怒涛のようにエネルギーが流れている状態で、これが続くと、氣がかれてしまうなあ、と思ったわけです。

たくさん早く流れていると、多くのことをスピーディーにこなすことができるけど、その分、消耗も激しいですからね。

逆に、流れが止まってしまうと(あまりなにもせず変化のない生活をしている人、抑うつ状態の人は、流れがとまりがち)、氣が滞り、現実世界で滞りが起こってきますよね。

ちなみに、向精神薬は、体の氣を滞らせてしまうので、だるいとか、無気力といった感じになってきます。

自分の氣の状態に気づいたら、それを調整するために介入することが可能です。気づかないと、そのうちバランスを崩してしまい、まずは心、やがては体を病んでいきます。

外に向いている意識を、自分の内側に向けて、自分自身を感じる時間を持つことは、健康な心身を保つために、とても大切ですね。

今夜はゆっくり外で鳴いている秋の虫の声でも聴きながら、氣をゆったり整えようと思います。

 

自分が幸せになるのを許可する

ほかの人が苦労しているのに、自分だけ幸せになってはいけない、と思っている人がいます。

宮澤賢治とかもそうだったのかな。

「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」っていってますから。

確かに、この言葉は真理を含んでいると思います。

でも、「その逆もまた真なり」だと思います。

個人の幸せがたくさん広がっていくと、結果として、世界全体の幸福が実現する。

自分が幸せで、きれいなエネルギーに満ちていると、ほかの人によい影響を与えることができるのです。ほかの人が苦しんでいるとき、支えてあげるだけの余力を持てるのです。

その為にも、自分を満たして元気であるように計らうことは、必要なことなのです。

自分を満たして元気でいさせるということは、自分の心が喜ぶことを自分にしてあげること。自分の心が嫌がることをしないこと。

これをわがままと勘違いしている人がいますが、わがままとはむしろ正反対。わがままなことをすると、本当は心が嫌がりますから。

心が嫌がるというのは、濁った感じになる、もやもやする、重苦しい感じになる、鈍くて空虚な感じになるという感覚でわかります。

心が喜ぶことは、スッと通るような感じがする、軽い、明るい、開けた感じがするのでわかります。

心が喜ぶことを選択すると、エネルギーはアップします。自分も幸せになっていきます。

そうすると、周囲の人を幸せにする力も増していくので、一石二鳥なのです。

自分が幸せになることを自分に許可してあげましょう。

 

アメリカ時代

アメリカでカウンセラーをしていたときのオフィスです。

アメリカでは、コミュニティカウンセリングエージェンシーのセラピストとして働いていました。

心理療法による治療が一般的なアメリカでは、カウンセリングを受けられるエージェンシー(会社)が、どんな街にもいくつもあり、保険がきくので、経済的に恵まれていない人でも安価で受けられるシステムになっていました。私の属していたカウンセリングエージェンシーには、複数のセラピスト(日本でいうと臨床心理士が一番近いですが、診断や治療ができる点で、日本の臨床心理士よりも精神科医に近いと思います)と一人の精神科医がいて、精神疾患の患者さんを心理療法と薬物療法の両方のアプローチから治療していました。その他、デイケアや、家庭訪問をするソーシャルワーカー、グループセラピーなど、手厚いメンタルヘルスのサービスが受けられました。患者さんにとっては、日本ではまだ考えられないような恵まれた治療環境だと思います。

犯罪と薬物が蔓延し、家族形態が崩壊しているアメリカでは、重度のトラウマの非常に多くて、私たちのオフィスには、いくつもの疾患名がつく重症の患者さんがあふれていました。オンコール(緊急電話)担当の週は、昼夜を問わず電話で呼び出されて、寝る暇もないほどでした。

写真は、約9年前のものです。

自分のカウンセリング用のオフィスには、来てくださる患者さんの癒しのために、色々なグッズを置いていました。机の上のシンシングボールは、グループセラピーのマインドフルネスの瞑想のときに使っていました。アロマのディフューザーもあります。卓上噴水を置いていたときもありました。

今思えば懐かしい日々です。

 

人の評価より自分の喜び

世の中、うまくできたからといって褒められるとは限らず、正しいことを言ったりしたりしたからといって、理解されたり、受け入れられるとは限りません。

優秀な業績も、相手に見る目がなかったり、そもそも自分が妬み深くて人を褒める気がなかったり、そのとき自分がいっぱいいっぱいで人の業績なんてちゃんと見るゆとりがなかったり興味なかったりすると、正当に評価されることはないでしょう。正しいことをしても、相手がゆがんだ考えの持ち主だったり、その行為の正しさを理解するだけの器がなかったりすれば、認められたり、理解されたりすることはありません。つまり、誰かに褒められたり、認められたり、理解されたりしなくても、だからといって、自分がダメだとは限らないので、自動的にがっかりすることはないということ。

逆にいえば、おべっかを使って取り入る人々は、相手に権力があれば、相手の作り出したものがへたくそであっても褒めるでしょうし、よくない行為にも理解を示し、受け入れるでしょう。それは褒める側が自分の利益だけを考えた、口先だけの賛辞や偽りの理解なので、本当は喜びに値しないものです。

かくして、人の評価や理解、承認は、とかくあてにならないものであり、そんなものに期待して自分の幸福をゆだねると、心は非常に不安定になります。人に認められたら舞い上がるけど、認められなかったり、けなされたりしたら、どん底になる、そんな上がり下がりの激しい人生になってしまいます。

それなので、誰かに評価されたり、承認されたりすることを期待するのはやめたほうがいいと思います。代わりに、その行為をして心地いいかどうか、うれしいかどうか、幸せだと思うかどうかを基準にすればいい。自分をよりどころにするということです。そうすると、心はゆるぎなくなり、安定します。そして、人に頼ることなく、幸福を自家発電で創造できるようになると、求めなくても人を引き付け、勝手に人の評価や承認が得られるようになります。(ただし、本人はそれがあってもなくても気にしない境地にいるので、あまり気に留めないので、これはおまけのご褒美です。)

 

 

 

 

 

 

 

 

摂食障害について

摂食障害に悩む人は多いと思います。

摂食障害は、完治するのに比較的長くかかる精神疾患で、通常のカウンセリングではなかなか回復しにくいのではないかと思います。摂食障害の専門家の治療を受けるのが望ましいでしょうが、なかなかそういう専門家は日本では見つけにくいと思います。アメリカでは、摂食障害の人専門の入院施設があって、食べるところから指導して治療していました。

私は摂食障害の専門家ではないのですが、摂食障害で悩んでいる方が時々いらっしゃるので、何かの役に立つかと思い、アメリカのオンラインセミナーを先日受けてみました。このセミナーは、摂食障害の中でも、特に、過食症にフォーカスしたものでしたが、いい内容だったので、参考までに、少しシェアしたいと思います。

まず、過食症になりやすい人。気質的に、完ぺき主義、衝動的、白黒思考が強い人(こうあるべき、いい・悪い、正しい・間違っているの判断が強い人)、離人症的(ぼーっとしていて、意識が飛びやすい人)がなりやすい。その他、不安や鬱、ダイエットや食事制限、外見や体重のことでいじめを受けたり、恥の気持ちが強い人がなりやすいです。

過食症の人は、食べた後吐いたり、下剤を使ったり、絶食したりして、無理なダイエットをしがちですが、これは全くの逆効果です。ダイエットという行為自体が、過食を引き起す原因になってしまうからです。過食をやめるためにダイエットすると、脳や体が食べることを渇望するようになり、感情はイライラして乱れるということが、自然の摂理として起こってきます。過食をやめたければ、体重を減らすことを目標にするのではなく、健康やボディイメージに対する概念をよりよいものにすること、よりよいセルフケアを目指すことが必要不可欠です。

過食症を直すためには、調和的な食べ方(attuned eating)をする必要があります。ダイエット=厳格、過食=混沌、調和的な食べ方=統合。つまり、欲求を極度に制限するのではなく、かといって、欲望のままに無秩序な食べ方をするわけでもない。その二極を統合するということ。要するに、自分の心と体の声を聴いて、それと調和した食べ方をするということが大切というわけです。

調和的な食べ方をするために、知っておくべきことは、

「いつ」「何を」「どのくらい」の3つです。

◎あなたはいつ自分がおなかがすいているか、知っていますか。

◎たくさんの種類の食べ物のなかから、自分がいま、何を食べたいか、知っていますか。

◎おなかがいっぱいになって満足したとき、食べるのをやめますか。

この3つの質問がカギになります。

「いつ」に関しては、

1.飢えている

2.とてもおなかが空いている

3.おなかが空いている

4.ちょっとおなかが空いている

5.おなかが空いているわけでも、満腹なわけでもない

6.ちょっとおなかがいっぱい

7.おなかがいっぱい

8.すごくおなかがいっぱい

9.満腹で苦しい

の中から、その都度選びます。

「何を」に関しては

暑い、冷たい、歯ごたえがいい、やわらかい、なめらかな、しょっぱい、辛い、甘い、味がたんぱくな、たんぱく質、炭水化物、脂っぽいもの、の中から選びます。

「どのくらい」に関しては、

◎調和(おなかがすいているかどうか、何を食べたいか、どのくらい食べる必要があるかを考え、それに適合した食べ方をする)

◎意図(食べ終わった後、どう感じたいか。上記の1~9のうち、体が心地いいと思うのはどれか、を意識する)

◎マインドフル(味、香り、見た目、触感に注意を向け、食べていることを意識しながら食べる、体がどう感じるかを意識しつつ食べ、体が満たされたらやめる)

の3つを心がけるといいでしょう。

例えば、ファストフードのハンバーガー=悪い、オーガニックのサラダ=いい、と頭で決めつけないことが大事です。白黒思考は、過食を引き起こしやすいメンタリティーでしたね。それよりも、体が何をどのくらい欲しているかに注意を向けます。ファストフードのハンバーガーを体が欲しているなら、それを、体が必要な分だけ食べるほうが、満足を覚えて、過食しにくくなる場合もあるというわけです。

過食してしまうとき、感情をコントロールするために食べてしまうことがあります。気持ちを「なだめる」「気をそらす」「心地よくせる」「麻痺させる」「落ち着かせる」ために、食べ物を使うのです。そういうときには、感情的になって過食してしまった自分に腹を立てるのではなく、「おなかがすいていないのに、食べ物に手を伸ばしてしまったな。何かで気持ちが乱れているんだね。」自分に対して優しい慈悲の気持ちを向けることが大切です。そして、自分が本当は何に満たされないのか、どんな感情があって、どうしたらそれが満たされるのかに、ちゃんと気づいて、ケアしてあげること。

もし、自分の見た目を恥じてダイエットと過食を繰り返している人がいたら、自分のボディイメージを改善するために、こんな方法を試してみてください。

1.最後に言ってしまった(考えてしまった)自分の身体に関する悪口を、パソコンやスマホに打つ。

2.消去する

3.自分の身体をいつくしむ言葉を打ち直す

あるいは、体重計に、「この目盛りは、自分の価値がどのくらいか、家族や友達がどのくらい好きになってくれるかとは無関係だ。私は今のままでも価値があり、自分次第で、今、この瞬間、幸せでいることができる。」と書くなどしてもいいでしょう。

基本的に必要なのは、気持ちを落ち着かせて、心に静けさを持ち、自分自身とつながる時間を持つこと。それを練習すること。そうすれば、心身の声を聴くことが上手になってくるので、体が喜ぶものを、必要なだけ食べられるようになってくるでしょうし、心が幸せでない理由もわかって、それを自分で修正することもできるようになってくるでしょう。

(参考資料:Matz, J. (2018) Emotional Eating, Chronic Dieting, Bingeing and Body Image: What Every Clinician Needs to Know. Pesi Degital Seminar.)

 

 

 

 

 

等身大の自我でいる

自我って、本来の自分より大きすぎても小さすぎてもよくないんですよね。

虚勢を張って、自分を、強く、大きく見せようとするのも疲れてうまくいかないし、身を縮めて、もともとの背丈より小さくなって歩いていても、窮屈でもたないでしょう。

例えば、誰かに力で支配された過去があり、それが嫌でしかたないから、虚勢をはって身を守ろうとしたり、逆に、いじめられないように、従順ないい人を演じて身を守ろうとしたりする人があります。それはそれで、支配されている間は、生き延びるために身を助けてくれる、有効な手段になります。でも、もう誰も攻撃してこないのに、虚勢をはったり縮こまったりするのは、疲れるだけで、かつ、人間関係にも支障をきたす、機能不全な在り方になってしまいます。

一番疲れないのが、背伸びするでもなく、背を縮こませて歩くでもない、等身大の自分でいること。

自分を無理強いせず自由にさせてあげると、楽だし、不思議と人間関係もそのほうが好転するんですよね。

無理をしている人って、接するほうでも居心地が悪いものなんですが、自由でのびのびしている人は、心地いいオーラを放つので、無意識に人が魅かれるものです。

無理しているのに気づいたら、等身大の自分であるよう、ちょっと力を抜いてみたらいいかもしれません。

 

 

 

龍の出現

たまには息抜きを兼ねて、違う話題を。

アメリカで働いていたころ、家の真上に出てきてた、龍の形の雲です。

顔が笑っています(*^-^*)。

(アメリカにも龍がいるという証拠写真ですね。(^_-)-☆)

 

 

自分も人も同じ

自分を蔑むときも、人を蔑むときも、同じエネルギーを自分の中に作り出し、周囲に放ちます。

誰かに蔑まれ、口汚くけなされたとしたら、とても不快な気分になりますよね。腹が立ち、蔑む相手を憎んだり、攻撃したりしたくなるかもしれません。でなければ、そういう人とは関わりたくないので、逃げたり避けたりしたくなるでしょう。

自分を嫌って蔑んでいる人に対しても、相手は同様のことをしたくなります。蔑みの持つ不快な波長を受け取って反応するからだと思います。

だから、自分を見下している人は、人に攻撃されたり、いじめられたりしやすいのです。相手がそこまで攻撃的ではなく、比較的穏やかな人だったとしたら、距離を置かれるだけかもしれません。いずれにしても、人に肯定的な関わりをされにくくなります。

自分も他人も、集合意識ではつながっており、一つなので、本当は区別はないんですよね。なので、自分に対する行為も、人に対する行為も、ある意味同じなのです。自分を傷つけることは、人を傷つけることであり、人を傷つけることは、自分を傷つけること。自分を本当の意味で愛し、大切に扱っていると、その心地よい波動は、人にも心地よさを放ち、恩恵を与えます。そういう人が、人にも尊ばれ、大切に扱われるのは、想像に難くないですよね。

レニー・クラビッツのbelieveという歌の歌詞に、I am you and you are me, why’s that  such a mistery (私はあなたで、あなたは私。それがなぜこんなにも神秘なのか)という フレーズが出てきますが、まさにこれが宇宙的な真実だと思います。

 

 

 

ゲームに没頭するとき起こること

テレビで、ゲーム中毒の子供の姿が映像で流れていました。

食べることもトイレも忘れて、ひたすらコンピューターの画面を見つめている子供。

その異常な姿を見て、ああ、この状態は脳や精神にすごい有害だなあ、と思いました。

脳が絶え間なく動いて情報処理している状態がまずよくない。

このゆとりのない、ものすごいスピードと量の思考の状態は、不安衝動に翻弄され、衝動的に突き進み、心に平穏が入り込むすきのない、多くの現代人の状態を、究極の形で表しているように思います。

この脳の状態には想像力が働く余地がない。

子供時代、ごっこ遊びやお話を聞いたり創ったり、絵をかいたりすることで養われる想像力の訓練は、成長してからも、自他とも人をサポートしてくれる貴重な機会になります。想像力があるから、ほかの人の気持ちがわかるし、原因からどういう結果が生まれるかがわかる。イメージ力があれば、今の否定的状態を変え、よりよい未来を創っていくこともできます。想像する力は創造する力の源だからです。

寸分のすき間もなく、すごい勢いで与えられ続ける、受け身の情報を処理する脳に、内側からの自発的な想像力を生じさせ、はぐくむ余地は全くありません。意識を完全にコントロールされている状態。これでは、現実に自分に起こっていることも認識できず、自分にとって大切なことを感じ取ったり考えるたりすることは不可能でしょう。

もし、地球征服をもくろむ悪の組織があって、地球を破滅に向かわせたかったら、子供にゲームを与えて虜にする方法もあるな、などと思いました。

身体的にも、ゲームに夢中になっている子供の体は緊張し、呼吸は浅くなり、非常に負担がかかっている状態。否定的な感情を感じてストレスがかかっているときと同じ状態です。寝食を忘れて、休息なしで、この状態を心身に与え続けると、心身はやがて崩壊するでしょう。

私自身は、ゲームは全くやりません。数分やっているだけで、脳とか心身のエネルギーの状態がおかしくなるのがわかるので、不快になるからやめてしまいます。

同じゲームをするのでも、サイコロを振ってやるボードゲームなんかは、まだ想像力のはいりこむ余地があり、人と人との直接的な交流も起きるから、いいんじゃないかなと思います。

子供が、ギラギラ目を光らすのではなく、キラキラ目を光らせるようなゲームが、世の中にもっと溢れたらいいなと思います。

 

「どうしよう」をやめる

そういえば、近年、「どうしよう」と思い悩むことがなくなったなと思います。

クライアントさんにも必要に応じて伝えていることですが、問題は実際に起こって、目の前にあるときに対処する、まだ起きていない厄介ごとは、直前まで考えない、というのを、日ごろから自分でも実践しているからだろうと思います。

未来の厄介ごとで、まだなすすべのないことは、どうしようもないわけで、どうしようと思うだけ、無駄。もっと建設的なことに使えるはずのエネルギー消耗してしまい、役に立たないどころか、有害です。

実際に問題が目の前にあるとき、元気(自分の氣のエネルギー)が温存されていたほうが、消耗されて少なくなったエネルギーでことに当たるより、当然、よりよく対処できます。わかりやすいところでいうと、例えば、疲れて集中力や判断力が鈍っている状態で問題に対処するより、疲れていない頭で考えたほうがいいということ。

実際に問題が形をとって目の前に現れるまえに、つまり、実態がない状態で、頭を働かせてあれこれ考えても、その解決策は、問題にフィットしないことが多いものです。それが実際に目の前に具現化したとき、その場で感覚的、直観的に思いつく解決策のほうがずっとフィットするもので、それはその時にならないと湧いてこないものです。

その時になったら自分がうまく問題を対処できる力を持っているという自己信頼は、とても大切です。

こうなったらどうしよう、を手放すと、氣の無駄な流出を防ぐことができるので、元気を保ちやすくなり、何よりもとても楽になりますよ。