盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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メンタルヘルス

劣等感と羞恥心、罪悪感について

アドラー心理学を生み出したオーストリアの精神科医、アルフレッド・アドラーによると、劣等感というのは、幼年期の体験に根差しているのだそうです。子供というのは、本来、弱く、無力で、大人に依存しなければ生きていけないものであり、それゆえに、自然に劣等感を覚えるようになる、というのです。

この劣等感は、大人に批判的な言葉を投げかけられたり、兄弟姉妹と比較されたり、友達から拒絶されたり、といった体験があると、さらに強化されてしまいます。

劣等感から抜け出すにあたって障害になるものとしては、

  • 精神的、身体的、性的を含めた、あらゆる種類の虐待
  • 帰属意識の欠如(自分はまわりとは違うという感覚)
  • 喪失や損傷の体験(自分は不十分であるという感覚)
  • 自分は理解されないという思い
  • ありのままの自分を受け入れてもらえないこと

などが、あげられます。

劣等感は、羞恥心をもたらします。

では、羞恥心とはなんでしょうか。それを理解するにあたって、罪悪感と比較してみましょう。

罪悪感とは、自分の価値観に照らし合わせて、「過ちを犯してしまった」という意識。自分のなした行為に起因します。

羞恥心とは、「自分は過ちである」という意識。自分の存在自体を後悔しているというニュアンスが、そこには含まれています。

罪悪感は、自分の行いを自身の持つ道徳観や価値観に沿うよう正し、方向性を修正するように促してくれる、有益な感覚でもあります。ただし、いつまでも抱き続ける罪悪感は心の毒にしかならないので、罪悪感が役に立つのは、許し(=自分を許すこと)とペアになっている場合に限られます。

これに対して、自分を恥じるという気持ちである羞恥心が、私たちをいい方向に向かわせてくれることは、決してありません。

なので、自己への羞恥は取り除く必要があるのですが、そのためにはまず、自分を許して、罪悪感を消し去る必要があります。

「自分を許す」という恩赦に必要な前提条件としては、①その過ちが現在進行形ではなく、過去のものであること。②その過ちを繰り返さないという、強い覚悟があること。

この2つがクリアできているのなら、いつまでも自分を責め続けることは誰のためにもならないということを理解し、自分を許してあげましょう。

罪悪感の解毒剤が「許し」ならば、羞恥心の解毒剤は、「自己受容」です。いいとか、悪いとか、判断するのをやめて、ありのままの自分を受け入れること。

そもそも、自分の存在がいいとか悪いとか、正しいとか間違っているなどと自分を裁くことは、それ自体、無意味なのです。その判断は絶対的なものではなく、相対的なものに過ぎない。主観的で、偏見に満ち、かつ、その時によって異なる、不安定であてにならないものなのです。 

同じ理由で、自分と人と比べるのも、まったくの時間と労力の無駄です。そんなものは比べようがなく、比べたところで、それは根拠のない思い込みであり、いわば幻想に過ぎないのですから。

なので、誰かと自分を比べて劣等感を持つということ自体、本当は無意味なことだと思います。

自分は自分、ただそれだけ。それ以上でも以下でもない。良くも悪くもない。人の存在価値は、いいとか悪いとか、そういう二元的な判断を超えたところにあると思います。自分の長所だと思うところも短所だと思うところもすべてひっくるめて、どうぞまるごと受け入れてあげてください。

あなたがこの世に生きているということ自体、生かされているということ。生きることを許されていて、すでにこの世界に受け入れられているからこそ、この世に存在している、ということなのですから。

 

(参考資料:Worden, T. (2014).  The Neuroscience of Self & Self-Acceptance: Brain-Based Strategies for Adressing Entrenched Guilt & Shame, PESI Webcast Seminar)

 

 

 

                                                     (Chika)

 

 

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認知行動療法について

「ネガティブな思考は、意識の奥深くに潜んでいる、機能不全の信念(思い込み)や前提からくる。これらの信念が、人生の様々な状況やできごとに触発されると、うつが発症する。この機能不全の思考を変える努力をすれば、多くの心理的な症状から解放される。」

これは、認知行動療法の発案者の一人、アーロン・ベックの唱えた説です。


認知行動療法は、いちばんよく研究され、効果が実証されている心理療法です。

人は、何かできごとを体験すると、思考、感情、行動、この3つにおいて、反応します。

例えば、「先生に怒られた」というできごとを体験した場合。人や状況によって異なりますが、

思考においては、「自分はダメな人間だ。」

感情においては、恥、落ち込み、悲しみ。

行動においては、無口になり、引きこもりがちになる、等が起こると考えられます。

思考、感情、行動の3つは、お互いに影響しあっています。なので、この3つのうちの1つを変えると、他の2つも必然的に影響を受けて変わります。

3つのうち、直接変えることが一番難しいのは、感情です。

思考と行動は、自分の意志で変えることが、可能であり、思考か行動を変えると、感情もおのずと変化します。

ごく簡単に言うと、「思考(認知)を変えることによって、感情を変える」のが認知療法、「行動を変えることによって、感情を変える」のが行動療法、「思考と行動を変えることによって、感情を変える」のが、認知行動療法です。

例えば、「自分はダメな人間だ」という思考を、「先生は今日は機嫌が悪かっただけだ」「怒られたのは自分だけではない」「先生は、自分のとった行動の一部を否定しただけで、人格が全否定されたわけではない」等に変えてあげると、恥や落ち込み、悲しみといった感情が和らいだりします。

また、無口になって引きこもりがちになる、という行動を、あえて、信頼する友達に打ち明ける、外に遊びにいって気分転換する、というふうに変えてあげると、やっぱり、感情の部分に変化が起こるはずです。

認知行動療法は、うつや不安の症状によく使われる、一般的な療法です。

利点としては、比較的単純明快であり、自分で実践することができること、短期間の間に効果が得られる可能性があるということ。

弱点としては、抽象的な理念や、論理的思考が苦手な人には使いづらいこと、また、深い感情的なトラウマには効果が薄いということがあげられると思います。

アメリカでは、やたらと、認知行動療法を使え、と奨励する風潮があります。

アメリカでは心理療法にも保険が適用されるのですが、保険会社によってはその期間が限られていることがよくあって、短期間で行える療法が使い勝手がいいため、という事情が、この風潮の裏にあります。また、論理思考、左脳的思考が好きな欧米人に向いているから、というのもいえると思います。

私の考えでは、認知行動療法は、確かに、比較的浅い、日常的な悩みには、効果的で便利な方法だと思います。
また、「視点(ものごとをどう捉えるか)が、その人の生きる世界を作っている」という認知行動療法の前提となる考え方は、まぎれもない真実であり、そこに気づくことは、幸せな人生を築くにために、とても有用だと思います。

ただ、心理療法としては、限界があり、特に根が深いトラウマや、長期的に抑圧された感情が元になっている症状の場合、認知行動療法では役不足だと感じることが多いです。なぜなら、思考が司る範囲は、顕在意識で認知された部分であり、実際、心の問題というのは、思考よりももっとずっと奥深いところに根差していることが多いからです。

例えば、家もお金もすべてを失って、

「 ポジティブシンキングでいこう。物がすべてではない。やり直しはいくらでもできる。」

と、自分にいいきかせて、頭(思考)を切り替えて、新しいスタートを切ろうとしても、心が納得しないので、気持ちがついていかないでしょう。

この場合、心に自然に湧き起こってくる喪失感、虚しさ、悲しさ、怒りなどの気持ちを認め、ちゃんと悲嘆してからでないと、再出発することはできないだろうし、無理に切り替えようとすると、おそらく後で心にもっと負担を抱えることになります。

つまるところ、心という実体のないものを治療するにあたり、万能の療法というのはありません。人によっても合う方法、合わない方法があるし、同じ人でも、プロセスによって異なる方法が必要になる場合はあると思います。

私個人としては、複数の療法を、その人の性質や状況によって、使い分けるのが、効果的な心の治療を施すにあたり、必要だと思っています。
                                              (Chika)
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人工的に悩みを取り除くということ

戦後、ロイコトミー(頭前野白質切断術)という手術が一時的に流行ったことがありました。

これは、外科手術で脳の一部に傷をつけることにより、不安や落ち込みを覚えなくさせるという、当時は画期的な方法で、不安や抑うつが強い患者に用いられたようです。

しかしながら、この手術には、不安や落ち込みをなくすという効果と引き換えに、別の大きな問題を生じさせるということが、実際に手術を重ねるうちにわかってきました。

この手術を受けた患者は、社会的に機能できなくなるほど、人格が変わってしまうのです。

所構わず失禁し、ヘラヘラ笑っている。失業して、経済的に困窮しても気にせず、奥さんと小さい子供が路頭に迷っても意に介さない。

結局、悩む能力を奪うということは、人としての尊厳を奪い、人格を破壊するということに他ならないのでしょう。

これは、とりもなおさず、悩む力は、人間に自然に備わったものであり、社会的に機能していくため、ひいては問題に直面してそれを解決し、自分を向上させていくためにも、必要なものであるということを物語っています。

ロイコトミーは、その効能の疑問点と副作用のために、行われなくなりました。おそらくその後、向精神薬の開発が進み、脳手術で治療しなくても、不安や抑うつには薬で対処できるようになったということもあると思います。

概して向精神薬には、神経伝達物質の分泌を操作して、感情シグナルを人工的にコントロールするという作用があります。

それを考えると、向精神薬を使いすぎることは、やはり、人の精神を益するよりは害を及ぼす結果にならないかと、個人的には危惧をしてしまいます。

私は精神科医ではなく、薬は処方しないので、向精神薬については専門外ですが、アメリカの大学院のカウンセリング教育課程では、大まかな薬についての知識を学ぶ機会はあるし、実践的にも、薬物治療を受けているクライアントさんを大勢診てきたので、一般の人よりは、その作用に触れる機会があったかと思います。

例えば、現在、鬱や不安症状緩和のために、一般的に使われているSSRI(Selective serotonin reuptake inhibitors=選択的セロトニン再取り込み阻害薬)という薬は、セロトニンが伝達する経路を邪魔して、再吸収されないようにすることで、セロトニンの活動を活性化する作用があります。セロトニンを司る神経物質は、脳内に広く分布して、情報を伝えます。例えば、俗に快楽物質といわれるドーパミンや、興奮作用のあるノルアドレナリンなどの感情的な情報を操作し、精神を安定させる作用があります。

SSRIは、10年ほど前には、副作用のない画期的な抗鬱剤で、依存性も少なく安全であると言われていましたが、使用が広まるにつれ、場合によっては深刻な副作用を及ぼしうることがわかってきました。具体的には、SSRIを使うことにより、恐怖感がなくなり、攻撃性や衝動性が高まる可能性があるといわれています。実際に、SSRIを使用したことで、自殺願望が高まり、実行するに至ったケースがあり、アメリカでは裁判沙汰になりました。

専門家ではない私が、素人目で思うのは、薬を使って、特定の神経物質を、長期にわたって無理に増やし続けたら、脳や神経、ホルモンを含め、肉体に多大な負担がかかるのではないか、ということです。また、自然にドーパミンやノルアドレナリンなどの物質を作り出す力が奪われてしまい、薬なしでは正常に精神を機能させることができなくなってしまうのも、怖いことだと思います。一時的には気分が改善されるかもしれませんが、薬で感情をコントロールすると、代償が大きいのではないかと思います。

以前、アメリカで私のクライアントさんだった方は、家族が何人も自死しておられ、特に弟さんが自死する前、かけてきた電話にちゃんと応対しなかったことで、大きなトラウマを抱えておられました。彼女は、長年にわたって、麻薬を常用して、押しつぶされそうな罪悪感から気を紛らわせ、麻薬をやめてからは、痛み止めや向精神薬を多量に常用していました。初めて会ったとき、彼女の表情は固まってしまったように無表情で、声に抑揚もなく、薬によって長年、自然な感情を麻痺してきた人特有の様相を呈していました。

その後、カウンセリングで少しずつ話をするにつれ、彼女の表情は活気を取り戻し、今まで触れることさえできなかった、弟さんの自死についても、ほんの少しなら話ができるようになりました。とても楽になった、ありがとう、とその時は感謝してくれた彼女でしたが、やはり、心の傷の深いところを見ることを、とても怖がっており、それ以上のプロセスを進めることはあまりできませんでした。亡くなったほかの家族の方や、生い立ちに関しては、一切話をすることができず、少し何かあれば、異常におびえてパニックになってしまうのです。

彼女は、感情を長年抑圧してきた人によくあるように、体のあちこちに痛みがでており、一般の開業医から麻酔薬を処方してもらっていたのですが、ある時、処方量以上を摂取していることが医師にばれて、処方をストップされました。(アメリカでは向精神薬の依存が社会的な問題になっていて、患者に何かあった場合、医師の責任になるので、医師は近年、あまり依存性の高い処方したがらなくなっています。)明らかに彼女は、体の痛みだけではなく、心の痛みを麻痺させるために、薬を常用していたのです。それが切れると、正常に機能できなくなるため、半狂乱になって、私のオフィスにやってきました。

最後の方には、彼女は、薬がないとやっていけない、なんとか私からも医者を説得してくれないかと懇願するばかりで、セッションに来ても、カウンセリングどころではありませんでした。実際、彼女が処方薬を過剰摂取してしているのは明らかで、オフィスに来て、書面にサインしてもらおうとしても、ペンが持てない、署名も満足にできない、というありさまでした。彼女の状態を危惧した私は、守秘義務を破って、彼女の夫に電話し、彼女から目を離さないよう、伝えました。

その後しばらくして、彼女は、薬の過剰摂取により、亡くなりました。自死ではなく、ショック死だったようです。長年にわたる大量の薬が、彼女の体に耐えきれないほどの負担をかけていたのだと思います。

心の痛みは、薬で麻痺させることはできても、癒すことはできないと思います。

感情を感じることは、時には辛いものですが、必要だから起こっていることなのです。感情という情報のサインを遮断してしまうと、一時的に苦しみは減るように思われるかもしれませんが、結局、自分の人生を豊かにする術を失うことにもなるのだと思います。

悩んだり落ち込んだりするということは、自分の内面へ目を向けて、必要な癒しを与え、人間として成長し、人生にもっと大きな喜びをもたらすための機会にもなりうるということ。その機会を奪うということは、人間らしさを奪うということにもなりうるのだということ。

薬を飲まなければ、生きていけないほど辛いことも、人生には起こりうると思うし、向精神薬が絶対にダメだとは私は言えませんが、そのことは念頭に置いておいてほしいなと思います。

 

                                                 (Chika)

 

 

 

 

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機が熟せば浮上する

まだこの道に進むとは思ってもいなかった20代前半のころ、当時アメリカのアイダホ州に住んでいた私は、ある女性と知り合いになりました。

彼女は中国やネイティブアメリカンなどの他民族の血が混じったアメリカ人だったのですが、年齢不詳でした。話の端々からは恐らく40代くらいと推測されるのですが、とてもかわいらしくて若々しく、キラキラした魅力を放っている人でした。

前向きで明るく、いつも生き生きしていた彼女は、一見するとそんな風には全く見えないのですが、どうも話を聞くと、壮絶な過去を経てきた人のようでした。子供のころは山の中の掘っ立て小屋に住んでいて、とても貧しく、食べるものがないので、狩りをしてリスなんかを食べていた、などと、現代の先進国とは思えないエピソードを、ニコニコしながら屈託なく話すのです。

そんな彼女の話の中で、いまだによく覚えていることがあります。

その当時より遡ること数年前、台所で料理をしていたとき、彼女は包丁で指を切ってしまったのだそうです。「痛い!」と思って流れる血を見たとき、今まで忘れていた何十年も前の性的虐待の記憶が、まざまざとよみがえったといいます。それは、その瞬間まで、完全に記憶から抹消されていた出来事でした。

「不思議なことなのだれど、私が大人になって、自分で対処できるようになったから、抑圧されていた子供時代の記憶がよみがえったんだと思うわ。」

真顔でそう話したときの彼女の顔を、私は今でもよく覚えています。

今思えば、この人は、色々な意味で心のバランスが取れ、オープンなハートを持った人だったと思います。そしてそれは、おそらく最初からそうだったわけではなく、生まれつきの聡明さはあったものの、やはりいろいろな苦しみを1つ1つ乗り越えてクリアしていく過程で、彼女自身が獲得し、身に着けていったものだと思います。そういう人だけが放つことのできる、本物の、輝くような人としての魅力を、まだ若かった私でも感じることができましたから。

彼女が語ったことは、臨床の現場でもよく目にする、心のメカニズムの真実です。

私たちの潜在意識はとても賢明なので、心が耐えられないくらい深い傷を負った場合、一時的にその記憶を顕在意識から消して、生きる上で支障がないように配慮してくれることがあります。

ただし、潜在意識に抑圧された記憶は、一時的に目につかないよう隠されただけであって、完全に消滅したわけではありません。否定的な感情はいつかは表に出て解消されなければならず、あくまでも猶予期間を与えられただけです。

猶予期限が終わり、本人がその傷にちゃんと直面して対処できるくらい成長したら、潜在意識はそれを顕在化しようとします。機が熟したからこそ、浮上してきたというわけです。

もちろん、表出した痛みと向き合うことは、大人になったからといって、決して楽な作業ではなく、抑圧していた期間が長ければ長いほど、対処するのは難しくなります。けれども、あまり長い間、無理に抑圧しておくと、心や体を蝕み、病んでしまうことになるので、やっぱり向き合うしかないのです。

なぜずっと忘れていられないかというと、究極的には、その傷と意識的につながらなければ、解消することができないからです。

これは、必ずしも過去にあった辛い出来事の詳細をすべて思い出して追体験しなければならないというわけではなく、むしろ、過去の体験から感じたこととか、それが受けた心の影響、その出来事が自分に与えた感情的なインパクトの方をちゃんと認識するということだと、私は考えています。

それによって初めて、心の傷は癒やされ、その出来事が現在に及ぼす影響が消滅し、過去が過去になります。そしてその過程で、その人の精神レベルが強化され、心はより一層、輝きを放つのだと思います。

                                                                                                                                     (Chika)

 

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恐怖を克服する方法

恐怖症や、PTSD、強迫観念症などの、不安障害の症状を克服する方法の1つとして、露出療法(exposure therapy)があります。

これは、簡単にいうと、恐れを抱いている対象に、少しずつ接することで、慣れていくというものです。

イメージの中で接する場合もあれば、実際にそのものを見たり、その場所に行ったりするやり方もあります。その際、怖いものにただ接するだけではなく、恐怖心を和らげ、心を強くするようなスキルを学んで用いながら行うほうが、効果が高まります。

暴露療法の詳細は専門的な話になるのでこれ以上はここでは書きませんが、この療法の論理の要になっているのは、要するに、「慣れれば、怖くなくなる。」ということ。裏を返せば、これは、怖いものは、逃げたり避けたりすれば、ますます怖くなる、という人の心理があります。

例えば、もしあなたが、クモが嫌いだとします。そして、部屋の中にいる1匹のクモと、いやでも同居しなければならないとします。

もしクモを怖がって、何があってもみないようにして、避けて暮らしたとすると、あなたはそのために常にびくびくして、膨大な精神エネルギーを使い、大変なストレスにさらされることになります。

さらに、見ないようにすればするほど、避ければ避けるほど、あなたの心の中で、クモは実物以上に大きくなり、強大な恐ろしい化け物と化すでしょう。

避ければ、恐怖は自分の中で増大する。言い方を変えれば、逃げることにより、恐怖の対象に、自分を力を与え、より強力にしてしまうということです。これは、PTSDの症状に苦しむ人によく見られることです。

反対に、あなたが逃げることをやめて腹をくくり、毎日少しずつ、クモを眺める訓練をするとしましょう。

最初は怖くて仕方なかったクモでも、毎日30秒ずつ見るようにすれば、おそらく一週間もすれば、耐えがたかった30秒が少し忍びやすくなるでしょう。次の一週間は、毎日、1分ずつ。こうやって、少しずつ時間を延ばしていけば、恐怖は少しずつ和らぎ、だんだん平気になっていく。

少なくとも、避けないで直視することによって、クモは実物大のままであり、頭の中で膨れ上がって化け物になることはないでしょう。

以前、私がアメリカで担当していたクライアントさんに、大変過酷な少女時代を送った人がいました。

彼女は当時50代でしたが、子供のころ、叔母夫婦のもとに里親に出され、そこで数年間にわたり、精神的・性的・身体的虐待を受けて育ちました。毎日、メイド代わりにこき使われ、叔父には日常的にレイプされ、言うことを聞かなければ激しい暴力を受ける、という救いのない日々を送りました。彼女の額には、今でも、テーブルに頭を叩きつけられたときの傷が残っています。

そのうちに叔父が亡くなり、彼女はその家を出て、まだ10代半ばにならないうちに、一人で生活するようになりました。

その後しばらくして未婚の母となり、何人かの子供をもうけた彼女は、PTSDと重度の鬱に苦しむようになり、アルコールに溺れるようになりました。長年、薬物療法と心理療法の治療を受け続けましたがよくならず、私が会ったときは5回目の自殺未遂の直後でした。

彼女は、毎日のように性的虐待を加えた叔父を、いまだに憎み、もうとっくに亡くなっているのにも関わらず、今なお彼を恐れていました。

彼女はその時、フラッシュバックや悪夢というPTSD特有の症状に悩まされていたので、私はPTSDが起こる原因を説明して、加害者の男から逃げるのをやめるように言いました。彼はもうこの世にはおらず、何の危害も及ぼすことはできないのだから、怖がる必要はないいことを伝え、彼のイメージが頭に浮かんだら、今まで言えなかった言いたいことをなんでも、思い切って、面と向かって言ってやるよう、提案してみました。

そうして数回のセッションを重ねた後、彼女は夢を見ました。

夢の中で、彼女は加害者の叔父に追いかけられ、必死で逃げていました。叔父が追いついて、足をつかもうとしたその時、彼女は夢の中で、ピストルを手にして、彼を撃ち殺したのだそうです。

「あいつをこの手でやっつけた!」

と私に報告する彼女の顔は、自信にあふれて輝いていました。

以来、不思議なことに、彼女はフラッシュバックにも悪夢にも悩まされなくなり、PTSDの症状はぱったりと消えてなくなりました。うつもすっかり回復して、自殺願望は全くなくなり、子供たちを守り育てる、とても強い女性になりました。

もちろん、ケース・バイ・ケースで、すべてのケースがこのように劇的に変化するとは限りません。

それでも、彼女の例は、逃げるのをやめて対峙すれば、恐怖を克服することが可能であるということ、そして、どんなに壮絶な過去を経験したとしても、それを乗り越える強さを人は持っているということ、この2つを、私たちに確かに教えてくれていると思います。

 

 

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祈りと心配の源泉

アメリカにいたころのあるクライアントさんの話です。

彼女はまだ20歳そこそこでしたが、お母さんのことをひどく心配して、不安にさいなまれていました。

心配になるのも無理はなく、彼女のお母さんは、重度の麻薬依存症で、もう心身ともにボロボロ、最後に見かけたときには、見る影もなくやつれ果てていたのだそうです。

最後に見かけたとき、と書いたのは、彼女はお母さんにもう何年も会っていなかったからです。虐待とネグレクトを繰り返した母親から引き離され、里親に出されたこのクライアントさんは、その後の母親の消息すら知りませんでした。

彼女は、自分を辛い目に合わせた母親に対して、複雑な感情を抱いてはいましたが、恨んではおらず、やはり心の奥では愛しており、とても心配していました。

彼女の心配は、心に重くのしかかり、彼女の鬱の症状を悪化させていたので、なんとかする必要がありました。なんとかするといっても、実際、不安を取り除くために、今、どこにいるかもわからない母親に対して、彼女が直接できることは何もありません。

なので私は、不安という負の感情エネルギーを、祈りというポジティブなエネルギーに変えてみたらどうか、と彼女に提案しました。

不安というのは、「こうなったらどうしよう」という想念。「お母さんが麻薬で身を滅ぼしていたらどうしよう」という思いは、気持ちをかき乱して重くするだけで、建設的な働きはしません。でも、彼女の不安な思いは、もとはといえば母親への愛情から発生しているものなので、前向きなエネルギーに転換することが可能なのです。そのためには、これをこうなってほしいという願い・祈り・アファメーションの形に変えてあげること。

「お母さんが大変なことになっていたらどうしよう」と思うより、「お母さんが大丈夫でありますように」「お母さんが麻薬依存を乗り越えて、強く生きられますように」と思ったほうがずっと建設的です。そうすることにおり、心を蝕んで侵食するような想念が、希望とか守護の想念に、質が変わるので。

実際、彼女はこの提案をすぐに受け入れ、さっそく数分間、どこにいるかもわからない母親のために、集中して祈りました。目を開けたとき、彼女の顔は数分前よりずっと明るくなっていました。

「今の、お母さんに伝わったと思う。」

という彼女の表情から、不安の影はもう消えていました。

私自身は、何の宗教にも属していませんが、自分のため、誰かのために、強く願ったり祈ったことは、見えないレベルでそれなりの影響を及ぼすと考えています。

でも、それが実際そうかどうかは置いておいて、心理的にみても、同じ愛情という源泉から出たものであるなら、心配よりは祈りの形にして表現したほうが、心にとっていいということは、確かだと思います。

 

 

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パーソナリティ障害(人格障害)の治療について

パーソナリティ障害(人格障害)は10種類ほどあり、精神疾患の中では治療が難しいとされています。

その大きな理由としては、本人に自覚がない、もしくは治したいという動機に乏しいということがあげられます。

パーソナリティ障害は、どちらかというと、本人よりも周りの人が違和感を感じて、なんとかしてほしいと思うケースの方が多いです。

人は自分が変わりたいと思わない限り変われないものなので、基本的に心理療法は、クライアント本人が治したい、変えたいと思わない限り、適用が難しいものです。加えて、周りの人がこうしてほしいと思う症状を、心理療法を使って本人の了承なく無理に変えさせようとするのは、人を操作することになり、倫理に反する場合もあります。

治療が難しいケースのわかりやすい例が、犯罪者に多い、反社会性パーソナリティ障害です。平気で法律を破ったり人をだましたりする、衝動的で攻撃的である、などの行動的な特徴が診断基準にあげられますが、本人は罪の意識に乏しいので、自分から心理療法を受けて治療したいということは、まずありません。なので、反社会性パーソナリティの人がサイコセラピーを受ける場合は、たいてい、何かやって捕まってから、弁護士とか保護観察官、裁判官の命令で連れてこられることになります。

けれども、刑を免れるためという便宜上の理由で、表面的におとなしくセラピーを受けて、改心したふりをしても、心の底から本人が変わりたいと思わないのであれば、本質的には何も変わらず、症状はそのままでしょう。

例外なのは、境界線パーソナリティ障害で、この精神疾患の症状は本人がとても苦しいので、自発的に心理療法の治療に来られる方は多いです。そして、自殺未遂や自傷行為を繰り返し、命の危険に及ぶ場合もあるので、心理療法による治療研究もよくされています。

実際、境界線パーソナリティ障害の治療法としては、DBT(Dialectical Behavioral Thearpy=弁証法的行動療法)という、効果的な療法が開発されており、私も主にグループセラピーで使っていましたが、時間と労力を惜しまなければ、境界線パーソナリティだけではなく、双極性障害やPTSDにも効果が期待できる、優れた療法だと実感しました。

それでは、境界線以外のパーソナリティ障害の人は、セラピーの施しようがないのかというと、そんなことはありません。

私がいたアメリカの職場は、基本的にどんな症状の人であっても絶対に必ず断らず受け入れる入れる、というスタンスで、かつ、アメリカは重症の精神疾患の患者でも、精神病院ではなく、コミュニティのメンタルヘルスで治療するシステムになっていたので、色々なパーソナリティ障害の人がたくさんいました。

パーソナリティ障害と診断されるクライアントさんは、ほとんどの場合、それだけではなくて、うつ、PTSD、双極性障害の、感情障害や不安障害等、複数の診断名を同時に持っています。なので、辛いとか、困っているという本人の自覚症状のある疾患をターゲットにして、セラピーを行うわけです。

これは個人的な意見ですが、パーソナリティ障害と、並行して発症している他の精神疾患とでは、おおもとになっている原因が同じ場合が少なくなく、他の精神疾患が深いところからよくなれば、パーソナリティ障害の症状も緩和することがあるように思います。

例えば、境界線パーソナリティは「認めてもらえなかった」という幼少時の不承認の体験が根底にある場合が多いといわれています。そのトラウマを癒やしていくにつれ、不安やうつの症状とともに、パーソナリティ障害の症状も収まっていくことは実際あると思います。

自己愛性パーソナリティ障害の人で、並行してうつやPTSD、双極性障害と診断されている人は珍しくなく、この疾患の特徴である膨張したエゴの裏には、自尊心の低さが隠れていると言われることがあります。その場合、虚勢を張って過剰に防衛的にならなければならないほど自尊心が傷ついた体験があるなら、それを探り当てて癒やしていくことにより、併発している鬱や不安が回復するといういこともありえます。

いずれにしても、パーソナリティ障害単独の治療は、境界線以外はまだ難しくて発展途上であることは確かでしょう。また、パーソナリティ障害の診断は、診断する側の主観に左右されることが多く、信頼性の点で議論の余地があるということも、ここに付け加えておきます。

 

 

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共依存の依存パターン(3)

以前に書いた共依存のしくみ(4)(http://therapyroom-hummingbird.com/?p=906参照)でも少し触れたのですが、最後に、共依存になりやすい人の特徴をもう一度、詳しく見てみましょう。

  • 自尊心が低い
  • 自分が必要とされることや、自分の欲求が少ないことによって、自己価値や自尊心が支えられている。
  • 提案や要求、不適当な命令に、過剰に従う。
  • 他の人の問題や困難、必要に際しては一生懸命になる一方で、自分のそれは無視する。
  • あらゆる人のために、あらゆることをしようとして、自分のニーズがおろそかになる。
  • 人の問題を解決する術に長けているが、自分の問題を解決することができない、または解決しようという気になれない。
  • 常に人を喜ばせようとして、手助けする機会を待ち構えている。
  • 頼まれたら嫌といえない。
  • 頼まれごとを断る際、罪悪感を感じて困難を覚える。
  • 大切な人たちとの関係において、なんでも引き受けすぎることが多い。
  • 不可能な、または過剰なスケジュールを立ててしまう
  • 欲しいもの、必要なことを要求することができない。
  • 助けを求めることは、利己的で厚かましいことだと思う。
  • 自分の感情を突き止めて、感じることが難しい。
  • 非現実的、非合理的な期待に、すすんで応えようとする。
  • 意見の不一致や衝突を怖がったり、避けたりする。
  • 無力で、有害なものから自分の身を守ることができないと感じる。身勝手な人たちに、容易に操られたり、搾取されたりする。
  • 意地悪されたり、虐待されたりしたとき、しっかり境界線を張ることができない。
  • 自分を無視する人たちを、操作したりコントロールしたりしようとする。
  • 助けになろうといて、人に親切を押し付ける。
  • 仕事上の付き合いと個人的な付き合いを混同する。

 

それでは、健全な関係性というのは、どういうものでしょうか。

Hazan とShaverは、健全な親子の関係は、健全な大人同士の恋愛関係と類似しているという仮説を唱えました(Hazan, C. & Shaver, P. (1987). Romantic love conceptualized as an attachment process.  Journal of Personality and Social Psychology, 52(3), 511-524)。彼らによると、深い感情的な絆で結ばれた親子には、下記のような特徴がみられるということです。

  • お互いに、相手がそばにいて反応を示してくれていると、安心する。
  • 親密な身体的接触を、お互いにしあう。
  • 相手が手に届かないところにいるとき、お互いに不安になる。
  • お互いに、発見を共有する。
  • お互いに、相手に魅かれ、関心を抱く。
  • お互いに、”赤ちゃん言葉”を発し合う。

(参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

 

共依存の人が、対人関係において、自分という存在が小さくなりすぎて、相互のバランスが崩れてしまっているのに比べて、健全で親密な関係は、お互いの愛情のバランスが取れていて調和している、というのが大きな違いだと思います。

確かアメリカの研究機関で行われた実験だったと記憶していますが、深く愛し合っている二人の男女を、向いあわせに立たせ、二人のオーラを測定すると、ハートチャクラ(心臓のあたりに位置する、主に精神的な愛のエネルギーを司るセンター)から、それぞれの周りに大きな円を描いているエネルギーが合わさって、ちょうどハート型に見えたのだそうです。

二人の互いに向けた愛のエネルギーのバランスが取れているからハート型になるのであって、どちらかが大きくすぎて、どちらかが小さすぎると、ちゃんとしたハートの形にはなりませんよね。

相手に対するリスペクトに欠けた、一方的な強い思いは、愛ではなく、執着です。

自分に対するリスペクトに欠けた、相手への強い思いも、やっぱり、本当の愛ではないと思います。それは、自己愛の欠乏を補って埋めるための、代替的な擬似愛に過ぎず、やっぱり、根底には執着があります。

大いなる宇宙から見たら、自分という存在も、相手も、同等に尊い存在です。両方とも、大切に扱われなければならないもの。両者のうち一方だけを、もう一方のために犠牲にして成り立つ関係というのは、この宇宙の理念に反しているので、長続きはしません。ひずみが生じて、長い間には耐えきれなくなり、必ずいつか、修正を余儀なくされるものです。

結局のところ、本物の愛に根差し、自己と他者の双方を尊重した、調和のとれた関係だけが、長くつづくようにできているのだと思います。

 

 

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共依存の依存パターン(2)

Co-Dependence Anonymous(無名の共依存者たち)という自助グループが分類した、5種類の共依存パターンを、次にご紹介します。

 

否認パターン

  • 私は、本当の気持ちを控えめに表現したり、変えたり、否定したりします。
  • 私は、自分のことを、完全に利己心のない、他人のために尽くす人間だと思っています。

自尊心欠如パターン

  • 私は、決断が苦手です。
  • 私は、あらゆるものを裁き、態度や言葉も厳しく、ものごとが決して十分ではないと考えます。
  • 私は、承認や賞賛や贈り物を受け取ることを、恥ずかしいと感じます。
  • 私は、他の人に自分の欲求や願望を満たしてもらうよう、頼むことがありません。
  • 私は、他の人が自分の考えや気持ちや行動を認めてくれることに、価値を置いています。
  • 私は、自分が愛すべき人間、または価値ある人間だとは思いません。

従順パターン

  • 私は、他の人の拒絶や怒りを避けるために、自分の価値や尊厳を犠牲にします。
  • 私は、他の人の気持ちにとても敏感で、それと同じように感じてしまいます。
  • 私は、非常に忠実で、有害な状況にあまりにも長く身を置いてしまいます。
  • 私は、他の人の意見を、自分の意見よりも尊重し、異なる意見や自分の気持ちを表現することを恐れます。
  • 私は、自分の興味や楽しみをわきに置いて、他の人が欲していることをしてあげます。

コントロールパターン

  • 私は、たいていの他の人は、自分の面倒を見ることができないと考えています。
  • 私は、他の人が、どう考える「べき」で、「ほんとうは」どう感じているかを、説いてきかせようと試みます。
  • 私は、他の人が自分の助けを受け入れてくれないと、腹を立てます。
  • 私は、乞われなくても、遠慮なく他の人に助言を与えたり方向性を示してあげたりします。
  • 私は、自分が気にかけている人に、惜しみなくものをあげたり、何かしてあげたりします。
  • 私は、他の人と関係を築く際、”必要とされる”ことが必須です。

回避パターン

  • 私は、他の人が自分を拒絶したり、辱めたり、怒りを抱くよう、しむけます。
  • 私は、他の人が思ったり、言ったり、したりすることを、厳しく裁きます。
  • 私は、距離を保つために、感情的、身体的、性的な親密性を避けます。
  • 私は、親密な関係を避けるために、人や場所やものに依存します。
  • 私は、衝突や対立を避けるために、間接的または曖昧なコミュニケーションの取り方をします。
  • 私は、自分の弱さを感じないように、感情や欲求を抑えます。
  • 私は、感情表現は、弱さの表れだと信じています。
  • 私は、感謝の気持ちを抑制します。

(参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

 

いかがでしたか。この中に、当てはまりそうなパターンがあったでしょうか。

共依存というのは、色々な視点から見ることができると思いますが、ごく大雑把にいうと、「アンバランス」というキーワードでくくることができると思います。

自分と他者との関係において、自分の存在にくらべ、他の人の存在が大きくなりすぎている。ギブ・アンド・テイクのバランスが崩れていて、与えすぎ・受け取りすぎ、の関係になってしまっている。自分と他者との間に、健全な境界線が引けておらず、他者の境界線に侵入して、相手が欲する以上に与えてしまう、など。

自分と他者とは、それぞれ、両方とも尊重する必要があり、どちらかを犠牲にしてどちらかに価値を置きすぎると、関係性のバランスが崩れて長い間にはひずみが大きくなり、必ずうまくいかなくなります。

そもそも、誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなんてものは、決して長続きはしません。それは、そもそもこの世界が、自分と相手と両方とも満たされることによってのみ、調和が保たれるようにできているからだと思います。

(今回の共依存シリーズ、次が最終回の予定です。)

 

 

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共依存の依存パターン(1)

前記事に続いて、共依存の特徴を詳しく見ていきます。

共依存の人は、しばしば、感情操作タイプのパートナーをコントロールしようと執着し、中毒的なパターンを形成します。(感情操作タイプの詳細については過去記事:http://therapyroom-hummingbird.com/?p=741を参照してください。)

コントロールできない誰かをコントロールしようと躍起になるという強迫観念的な衝動は、共依存の人を、まるで車輪の中で回り続けるハムスターのように、一歩も前に進ませないという不毛なパターンに陥れ、怒り・欲求不満・恨みというスタート地点にとどまらせます。

得られないものを求めようとする共依存の人の試みは、度重なる人間関係での失敗を通して、結局のところ自分は他者に対して無力なのだと、痛感させるに至ります。

感情操作タイプの人を変えようとして躍起になり、失敗して、嫌な気持ちを味わうという悪循環の中で、共依存の人は次第に疲れ切ってしまいます。そして、結果的に、慈しまれたい、感謝されたい、認めてもらいたい、という願望を、あきらめてしまうことになります。

こうして、感情操作タイプのパートナーが、いつか自分が望むものを与えてくれるだろうと、あんなにも自己犠牲的に、忍耐強く、待ちこがれていた信念は、やがて怒りと恨みへと形を変えていきます。

パートナーがいつかお酒をやめてくれるだろう、浮気をやめてくれるだろう、愛情や優しさを示してくれる日が来るだろう、という期待が実らないと気づいた共依存の人は、直接的な、あるいは、受け身の攻撃へと身を転じ、不屈の相手を積極的にコントロールしようとし始めます。

 (参考文献:Rosenberg, R. (2013).  The Human Magnet Syndrome: Why We Love People Who Hurt Us. Eau Claire, WI.  PESI Publishing & Media.)

 

ここまでみてみると、共依存を依存パターンに駆り立てている原因が明らかになってきます。つまり、慈しみ、評価、承認を、自分自身ではなく、相手に求めようとしているということです。これが共依存が依存であるゆえんです。

その裏には、自己愛の欠如・自己肯定感の欠如といった、欠乏感があり、ゆえに、共依存の人は、おしなべて自尊心が低いという図式になるのです。

自分の中にないと感じているから、相手から与えてもらおうとし、それが自分にとって、とても必要なものだと本能的に知っているので、必死になって相手に執着する、というわけです。

けれども、自己愛、自己肯定感というのは、本来、自分の中に見出すべきであり、相手から得ることで補おうとする試みは、必ず失敗に終わります。

自己愛というのは、人間が存在する上でとても大切な要素であり、非常に強いパワーの源になります。逆に、自己愛の欠如というのは、あらゆる心の問題の源になります。

臨床の現場で、感情障害、不安障害、人格障害等、深刻な精神疾患を抱えているクライアントさんを診ていると、その根底に自己愛の欠如がある、自分に対する愛情不足がある、というケースが非常に多いことは、とても印象的です。

次回は、共依存のいくつかの種類をご紹介したいと思います。

 

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