盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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ブログ

柔軟な人はケガをしにくい

お相撲さんは、稽古の一環として、股割りをするのだそうです。

なぜなら、体が柔軟だとケガをしにくいからだそうです。

それを聞いて、

「ああ、これは体だけじゃなくて、心の領域にも言えることだな。」

と思いました。

柔軟な考え方ができる人は、精神的ダメージを受けたり、心の病気になったりしにくいです。

逆に、頑固で融通の利かない人、変化になかなか適応できない人など、精神的に柔軟性のない人は、ストレスを感じやすい。また、落ち込んだり、腹を立てたり、不安なったりしやすいので、心の病気にもかかりやすいというわけです。

例えば、今日はラーメンが食べたいと思って、ラーメン屋さんにいったら、臨時休業だったとします。

精神的に柔軟性がない人は、

「なんてことだ。絶対、ラーメンじゃないと嫌なのに。なんて運が悪いんだ。ああ、腹が立つ。」

と思う。怒りや失望や欲求不満を強く感じるので、ストレスも高くなる。

心や思考が柔軟な人は、

「しかたないな。ま、いっか。ほかにもおいしいものがあるはずだし、いっそ、今日は新しいお店を開拓してみよう。」

と、こだわりが少なく、執着しないので、臨機応変に対応でき、ストレスもあまり受けない、ということになります。

柔軟性のない人の特徴は、

「絶対、~でないとだめだ。」

「~するべきだ。」

「~しなければならない。」

「~してはならない。」

「決して、許さない。」

等、絶対的なニュアンスの語彙を、頭の中で使う頻度が高いということです。

この頭の中で使う語彙(セルフ・トークと言います)を変えてあげるだけで、思考の習慣がだんだん変わっていき、最終的には意識も変わるので、精神的に柔軟性に欠ける人でも、柔軟な心を身に着けることができるようになります。

ちなみに私が個人的によく使う言葉は、

「ま、いいや。」

「なんとかなる。」

というのですが、これは結構、ストレス軽減に効果が高い言葉だと思います。(実際、たいていのことはなんとかなるものですし(^^)。)

他には、

「大丈夫。今回はダメだったけど、次に頑張ったらいい。」

「失敗したっていいんだ。」

「完璧じゃなくていいんだ。」

等。

思い通りに事が運ばなかったとき、試しに自分自身に使ってみてください。きっと、気持ちが楽になると思います。

 

 

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友達がほしい悩み

友達がほしいとか、友達がいなくて寂しい、一人になりたくないから周りに合わせているけれど、なんだか楽しくない、いう友達に関する悩みを時々聞きます。

結論からいうと、一人になりたくない、一人では寂しいから友達がほしい、という理由から人と一緒にいると、あまり充実した友人関係は築けないと思います。

なぜなら、何をするにしても、動機、すなわち、何を意図するかによって、どういう結果を引き寄せるかが変わってくるものだから。

一人でいたくないがゆえに友達でいるのと、その人を本当に人として魅力的だと感じ、一緒にいたいから友達でいるのとでは、自分の振る舞いもおのずと変わってきます。また、相手もその意図を無意識に感じ取るから、相手のこちらに対する振る舞いもそれに応じたものになるでしょう。

孤独を埋めるために一緒にいると、どうしても、本当の自分を殺して相手に合わせてしまいがちになります。そうすると、自尊心が削られていくので、ますます自己評価も低くなる。自己評価が低いと、幸せを感じることができません。

反対に、自分に自信があり、(自己中心的にならない程度に)まわりに迎合しない人、友達がいないならいないでも大丈夫という人は、無理に友達を作ろうとしなくても、ひとりでに人を引きつけるものです。なぜなら、そういう人は、その人が持っている魅力がありのまま表現され、本来の輝きが出るので。その結果、その人の個性を魅力的だと思い、評価してくれる、同じ価値観を持った気の合う人たちが、自然に周りに集まってくるものだから。結果的に、自分を低めたり抑えたりして周りに合わせなくても、孤独にはならない。

いい友達関係を築くために、まず、自分自身といい関係を築く(自分をありのまま受け入れ、肯定する)というのは、一つの重要なポイントだと思います。

 

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症状がよくならない人

今までの経験上、症状がよくならない人の特徴を、思いつくままに書いてみます。

 

①人のせいにする人

 

自分の不幸を人のせいにする人は、まず確実によくなりません。

確かに、誰かが何かをしたために、その人の状況が誘発されたのかもしれないけれど、かといって、その人を非難しているばかりでは、よい変化は起こりません。

たとえば、誰かに騙されて、一文無しになったとして、何もせず、ソファに座って、毎日だました人に悪態をついてののしっているだけでは、状況が好転しないでしょう。犯人が人生の責任を取ってくれるわけではないので、立ち上がって、自分の人生を立て直す以外ない。

自分は犠牲者だとみなす、被害者意識が強い人、自己憐憫に浸っている人も、同様です。犠牲者だと思っているということは、自分が状況をコントロールする力があるという現実を否定し、自分は無力であると言っているのと同じだからです。

誰がほかの人がしたにせよ、自分の人生に起こったことは、やっぱり自分で責任を取るしかないのです。言い方を変えれば、自分の人生を本当に変えられるのは、人生の主人公である自分だけである。誰がなにをしようと、自分次第で自分の人生は変えられる、ということです。

 

②問題に直面するのを怖がって避け続ける人

 

特に深刻なトラウマを受けた人で、何年も何十年も、怖さのあまり、自分の心と向き合うのを避け続けている人は、心の問題は悪化の一途をたどります。そして、多くの人は、心の症状だけではなく、最終的に体の症状にも苦しむようになります。

怖いものというのは、避ければ避けるほど、もっと怖くなるもの。最終的に、目をそらせて気を紛らわすために、ドラッグやアルコール、その他のさまざまな依存症に陥る人も多いです。そうなると、問題がさらに複雑化して根深くなるので心の傷を回復することは、何年もかかってしまうことがよくあります。

心の問題は、いつかは直面しなければならないもの。準備ができていないうちに傷を暴くことはよくないのですが、早く対処したほうがいいというのは、やはり言えると思います。

 

 

③頑張る方向が間違っている人

 

よくなろうと一生懸命努力しているのだけど、その方向性が間違っている人は、疲れるだけでよくならないと思います。

例えば、愛からではなく依存から、自己犠牲を払って尽くしたり、自尊心を踏みにじられてもパートナーと一緒にいようとする人。喜びのためではなく、不安を埋めるために、無理をして何かを頑張り続けた挙句、達成感よりも虚しさを味わってしまう人など。

こういう場合、骨折り損のくたびれ儲けどころか、心の状態を悪化させることになってしまうので、それを防ぐためにも、自分の苦しみの原因が本当はどこにあって、どういうふうに対処したらいいか、見極めることはとても大切だと思います。

 

 

④薬に依存しすぎる人

 

うつ病や抗不安剤などの向精神薬に頼りすぎて、それ以外何もしない人は、私の見てきた中では、よくなった人があまりいませんでした。

私が以前診ていたクライアントさんで、自己評価がとても低く、なんでも悲観的・否定的な見方をする人がいました。この人は慢性的なうつを患っており、精神科医による薬物療法と、サイコセラピストによる心理療法の両方を受けていたのですが、彼女はSSRI系のある薬にとてもよく反応し、これを飲むとうつがウソのようによくなると言って、あまり心理療法のセッションには来ませんでした。

薬で症状が抑えられているうちはおかったのですが、彼女の鬱は何年にもわたる長期的なもので、やがて経済的に薬を買いつづけることが難しくなり、それまで飲んでいた薬をより安価なジェネリックの薬に替えた途端に、鬱がもどってきしまいました。

抗鬱剤にできることは、概して、体の痛みどめと同様、脳内の神経伝達物質の量や働きを操作して鈍らせ、あまり感情的な刺激を感じなくすること。うつを引き起こしている心的な原因を取り除くことではありません。加えて、薬で神経伝達物質を操作する習慣がつくと、薬が体内にある状態が正常になっていまいます。脳内の神経伝達物質は、感情反応や外からの刺激によって増減するもの。気持ちを自分でコントロールする力を身に付ければ、神経伝達物質のバランスも調整できていくはずですが、薬に依存してしまうと、自分で自然に操作する力を失ってしまう、つまり、自分で自分をコントロールする力を失う、ことになってしまう。薬は一般に腎臓や肝臓にダメージを与えるので、東洋医学でいうところの生命力をつかさどる器官からエネルギーが奪われることにより、活力を喪失してしまうことも重要な副作用です。これらの理由から、よほどの症状で場合でない限り、薬にだけ頼り続けるのは、私は疑問を感じます。

上述のクライアントさんとても共依存的な傾向にあり、元夫に虐待をうけていた過去があったのですが、その辺を含めて、彼女の鬱を引き起こし、人生に障害をもたらしているものの考え方や行動の癖をなんとかしなければ、やはり根本的な改善には至らないかったと思います。

ちなみに、アメリカでは、心理療法がとても盛んで、私が勤めていた職場では、クライアントは薬をもらいにくるだけではなく、投薬治療と並行して、必ず心理療法も受けなければならないことになっていました。職場には1人の精神科医と、私を含めて4~5人の心理療法士、3~4人の(日本でいうところの)ソーシャルワーカーその他の専門スタッフがいて、手厚くサービスを受けられるシステムが整っていました。費用の点でも、保険が適用になる上、州政府の補助もあって、お金が払えない人はただ同然で専門的治療を受けることができたので、精神障害をもつクライアントさんたちにとっては、恵まれた環境だったと思います。

日本の精神医療ももっと整備されて、より多くの人が、安い費用で高品質な治療的サービスを受けられるようになっていけばいいなと思います。

 

 

 

 

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太陽の光をとりいれる

気分が落ち込んでうつ状態になり、部屋にこもっている人は、だいたい、カーテンを閉めて部屋を暗くします。うつ状態の人が、明るくて風通しがよく、オープンなスペースにいる図って、なかなか想像しがたいですよね。

なぜでしょう。

落ち込んでいるとき、暗くて閉鎖的な場所に一人でいるほうが居心地がいいから。

では、なぜ暗くて閉め切った場所のほうが居心地がいいのでしょう。

そういう場所のほうが、その時のその人の心の状態に近いから。心の中の闇が大きくなっているときには、闇の中にいるほうが、心地いいと感じるものだからです。

人は、自分の状態に近い範囲にある人や場所、ものを心地がいいと感じます。この、「自分のそのときの状態に近い範囲」のことを、ここでは波長と呼ぶことにします。

自分とは全く波長が違う人や場所、ものといると、違和感を感じて、居心地が悪いもの。なので、落ち込んでいるときは、明るいところよりも、暗いところの方が落ち着くというわけです。

同じ理由で、落ち込んでいるときは、自分のその時の気持ちとかけ離れた明るく前向きな音楽を無理に聴くよりも、自分の状態に近い悲しい歌を聴く方が、同調しやすく、癒し効果があります。この時、救いようのない悲しい歌よりも、悲しい中にも希望がある歌がお勧めです。

心の中の闇(怒りとか嫉妬とか悲しみとか不安などの感情)は誰にでもあるものであり、それを持つこと自体、いいとか悪いとかいうことはありません。

でも、それが大きくなりすぎると、苦しくなってしまいますよね。

ただし、心の闇が大きくなって、苦しくなると、これ以上無視することができず、直面せざるを得なくなるので、チャンスであるともいえます。なぜなら、ちゃんと向き合ってあげれば、心の闇は成仏して消えていくことができるからです。

サイコセラピーというのは、心の闇を成仏させて、消滅させる一つの手段であるともいえると思います。

ところで、落ち込んでいるとき、一時的にでも闇を払って気持ちに光を入れる簡単な方法として、 太陽の光を取り入れるというのがあります。

太陽の光というのは、自然の抗鬱剤です。

老人ホームでうつ状態になっている人たちを、毎朝30分、外に連れ出し、朝日に当てるようしたら、うつが軽減したという実験報告があります。

気がふさいだり、気分が落ち込んだりした時は、意識的に太陽の光を体内に取り入れるようにすると、少し気分が晴れるはずです。

植物も動物も人間も、太陽の光を浴びなければ元気に生きていくことはできません。

太陽の光を浴びることでセラトニンという脳内の神経伝達物質が正常に働き、結果として、メラトニンという睡眠を促す物質も分泌されます。自律神経のバランスも調整されるので、心身ともに調子がよくなります。

さらに、太陽の光には、現在研究されている科学的根拠だけでは計り知れない、生命エネルギーが含まれています。この生命エネルギーはプラーナとも呼ばれ、場所によって多かったり少なかったりします。

ちなみにプラーナは、私には、動き回る半透明の微粒子のように見えます。(通常肉眼でものを見るのとはちょっと違うやり方で見る必要がありますが、コツさえつかめばこれは誰にでも見えるものだと思います。)空気のきれいなところや自然が豊かなところではプラーナはたくさんあり、空気の汚れた都会の真ん中では少ないみたいです。

特に朝の陽光を浴びると、このプラーナ=新鮮な生命エネルギーをたくさん取り入れることができるようです。

一つのやり方としては、朝、太陽の方を向いて、まず、息を吐いて、嫌な気持ちやストレスや緊張が、吐く息とともに体の外に出ていくのをイメージする。次に、深呼吸をし、太陽の光が呼吸を通して体の中に入ってくるのをイメージする。これをしばらく繰り返す、というのがあります。(目に悪いので、太陽の光を直接みないでくださいね。)

ただ、外にでて朝日を浴びるだけでなく、こうやって意識的に太陽の光を体の中に取り入れることで、効果が数倍アップするので、ぜひ試してみてください。

 

 

左に写っている茶色いものは、ネコのニャンさんです。

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キャニオンの休日

たまには、肩の凝らない記事をと思いまして、アメリカに住んでいた頃の話を書きます。

 

ある日曜日、同僚のおじいさんセラピスト、トムと一緒に、近くにあるキャニオンにハイキングに行きました。

その頃、私は、仕事のストレス解消に、時々休みの日に、同じ趣味を持つトムと落ち合って、自然の中に出かけてはハイキングをするのが、マイブームになっていました。

「この近くに、なんとかキャニオンていう(すみません、何キャニオンか忘れました)ところあって、わしも行ったことがないが、とてもきれいだと、知り合いのご婦人が、昔、教えてくれたんだ。だいたいの場所ならわかるよ。」

というので、行ってみることにしました。

「こっちかな。うん、この道であっているはずだ。いや、ここで曲がるのかな。」

と、なんだかおぼつかないので、

「そのご婦人にもう一度電話して聞いてみたら?」

と聞くと、

「いや、その人は10年前くらいに死んでしまったから、もう聞けないよ。」

という回答。

うん、そら、もう聞けないわ。(;一_一)

しかしながら、舗装されていない道をガタゴトしばらく行ったのちに、我々は無事に目的地に着いたのでした。

 

知る人ぞ知る(そして、日本人で知っている人は多分ほとんどいないであろう)なんとかキャニオン。

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崖の上にあさっての方を向いているラクダみたいな岩があります。

 

 

当たりには、切り立った崖がいっぱいあります。

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私たちは、崖の一つを選んで、ロッククライミングを試みることにしました。

若い頃、ボーイ・スカウトに入っていたというトムは、車に、ジャックナイフ、毛布を何枚か、帽子2つ、水のボトル何本か、その他いろいろ、万全の装備を車いっぱいに積んでいました。

が、家から車で15分くらいのところにあるこのキャニオンに行くのに、そんな装備がはたして必要だったのか、いまだにわかりません。しかも、いざ崖に上るときは、ペットボトルの水以外なにも持たず、私もトムも丸腰でした。

 

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崖は結構険しく、登りは両手を使ってよじ登らなければならない場面、そして下りはかなり高いところから飛び降りなければならない場面が多々あったので、ペットボトルの水がたいそうじゃまでした。私はスーパーのレジ袋にペットボトルの水を入れて持っていたので、まだ持ちやすかったのですが、崖のあちこちにぶつけて、レジ袋は最終的には穴だらけのボロボロになってしまいました。

っていうか、二人とも、せめてもっと、リュックサックを背負うとかせんかい、ロッククライミングするのに、スーパーの袋ってあんた(-“-)、と、今思えば、自分で自分を突っ込みたくなります。

 

でも、苦労して上った甲斐あって、崖の上からの景色は、絶景でした。

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はるか地平線の彼方の山々まで見渡せて、空気も澄んでいて、風の音以外とても静かで、気持ちがよかったです。

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これが、トム。

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以前、トムに「ブログとかに写真出してもいい?」と聞くと、「わしゃ、かまわん。この年になったら、もうどうでもいい。」という答えだったので、遠慮なく掲載させていただきます。

 

このキャニオンには、一度行ったきりでしたが、たまに地元の家族づれや友人同士がバイクや車で来るくらいで、訪れる人もほとんどなく、なかなかの秘境です。ぜひ、藤岡弘さんに行ってもらいたいくらいです。

 

私自身はもう二度といく機会はない気がしますが、今となっては、いい思い出になっています。

 

 

自慢話が快いとき

みなさんは、誰かが自慢するのを聞いて、不愉快になったことがありますか。

不愉快になったことがある人は、多いと思います。

それでは、自慢話を聞いて、不快な気持ちにならず、かえって快い気持ちになったことはありますか。

頻度は少ないのですが、私はあります。もちろん、不愉快になるもあり、その方が、頻度としては多いです。

その違いがどこから来るのか、なんとなく考えていて、思い当たった答えがあります。

ずいぶん前ですが、アメリカのどこか田舎のリゾート地に日本人の友人と旅行した時、入ったレストランで、ばったり、現地に住んでいる日本人女性に出くわしました。その人は私たちを見て大喜びし、相席で食事をすることになりました。そこで日本人に会うことが比較的珍しかったので、うれしかったようです。

彼女は食事の間、たいへんよくしゃべり、私たちはもっぱら聞き役でした。詳しいことは覚えていませんが、内容は、彼女自身だったか、彼女の夫だったかが、たいへん優秀で、一流会社に勤めていて、社会的・経済的に恵まれた地位にある、という話でした。

1時間くらいの間、聞かされたのは、主にその内容だけだった気がしますが、あんまり嬉しそうに無邪気にその話をするので、聞いている私たちも、快い気分になりました。

彼女と別れた後、一緒だった友人と、

「かわいらしい人だったね」

と言い合ったのを覚えています。

彼女は何歳だかしりませんが、当時まだ20代だった私たちよりも、少なくとも10歳以上は年上だったと思います。

それでも、私たちが、

「この人、自慢ばっかりして、うんざりする」

と思わなかったのは、彼女の中に、人を見下す気持ちが、少しもなかったからだと、今になって思います。彼女は単純に、自分だか夫だかが優秀な業績を収めていることを、喜んでいました。ただ、それだけでした。

私たちが、誰かの自慢話を不快に思うときは、おそらく話をする人の中に、人と比較して自分の方が優れている、自分は特別だという、優越感、裏を返せば、人を見下す気持ちが、潜んでいるのだと思います。そして私たちはそれに反応をして、不愉快になるのだと思います。

もし、優越感が話し手の意識の中に全くない場合、私たちは話し手の中に、邪気のない純粋な喜びの感情だけを感じることができるので(聞き手の中に劣等感があり、それを話し手に投影してしまう場合は別かもしれませんが)、自慢話は不快なものにはならないものだと思います。

 

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あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。

盛岡は、元旦は雪が降っていて、初日の出は拝めませんでした。でも、雪が舞う元旦も、きれいでいいなあ、と思いながらみていました。

 

2日は、晴れ間がのぞいて日が差したので、2014年最初の光の写真を撮ってみました。

 

 

 

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クリアに透き通った水晶ほど、太陽からの光をそのままきれいに反射して、美しい輝きを放ちます。

これは、人間にも言えることだなあと思います。

自分の中にしみついて、層になってしまった余計な思考や感情を少しずつ取り去って、クリアにすればするほど、もともとその人が持っていた光が外側に放出されるようになり、輝きを放ちますから。

 

 

2014年が、みなさんにとって、より光り輝く素晴らしい年になりますように。

本年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なつかしい日々

 

以前、アメリカでサイコセラピストとして働いていた時のオフィスです。

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とても忙しい職場でした。(だからというわけではないが)机の上はいつもかなり乱雑。

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オフィスには、クライアントさんの癒やしの空間であってほしいと思い、観葉植物や天使の置物、水晶などを置いていました。(植物を置きすぎて、ちょっとジャングルっぽくなっていました。)

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クマさんが座っている椅子と、その横にある井戸の置物は、クライアントさんが作ってプレゼントしてくれたもの。彼はアルコール依存で元ホームレスだったのですが、とても手先が器用でセンスがよく、よくゴミ置き場から廃材を拾ってきては、色々なものを作っていました。

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町の郊外には、こんな風に雄大な砂漠の景色が広がっていました。

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近くにリオ・グランデ川という大きな川が流れていたので、自然に触れてリフレッシュしたいときは、時々訪れていました。

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このあたりでは、太陽の両横に光の反射光が作り出す、サン・ドッグという現象が、時々見られました。

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その頃から一緒だったネコたち。

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当時は、自傷他害などの緊急事態の処置診断のため、夜中に起こされて、病院のER(緊急病棟)に呼び出されることがしょっちゅうだったのですが、そういうときはネコたちも必ず起きて、私が仕事を終えて帰るまで寝ないで待っていてくれました。

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ハードだったけれど、とてもやりがいのあるアメリカでの日々を、今でも時々懐かしく思い出します。

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もうすぐ今年も終わり。これからも、皆様のお役に立てるよう、頑張ろうと思っています。ブログにも、読んでくれている方のお役に立てるような記事を書いていくつもりです。

来年もよろしくお願いいたします。よいお年を。<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

罪悪感について

罪悪感というのは、一時的に持つ分には、自省して今後の行動を改正するのに役立つ感情だと思います。でも、長い間持ち続けると、心をむしばみ、自尊心を喪失させ、気持ちを萎縮させて、前に進むことを足止めしてしまう、有害な感情になってしまうものだと思います。

罪悪感を長年持ち続けた人というと、すぐに頭に思い浮かぶクライアントさんが2人ほどいるのですが、2人とも、とても自尊心が低く、恐怖心が強く、極度の鬱状態にある人たちでした。

一人は、若いころの性的虐待を期に、ゲイになってしまい、そのことを周囲に隠しつづけてきた50代の男性。彼は厳格なクリスチャンだったため、同性愛が罪だと信じ込んでいて、そのことが彼の罪悪感と羞恥心に拍車をかけていました。

同性愛であるとか異性愛であるという性的指向は、自分のアイデンティティの一部なので、それを恥じたり、隠したりするということは、非常にストレスになります。例えば、自分が日本人であるということに罪悪感を感じ、隠して生きなければならないと想像してみてください。自分を作り上げている個性の一部を否定するということが、いかに不自然で苦痛を生じるものであるか、わかると思います。

彼は、30年以上も自分のアイデンティティに罪悪感を抱き続けた結果、深刻なうつとアルコール依存、パニック障害を発症して、家から一歩も出られないところまで精神状態が悪化してしまいました。外に出て誰かに行き会うと、その人が自分を見ている気がします。周囲の人たちに心の中を見透かされているのではないか、みんなが自分のことを話しているのではないかと、常に恐怖におびえ、仕事に行くこともできなくなり、ささいな物音にも、文字通り飛び上がって、ガタガタ震えるようになってしまいました。

この人は、30年間にわたって心の中に押さえつけてきた罪悪感が、根強い恐怖感に変わってしまっていたため、症状がひどく悪化していたのでした。自分の性的指向をそのまま受け入れて、罪悪感を手放すことが、症状の改善のためには必須だったのですが、彼の宗教観がそれを容易には許さず、さらに、日々の大量飲酒で自分と向き合うことを避けていたため、進展はないとはいわないけれど、遅々してなかなか思うようには進みませんでした。

もう一人は、幼いころに、夫と別れた母親に恋人代わりにされ、性的虐待を受けていた40代の男性です。彼は、まだ子供のときに、母親の倒錯した愛情にひどく混乱させられ、心に深い傷を負ったため、その記憶を抑圧して、顕在意識から抹殺するという選択を取っていました。なので、私がカウンセリングを始めて1年くらいは、5歳くらいのときに、なにかひどいことがあったという以外は、思い出すことができず、子供のころはとても不幸だったけれど、具体的なことは覚えていないというばかりでした。

この男性の症状は、アルコール依存(以前は種々のドラッグ依存)、解離性人格障害、うつ病、パニック障害でした。非常に自尊心が低く、自己破壊的で、破滅的な行動を起こしては、自分の人生に不幸の種を作り出していました。特に女性関係において、彼は自分の破壊的衝動を抑えることができず、自分を傷つけるような危険な相手を選んでは、みじめな結末を迎えるということを繰り返していました。

彼は、子供のころの自分と向き合うことを非常に恐れていたのですが、1年以上セッションを重ねてから、ようやく性的虐待の記憶の断片を思い出して、少し語れるようになりました。それを聞いてはじめて、彼の自嘲的で自己破壊的な傾向の幾分かが、母親の性的虐待による近親相姦という、強い自責の念から来ていたことがわかりました。

彼の中には、傷ついた5歳の男の子のまま成長を止めてしまった部分がどこかにあって、辛い記憶を打ち明けて号泣したときの彼は、40歳の大人ではなく、幼い子供そのものでした。とてもシニカルで、人に対しても辛辣なところがある人でしたが、根は優しい人だったので、この人のインナーチャイルドが癒され、罪悪感を手放すことができたら、生まれ変わることができるだろうと思います。

このように、長い間心に抱え込んだ罪悪感は、心をむしばみ、凍結してしまうものです。

罪悪感にさいなまれているなら、はやめに対処して、心から解放してあげることが大切だと思います。

 

 

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「今、ここ」と過去、どっちが大切か

よく言われるように、現在、すなわち、「今、ここ」に生きることは、いちばん効率がよく、かつ、心の健康のためにも、最善な生き方です。

未来はまだ来ていないので、どうにかすることはできず、どうにもできないことをどうにかしようと思うと、気を病むばかりです。それよりも、実際に動いて変えられる唯一の時制である現在に意識を集中し、今できることをやったり、楽しめることを楽しんだほうが、無駄がない。

それに、現在において、最善を尽くし、最良の選択をすれば、おのずと未来もいい方向に変わっていきます。

同様に、もう過ぎてしまった過去のできごとも、変えようがありません。変えようがないことで腹を立てたり悔んだりしても、精神エネルギーを無駄に消耗するだけで、建設的ではありません。一番いいのは、過去の失敗を学びに変えて、現在をよりよくする糧として生かし、あとは忘れることでしょう。

実際、心理療法の中には、過去のことは一切取り合わず、現在だけを重視するやりかたもあります。

確かに、過去は過去と割り切って、忘れてしまえるのならいいのでしょうが、ただ、人間、なかなか、そううまくはいきません。

私は、過去に経験した強い思いがいまだに現在に影響しているのなら、過去に戻ってまだ癒えていない傷を癒やすことは大切だし、また、必要であると考えています。

実のところ、過去とか未来というのは存在せず、人間が生きている、すなわち、経験することが可能な時制というのは、常に現在しかないともいえます。

人生のある時点で、人が強い感情的な経験をした際、それが極度に不快だった場合、意識の中で薄れることができずに、常に今に影響しつづけてしまいます。そういった意味で、起こったことは過去であっても、その経験のもつエネルギーを感じているのは、現在であるということになります。いわば、過去と現在がつながってしまっている状態になるわけです。

特に、痛すぎて感じたくないと思い、無意識の中に閉じ込めてしまった場合、その痛みは一時的にはなくなったように感じれるかもしれませんが、実のところ、閉じ込めている分、より強烈になってしまいます。閉じ込められた感情というのは、必ず解放を求めて外に出ようとするものであり、長く閉じ込めておけばおくほど、もがいて暴れるものだからです。

閉じ込めたまま、「今、ここ」に生きようとしても、繰り返し、潜在意識の下にある未浄化の感情は、

「ここにいるよ。こっちを見てよ。ここから出してよ。」

とサインを送ってくるものなので、そのたび、過去に引き戻されてしまいます。

原因のわからないパニックアタックとか、全般性不安障害、強迫観念症、繰り返し起こるうつ症状などは、無理やり押し込めて忘れようとした痛みの無言の訴えであることが多いように思います。

こういう理由で、現在に直結した過去の感情が残っている場合は、過去にさかのぼって対面し、閉じ込められたものを解放してあげることが、心の回復への早道だと、私は思います。

 

 

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