盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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幸せの作り方

現実を創造するもの

年収1000万あって、庭付きの家も車もあって、結婚していて子供ががいても、寂しくて、満たされず、不幸な人もいます。逆に、年収はその半分以下で、車もないし、家は賃貸で、一人暮らしであっても、周りの人に愛され、楽しんで暮らしている人もいます。

なにを持っているかが現実を決めるなら、同じものを持っている人は、みんな同じように幸せ、または不幸なはずですよね。でも現実はそうではありません。たとえ同じアイテムを持っていたとしても、幸せな人もいれば不幸な人もいます。

なぜなら、私たちが生きる現実は、もっぱら、「自分を取り巻く環境に何があるか」「自分の生活にどんな出来事が起こるか」によるのではなく、「自分の周囲にあるものの中で、何を選んで焦点を当て、それをどんなふうに捉えるか」によって成り立っているからです。

例えば、AさんとBさんが外に立っているとします。二人は1mと離れていない場所に立っているので、二人の周囲には、まったく同じものがあります。

Aさんは、ものがあふれているゴミ箱や、たばこの吸い殻や、道路の油のシミや、向こうからやってくる人を見て「汚いなあ、マナーの悪い奴ばっかりだなあ、こっちに歩いてくるあの人は、なんて不景気な顔をしているんだろう。服のセンスも悪いなあ。」と思います。

Bさんは、Aさんが見ているものは目に入らず、代わりに頭上の青空や白い雲を見て、「ああ、いい天気だなあ」、足元に咲いている花を見て、「わあ、きれい。もうすぐ春だなあ」、通りすがりのネコを見て、「なんてかわいらしい。」と思っています。

AさんとBさんは、同じ場所にいながら、二人が生きている現実は、まったく違うものになるのがわかりますね。

Aさんは、取り巻く環境の中で、不快なものを選んでそこに意識を固定し、否定的な解釈をしているので、不愉快な現実を自分の周りに創造して、その中に住む羽目になっています。

Bさんは、心地よいものにフォーカスし、そこに意識を当ててつながり、吸収しているので、Bさんが住む世界は、明るく、優しくて、快適なものになっています。

人はこうやって、無意識に、自分が住む現実を創りだしています。天国と地獄の差は、こうやって生まれます。

否定的なものを選び、否定的な解釈を下す癖は、ある時点で、何らかの事情で身につき、あまりにもしょっちゅう反復してきたために、自分がそうしていると気づかずに自動的に行っている人が多いです。例えば、自尊心をひどく損なわれるような傷つき体験をした場合、それを境に、悲観的な視点を身に着ける人が多いようです。

理由はともかく、まずは自分がそれをやっていることに気づくことがポイントになります。そして、自分を取り巻く多くのアイテムの、どれに焦点をあて、何とつながるか、それをどう視るかは、本当は選択できると知ることが大事です。

人は、自分が意識の焦点を当ててつながったものから影響を受けます。例えば、きれいな花が咲いているのを見て、花に集中すれば、花と自分との間につながりが生じ、花の持つエネルギーがこちらに流れ込んできます。(花の形や色を楽しみ、香りをかぎ、手で花びらや葉っぱに触れるなどし、五感で感じるように心がけると、より集中できますので、多くのエネルギーを受け取ることができます。)

不快なものばかり見て、それに否定的解釈を下していると、その不快なものに対するフォーカスを強め、その対象物からエネルギーを受け取ることになります。結果として、嫌な気分を自ら作り出し、自分を取り巻く現実を創造してしまうことになってしまいます。(本当は、その対象物がもつエネルギーというより、その対象物に自分が投影しているエネルギーというほうが正しいと思いますが、ちょっと複雑になるので、ここでは説明を割愛します。)

今生きている現実がどんより灰色の人でも、現実は与えられたものでも、偶然にできたものでもなく、自分自身が現実の創造主であることを意識することで、現実を変えていくことが可能です。

現実を変える第一歩として、まずは、美しいもの、優しい気持ちにさせてくれるもの、温かい気持ちになるもの、ありがたいもの等、毎日1つでも2つでもいいので探してみましょう。ネガティブな視点が癖になっていると、なかなか見つからないものですが、一生懸命探していると、それが慣れ親しんだ意識のフォーカスのしかたを変える練習になり、何とどうつながるかを変え、異なる現実を創造する訓練になるでしょう。

ダライ・ラマの見た西洋世界

ダライ・ラマ自伝(ダライ・ラマ著 山際素男訳 文春文庫)の中に、こんな一文がありました。

(前略)西欧社会の考え方にいくつかの疑念を抱くこともある。その一つは、物事を”白と黒”、”あれか、これか”で考え、相互依存性、相対性を無視する傾向である。つまり二つの観点の間には灰色の部分が必ずあるという目が欠けているように思われる。

  また、こうも思う。大都市で便利に暮らしている人々の多くは、実際には大勢の人間から孤立して生きているのではないか、と。これほど物質的に恵まれ、近隣の何千という人間のなかに暮らしていながら、猫や犬にしか心を開くことができない人がなんと多いことか。どこかおかしい気がする。これは心の貧しさを意味するのではないだろうか。またもう一つには、これら諸国の厳しい競争社会、そこから生み出されるおそれと人生への深い不安感があるように思う。

これは、中国のチベット侵略後、インドに亡命し、ダラムサラに亡命政権を樹立した後、 欧米諸国を訪問するようになった ダライ・ラマ法王が、 旅先で目にした光景から得た感想なのですが、その鋭い洞察力には感服します。
しばらく住んで、その国に入り込み、内側からその国の文化を体験したわけではなく、忙しいスケジュールの中、外から垣間見ただけでしょうに、ここまで奥深く見通せるとは、さすがの叡智ですね。

以前、メキシコに4年ほど住んでいたとき、貧しい人が多かったのですが(ただし階級社会なので、お金持ちはとてもお金持ち)、人々の心は日本やアメリカなどの先進国より豊かだと思いました。人々が温かく、親密な文化なので、 お互いの距離が近すぎて干渉的だと感じる場合があるかもしれませんが、その一方で、人が孤独になるということがあまりない社会でした。当時、大家さんの家の2階で一人暮らしをしていたのですが、近所の家の人が表に椅子を出して1日ひなたぼっこをしており、家に帰ると、留守の間に誰が訪ねてきたとか、荷物が届いているとか、逐一教えてくれました。数日、外に出ないでいると、大家さんはもちろん、友達や近所の人など、いろんな人がとっかえひっかえ、どうした、何かあったのか、と心配して見に来ます。だから、うかうか引きこもっていられません。孤独死なんて不可能です。兄弟や親戚も多くて、中流階級以下は一つの家に大勢で住んでいることが多いので、プライバシーはないけど、人間同士のつながりが濃く、そのせいか、自殺率がとても低い社会だと聞いています。鬱などの精神疾患もあまりなかったように思います。人々は概して明るくて、貧しい人同士、助け合って暮らしていました。物乞いの人はたくさんいたけれど、貧しい人ほど気前がよくて(お金持ちの特権階級の人のほうがケチでした)、みんなよく小銭を寄付したり、ちょっとした仕事を与えたりして、助けたりしていました。

だから、上記のダライ・ラマの記述は、とてもよくわかります。日本やアメリカのほうが、人々の顔つきが暗くて、不幸せそうに見えますし、社会にストレスが多く、不安や恐れが蔓延しているように思います。

ダライ・ラマというと、メキシコに住んでいたころ、知人のメキシコ人の運転手が、私が何気なく手に取った、車に置いてあったボールペンを見て、それ、ダライ・ラマがくれたペンだよ、といったので、とても驚いたことがありました。彼はダライ・ラマがメキシコに来た時に運転手を務めたそうです。「どんな人だった?」と聞くと、「英語が上手で、気さくで、ちっとも偉そうじゃなくて、いい人だったよ。インドに帰った後、お礼状とハンカチが送られてきたよ。」とのこと。お人柄がしのばれるエピソードですね。

余談ですが、ダライ・ラマの自伝を読んで私が思ったこととしては、なるほど、菩薩というのはこういう人なんだろうなということ。幼少期からとても頭脳明晰な人のようで、記憶力や理解力、洞察力も抜群だったようですが、一方で、先が見通せる千里眼があるわけではなく、怒ったり、悲しんだり、苦悩したりもする、一人の人間です。けれども、エゴが非常に少なくて、自分より人、衆生を苦しみから救うこと、 世界の平和を常に考えている人。慈悲の心を高め、人格を向上させる為に、ストイックに修行に励んでいる人という印象を受けました。

ダライ・ラマがおっしゃる通り、今の先進国、「文明社会」の在り方は、どこか間違っていると思います。物質が豊かにしてくれるのは、表面的な生活だけで、それだけでは心が満たされないことはないこと。競争社会は争いを生み、人々を分離させ、心を貧しくしてしまうこと。この世界は白黒では割り切れず、たいていグレー、中間色なので、白黒の考えで生きようとすると現実にフィットしない。それどころか、ことあるごとにストレスを感じる、苦しい生き方になってしまうこと。そんな矛盾を抱えているのが、私たちが住む、先進国の現状ですね。

これからは、物質的な豊かさだけではなく、心も豊かになるような世界になっていけばいいなと思います。

 

効果的でない感情の解放の仕方

ゲシュタルト療法のセミナーに行ってきたという知人に、その内容を聞いて、驚いたことがあります。

ゲシュタルト療法には、空椅子療法という手法があります。誰も座っていない椅子を前に置いて、架空の相手との対話で感情を引き出すやり方なのですが、そのセミナーでは、「毒親」のお母さんをイメージしながら、お母さんを棒で叩くことをしていたそうです。(ちなみに、私は「毒親」という言葉があまり好きではありません。自分の苦しみを他者のせいにして、被害者意識を強めてしまい、苦しみから抜け出すことを困難にしてしまう効果があるので、気をつけたほうがいい言葉だと思います。)

「あんなことするんだ、ってびっくりしました」

と、知人は言いました。

私は率直に、それはあんまりいい方法ではない、そのセミナーの主催者は何か勘違いしていると思う、とその知人に伝えました。

感情を傷つけられた相手に対して、イメージ上とは言え、暴力をふったりすることは、感情の癒しにはならず、却って逆効果です。人を攻撃することで心が癒されるということは、本当の意味ではありえないからです。

人は潜在意識のレベルではみんなつながっており、一つです。ゆえに相手を傷つけることは、奥深い部分では、自分を傷つけることになるので、空椅子でお母さんを棒で殴って、表面的、一時的にはスッとした気がしたとしても、モヤモヤしたり、後味の悪さが残ったりするでしょう。お母さんに対する怒りや恨みが、減る代わりにエスカレートし、かえって強化されてしまう可能性もあります。

空椅子の上のお母さんに、暴言を吐いたり、暴力をふるったりするよりは、お母さんの行為によって、自分がどんな気持ちになったか、どんなに傷ついたか、本当はどうしてほしかったか、伝えるほうが効果的ではないでしょうか。

「お母さんはひどい」という、you statement (「あなたは」を主語にした言葉。相手を批判したり攻撃したりするニュアンスになりやすい)ではなく、「自分は腹が立った、悲しかった」という、I statement(「私は」を主語にした言葉。相手がどうこうではなく、自分の気持ちに言及)を使うのですね。

お母さんが「毒親」で辛い子供時代だった、という場合、通常、裏を返せば、本当はお母さんに愛されたかったのに、愛されなかった、という悲しみがあります。怒りより、その悲しみのほうが、心の深い層にある真実です。そちらのほうに光を当てて、言葉にし、表に出してあげるほうが、より深い感情の解放になります。

人間は誰でも、手つかずの状態では、無条件の愛を持って生まれてきます。子供は生まれながらにして、親がどんな親だろうと無条件に愛します。例えば、どんな容姿だろうが、声だろうが、障がいがあろうがなかろうが、関係なく、子供は親を慕いますよね。もし親が、時々感情的になったり、理不尽なふるまいをしたとしても、根本的に無条件の愛を持ち続けて子供に接することをすれば、子供は親を愛することを決してやめないものです。

でも、なんらかの事情で、親が無条件の愛を子供に表現できないとき、子供は親に愛されないと感じて深く傷つきます。「お母さんを愛している。お母さんはかけがいのない存在だ。そんな大事な人に愛されないことはとても傷つくことだ。もっと自分を愛してほしかったのに、辛い」と感じるわけです。

毒親に対する傷つきの根本にあるのは、怒りではなく、愛なので、そちらにフォーカスして表現するほうが、自分の本当の心と一致して、カタルシスになると思います。

自己信頼のパワーを引き出すコツ

何か、チャレンジにあったときに、「自分にはできる力がある」と信じることは、とても大切です。

私たちには、みんな、計り知れない潜在能力があります。ただ、土に埋もれてまだ出てきていない潜在的な力は、「自己信頼」という光を当てないと、芽を出しにくいかもしれません。

「こんなの、自分にはできない。無理。」

自分にはそんな力はない、と思うと、それも一つの信念になり、パワーを持ってしまいます。できない自分を現実化しようとする力が働いてしまうので、本当にできなくなってしまいます。

反対に、

ちょっと大変そうなことであっても、

「これを乗り越える力が、自分にはある。」

と強く思うと、実際にその問題に対処するパワーは、自分の中から力強く出てきてくれます。

その時の、自分の内側に力を集中させて、体内にみなぎらせるような感覚は、いわゆる、肚をくくったときの感覚です。おへその下(丹田)に力を入れて、「よし、できる」と思うと、自分の心身が、グラウンディングした状態に変化します。いわゆる、地に足がついた状態。

この状態になると、視界がクリアになり、音もよく耳に入ってきて、現実の世界がはっきりと認識できるような感覚になります。 現実に根差しているので、現実的なことに対処する力が十分発揮できる状態です。

自己信頼の力を生かすもう一つのコツとしては、頭でごちゃごちゃ考えすぎないこと。

「うまくできるかな」「失敗したらどうしよう」「周りにどう思われるだろう」と考えて不安を抱いたり、「こうなったときはこうして、ああなったときはこうやって」と、起こってもいない問題を想定してあれこれシュミレーションしたり、「これができたら、自分の株があがるかな」「褒めてもらえるかな」と、利己的な期待を抱いたりすると、本来持っている純粋なパワーの損なわれて、フルに力を発揮する妨げになります。

余計なことを頭で考えず、まずは、シンプルに、ただ感覚的に、「よし、できる、自分はそれを成し遂げる」と思うこと。

具体的な実現方法は、余計な画策をしなくても、直観的に思いついたり、思わぬサポートが現れたりして、後からついてきます。

プロセスを信頼して、成り行きに任せるというのは、流れに乗るために必要であり、自己信頼の要素の一部になります。




「わかってもらえない」苦しみについて


「親に気持ちを理解してもらえない」 「自分の苦しみを誰にもわかってもらえない」。こういう思いの裏には、依存や被害者意識が隠れています。

誰かにわかってもらえないと、自分は不幸せ、というのは、自分がいい状態になるか、悪い状態になるかは、他の人次第である、ということ。 自分の幸せを他者にゆだねている、すなわち依存状態ですね。依存は被害者意識と表裏一体なので、依存が強い人ほど、あの人のせいで自分は不幸、と人のせいにしやすくなります。

そもそも、親であれ、友達であれ、配偶者であれ、自分の気持ちを隅々まで正確にわかってくれる人なんで、自分以外にいません。逆に、自分が、自分の親や、友達や、配偶者の痛みを、いつも正確に余すことなくわかってあげられるかというと、そんなことはないはずです。

自分の苦しみは、人にわかってもらえないのが当たり前。わかってもらおうなんて、望まないほうが、むしろ自立的でいいと思います。

人の痛みというのは聖域であり、個人的なものです。ほかの人が入ってきて、隅々まで覗いて、好きに変えたりするなんて、できないし、されたくもないでしょう。自分しか、本当には理解できないし、手を加えて変えたりできない領域なのです。

加えて、「誰もわかってくれない」という思いは、自分と他者を分離する意識を生み出し、孤独感を強めてしまいます。「私だけが不幸」「なんで私だけ」という気持にもつながり、辛さを深めてしまうことにもなります。

痛みというのは、個人的なものである一方で、普遍的なものでもあります。

自分が他の人の痛みや苦しみを知らないだけで、本当は、どんな人にも、それぞれ、固有の痛みや苦しみ、悲しみがあるものです。それはもう、人混みで石を投げたら当たるくらい、自分のように辛い思いをしたことがある人はいるものです。生きるということは、素晴らしいことでありうる一方、本質的に辛いものですから。

だから、一人ではない、みんな、同胞です。

誰にも理解されなくても、自分が、自分の痛みや苦しみを理解し、適切に扱うことができれば、最終的にはその苦しみを溶解し、変容することが可能です。それができる人は、同胞の苦しみに対しても、自然に慰めを与えられるようになるもでしょう。

情報量より、いかに心にフィットするか

カウンセリング中、こちらが話したことを、真面目に、逐一メモするクライアントさんがいらっしゃいますが、そういう人に限って、なかなか進展がないことが多いです。

そういう方は頭で考えるタイプで、思考が多すぎるところに問題があったりします。

情報を逃すまいとして逐一書くのでしょうが、そうすると、書くことに意識が行くので、内容が思考の浅いところにしか入っていきません。頭の表面のほうには情報があふれているけれど、心の奥まで入っていかないんですね。

大事なのは、一から十まで情報を逃さないでキャッチすることではなく、その中で、一つでも二つでもいいから、自分の中にフィットするもの、心に響くものがあるかどうか、なのです。

心に響かないと、何も変わらないのです。

ああ、そうか、と腑に落ちて納得することが、10のうち、1つでもあれば、あとの9は忘れても大丈夫なくらいです。

頭だけで考えていると、いずれ限界が来て、物事がうまくいかなくなります。自分自身、苦しくなるでしょうし、だんだんには抑うつや不安、無気力などを感じるようになり、最終的に心が病んでしまいます。

心で感じて、そこから言動を起こすようにしたほうが、人間関係でも仕事でも、ずっとうまく行くようになります。

マインド(思考)とハート(心、フィーリング)のどちらが大切かというと、後者です。

マインドは、何が正解か不正解か考えたり、安全とか利益の為に社会や他者の価値基準に合わせようとしたり、理屈や損得をもとに、言動を起こそうとします。

ハートは、理屈抜きにして、直観的に、どうしたらいいかを指し示します。自分がうれしいか、気持ちが明るく、楽になるか、それとも、暗く、重苦しくなるか、感覚を基準にして動くことを、直観的に行動すると言います。それは、一人一人、同じ人であっても、その瞬間瞬間で異なるものです。社会が作ったお仕着せの基準や、他の人の基準に従っていると、自分に一番ちょうどいいものとはずれ、自分が心地よく、楽に、幸福になれる道筋とはぐれて、迷ってしまいます。

思考が多い人は、情報はたくさん集めるけど、感じることをせず、自分の基準に照らし合わせて取捨選択することができないので、多すぎる情報の中で、迷路に入り込んで、頭が混乱し、心が不安で落ち着かない状態になりがちです。

今は、いろんな情報があふれている時代で、マインドが優勢で、ハートが薄くなりがちですね。でも、情報って、本当はそんなにたくさんいらないものです。ハートがちゃんと働いていると、探さなくても、本当に必要な情報はひとりでにやってきます。

自分の心に感覚的にフィットするかどうか。幸せになるために、どうかこれを大切にしてください。

年末年始期間の休業のお知らせ

今年も1年ありがとうございました。

セラピールーム・ハミングバードは、12月31日から1月3日まで完全休業とさせていただきます。

その間にいただいたお問い合わせやご予約ご希望のメール等につきましては、4日以降にお返事させていただきますので、よろしくお願いいたします。

1月のご予約可能日は、 今日現在のところ、 6日(木)11時以降、15日(土)の11時~、14時~、15時~、18日(月)の午前・午後、20日(木)11時以降となっております。

通常、1~3週間先まで仕事のスケジュールが埋まっていることが多く、ご希望に沿えないことがあり、ご迷惑をおかけしております。申し訳ありませんが、上記の空きも順次埋まっていく可能性がありますので、カウンセリングのご希望があれば、お早めにご連絡くださいますようお願いいたします。

みなさまが、穏やかで心休まる年末年始をお過ごしになられますよう、お祈り申し上げます。

森を見ず、木を見る

あれもこれもやることがあって、圧倒され、気持ちが焦り、頭が混乱しているときの対処方法です。

「木を見て森を見ず」という諺がありますが、その逆のことをする。

木を見て、森を見ないようにするのです。

やるべきことが多い時、全体を見てしまうと、圧倒されます。森の木を全部切れといわれると、無理、できない、どうじよう、となりますよね。

でも、目の前の一本の木に集中して切る、と思えば、負担に感じる度合いがずっと少なくなります。

どのみち、人がいっぺんに全部の木を切ることなんてできないわけで、できるのは、一度に一本の木を切ることだけです。

それを一本一本やっていくと、気づけば、いつか森の木を全部切り終えているはず。

同じ結果に行きつくにしても、全体を見ては圧倒され、終始、焦りや不安を抱きながら終えるのと、目の前の一つにだけ集中してやり終えるのとでは、消耗の度合いが全く異なります。

一つのことに集中しているとき、脳は他のことに意識を向けなくなります。


計算式を2つ同時に解くことはできないですよね。 同時に2つ以上のこと集中することは、脳のしくみ的不可能だからです。

目の前のこと一つだけに集中すると、他のことに「気を取られる」(=エネルギーを奪われる)ことがなくなるので、精神的な消耗も必要最低限に抑えられます。

集中すると、エネルギーの焦点を一点に抑えて、大きな力を注ぐことが可能になします。太陽の光を普通に紙に当てても燃えないけど、虫眼鏡で太陽の光を集めれば、エネルギーが凝縮されるので、発火するのと同じです。

山積みの仕事であっても、しょせん、一度に一つずつしか片付けることができない。

その時、全体を見ないで、目の前の一つに集中すれば、エネルギーを拡散させて無駄に消耗することなく、より楽に、よりよく、終わらせることができるのです。

考えすぎないこと

先日、アクセプタンスアンドコミットメントセラピー(ACT=アクト)という療法に関するセミナーを受けました。アメリカのセミナーで、オンラインで受けたのですが、色々と役立つことが学べてよかったと思います。

その中で、興味深いと思った言葉があります。

「思考する頭(マインド)は、あなたを幸せにするためにあるのではない。頭は、あなたを危険から守るためにある。」

頭は、思考し、できごとをカテゴリー分けしてレッテルを貼り、過去を分析したデータに基づき未来を予期し、他と比較して判断や評価し、どうやったらいいか方法を見つけ出して、あなたを危険から守ろうとします。

けれども、思考はあくまでも思考にすぎません。その人が頭の中で考えたことにすぎない。「思考を現実と捉えてしまうと、絶え間なく解釈する思考に翻弄され、逃れられなくなってしまいます。」というのです。

例えば、「私は何をやってもダメな人間だ」という思考を持っているとします。それは一つの考えに過ぎず、現実ではありません。

そもそも、何をやってもダメな人間というのは、この世に存在しません。昔、やることなすことうまくいかない人が主人公で、色々なトラブルにあうコメディー映画を見たことがありますが、そんな人がもし現実にいたら、後世に伝えらるくらい有名になって、ドキュメンタリー映画が一本できるでしょう。それくらいありえないということ。

本当は、うまくいっていることもたくさんあるけれど、それは頭の中でスルーして、うまくいかないことばかりを頭が捉えている。偏った見方の癖から自分はダメな人間だと結論付けている。その作業を思考が行っているにすぎません。

よく考えさえすればうまくいくというのは、幻想です。考えすぎると思考の迷路に入り込んで、現実が見えなくなるものです。また、思考が多い人のほうが不安が強く、心身共に疲れやすくなります。

ちなみに、冒頭で述べたACTという療法では、いいか悪いか、正しいか間違っているかを目標にするのではなく、自分が幸せかどうかを目標にしています。

いいか悪いか、正しいか間違ってるかは、人によって違うし、同じ人であっても状況や時期によって変わってくる。要するに、あてにならないものです。正誤・善悪は、思考の判断によるもので、間違いうるもの、誤りやすいものです。

でも、幸せかどうか、というのは、(思考が得意とする)理屈ではなく、感覚的なもの。これは間違わないのです。どんなにこの人といたら幸せになれるよ、この人は賢いし、お金持ちだし、社会的地位も高いし(これらは思考がいい悪いで判断しがちな外的条件です)といわれても、一緒にいて自分が幸せだと感じられなかったら、それがその人にとって、間違いない答えです。感覚は、本来、自分をだまして違う風に感じさせることはできないのです。感覚は、自分の中の叡智と直接つながっているものだからです。

ですから、考えすぎないこと、思考に偏りすぎないことは、とても大切です。もちろん、何も考えないで生きることはできないし、考えなしに感情の赴くまま、衝動的に生きたほうがいいということではありません。ただ、現代人はどちらかというと思考に偏りすぎている人が多く、それで不幸せになっている人が多い印象があります。

ACTでは、ディフュージョン といって、あれこれ考えて、思考の迷路にはまっているとき、思考から抜けだす方法を、いろいろと提案してます。(「フュージョン=融合」は、思考が頭にくっついて一体化している状態。ディフュージョンとは、くっついている思考をはがして、自分から分離させるという意味です。)

例えば、戦場で戦いが起こっている、或いは、サッカー場で、敵と味方が入り乱れて、右往左往して戦っているとします。その中にいたら、巻き込まれてハラハラドキドキし、心が休まらないでしょう。けれども、もし、山の上から戦場を見下ろす、或いは、50m上からサッカー場を見下ろすとします。そうすると、今、自分は、ああでもないこうでもないと、頭の中でグルグル考えていたな、と思考していた頭の状態自体を、 一歩離れて客観的に見ることになります。その状態になったとたん、戦いの場で翻弄されていたときより、もっと楽で、平和な心の状態にシフトします。

現実で起こっている問題自体(=現状)は変わっていなくても、いったん思考を離れるだけで、不安が減り、より穏やかな心の状態でいることが可能になるということです。今すぐ解決できない問題は、解決しようと考えあぐねるより、未解決のまま、こうやっていったん離れたほうが建設的です。

「変えられないことは、変えようとしないで、ありのまま潔くすっぱり受け入れる」というのは、ACTにおいても、弁証法的行動療法(DBT)など、他の心理療法においても重視している、心の健康維持のためのポイントです。

「未解決でも、今日のところはそのままでいい」と、いい意味であきらめると、頭はそれを解決すべき問題と見なして格闘するのをやめるので、心には平和が訪れます。こうすれば、例え今、1000万円の借金があったとしても、今、この瞬間、心安らかに、おいしくお茶を飲むことが可能になります。

生きていると、今すぐ解決できない問題にたくさん出会います。考えて解決すべきか、執着しないで今は手放し、考えるのをやめるときかの識別は重要です。

人の思考の多くは無駄だといわれています。多くの人にとって、思考にとらわれるのをやめ、考えることをもっと減らしたほうが、メリットが大きいように思います。

自分の中を他者で埋めないこと

カウンセリングをしていると、時折、その方自身ではない、別のものが入っていて、支配されてしまっていると感じることがあります。

といっても、別に誰かに乗り移られているという意味ではなく(解離性人格障害で、実際そういう方もいらっしゃいますが、この場合はそうではなく)、他人の考えとか意図とか欲求とか、そういったものがたくさん中にあって、本人自身の意思があまりない印象を受けるということ。

ひどい場合には、あんまりにも多くの人がいて、ごちゃごちゃ雑多なものがひしめき合っていているようにみえる方もいらっしゃいます。そういう方は、とても混乱していて、苦しそうに見えます。

そういう方たちは、何かを聞いたとき、よく、「わからない」と返事をされます。

自分以外のものでいっぱいなので、自分がどう感じるか、何を思うかがわからなくなっているのです。自分の意思がなくなってしまっています。

自分の中が空っぽだと、他のものが入ってきやすくなるので、操作されやすくなるのですが、多くの場合、この状態にある方は、何らかの事情で自分の中を空っぽにして、人の思い通りになることで自分を守ってきたようなところがあると思います。

このあたりは、解離性人格障害(多重人格)の方と同じですね。参考までに、解離性人格障害の女性の大多数は幼少期に性的虐待を受けたというデータがあります。自分の気持ちや思い、ニーズなんかを感じていたら辛くてやってられないような現実があれば、自分を明け渡して空っぽにし、他の人格に支配してもらって、現実に対処してもらったほうが楽なわけです。無力な子供の時には、生き延びるために必要なサバイバルスキルなのです。

今の時代は、インターネットなどを通じて、色々な人の影響を受けやすい時代です。SNSを通じて非常に多くの人と、どちらかというと思考だけのレベルで交わることをしやすいように思います。(昔だったら、実際に対面で合って、互いを肌で感じる交流が主流ですし、交流の数も限られていました)。ゆえに消化不良の交流が過剰で、自分以外の雑音がごちゃごちゃスペースを埋めてしまっている人が多いようです。

自分の中のスペースを埋めて、考える暇をなくするということは、自分の感情と向き合うのを回避するためには効果的な方法です。依存は多くの場合、これが隠れた目的です。それが買い物依存であれ、誰かとの関係への依存であれ、飲酒を含む薬物への依存であれ、食べ物への依存であれ、不快な感情から気をそらすための手段として功を奏しているわけです。

けれども、本当は、自分以外のもので自分を見えなくして、自分とのつながりを断ち切ってしまうことほどしんどいことはありません。一見、楽かもしれないけど、本当は誰にとってもそれは不自然だし、苦しいことなのです。自分にとって何が幸せか、どうしたら幸せになるかを知っているのは、他者ではなく自分自身です。自分とつながっていなければ、自分の人生の舵を取って正しい方向に進むことは不可能です。

実際は、自分自身とつながることは、怖いことではなく、とても安心できて、心地がいいものです。ずっと避けていた感情があれば、自分を感じたときにそれが浮上してきて、一時的に圧倒されるかもしれません。けれどもそれはあくまでも一時的なものです。切り離されていた自分の感情を感じることは、必要な癒しのプロセスです。必ず、過ぎ去って、その後には穏やかで平和な感覚がやってきます。

他者の思いや気持ちに支配されるのではなく、自分自身が何を思い、何を感じているか、ちゃんと感じられ、わかるようになれば、自分の軸がしっかりしてきて、自分という存在が力強く安定してくるようになります。そうなると、色々なことに振り回されやすい不安定な人ではなくなり、好きなように人生を創っていけるようになります。

そういう風に内面が変った方は、ぼんやりした顔ではなく、焦点のあった輝きのある目つき、明るく力強い表情になるので、見ていてわかります。

では、どうやったら自分とつながれるのでしょうか。そのためには、最初は少しの間でもいいから、静かに、自分一人でいる場所と時間を作ること。その時、頭を働かせないで、感じることです。自分の身体がどんな感覚なのか、気持ちはどんな状態なのか。呼吸は浅いのか深いのか。体に力が入っているなら、どの辺に一番力を入れていたか。今、自分の中にある感情は、不安か、苛立ちか、恥か、自分を責める気持ちか、その複数が混ざったものなのか。思考ではなく、感覚に身をゆだねることが大切です。いい、悪いで判断しないで、ただ感じて認めてあげると、それらの感覚は、もし不快なものであれば、だんだん緩やかに穏やかになっていくでしょう。

この辺は、マインドフルネスのスキルですね。詳しく知りたければ、今は本がたくさん出ているので、興味がある方は見てみてください。(個人的には、ティク・ナット・ハンの本がおすすめです。)