盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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幸せの作り方

潜在能力を引き出す言葉

例えば、職場や学校に苦手な人がいるとき、誰かと険悪な関係になりそうなときなど、対人関係で問題が生じたときに使える、自分の潜在能力を引き出す方法があります。

「私は、この状況に、うまく対処することができる。」

とまずは言い切ってしまいます。つまりは、そういう前提を意識の中に作ってしまうこと。

そして、その後、

「その為に私は、~」

と、その為に自分ができることを挙げます。どうすればいいか。または、どうあればいいか。(必ずしも行為でなくても、心の状態でもOK。)

つまるところ、「うまくいく」という前提を作ってしまえば、それを実現可能にするための力が自分の内側から引き出され、表にでてきやすいというわけです。

この時のポイントとして、「その為に相手は」ではなく、「その為に私は」と、あくまでも自分を主語にすること。

究極、相手の言動やありかたはコントロールできないし、する必要もありません。自分の言動やありかたを変えるだけで、少しのタイムラグをとって、状況は形を変えていくものです。

さらなるハイレベルを目指すなら、

「私は、相手と自分、双方にとってベストな方法で、この状況に対処できる」

という前提を作るといいでしょう。

結局、相手をやりこめるのでは、本当の意味では自分がハッピーになることはありません。

自分と関わる人、双方にとって最善な結果(必ずしもうれしい結果ではなくとも、最も善い結果)というのは必ずあるものです。

また、普遍的な法則として、自分と相手、双方にとってフェアで有益になるやり方を目指せば、自分の幸福度が一層増すように、この世界はできています。

 

 

 

 

 

完璧でなくても幸せになれる

白黒思考(全か無か思考)、完璧主義は、不安や焦燥感、失望感、劣等感を生み出すもとになります。

世の中のことがらは、たいてい、白か黒かでは割り切れず、グレーの範疇内にあるものだし、いつも完璧でいることなど不可能です。なので、白か黒かはっきりさせなければ気が済まない、完璧でないと気が済まないという人は、壁にぶち当たったと感じやすく、ストレスをためやすいものです。

完璧でなくても幸せになることは十分可能ですが、完璧主義を追求する人に、満たされて幸せな人はいないでしょう。

いい意味で適当であり、物事に執着しすぎないことは、幸せになるために大切だと思います。

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自己犠牲をすべきかどうかの目安

今回は、自己犠牲的な行為、というと語弊がありますが、自分がしんどい思いをしてでも、人を助ける行為をするべきかどうかについて、ちょっとお話ししたいと思います。

例えば、いつも電話をかけてきて愚痴をいう友達の話を、聞いてあげるべきかどうか。なにかと呼びつけて用事を頼む母親のところで、行くべきかどうか。

その目安になるのは、「それが自分の喜びになるかどうか」に尽きると思います。

もし、しんどくても、最終的に、やってよかった、という喜びになるのであれば、それは「愛」から行った行為なので、自分のエネルギーは増えます。だから、自分の為でもある。本当は自分を犠牲にする行為ではなくて、自分と相手、両方の為になる、win-winの行いなのです。

でも、もし、それをするのが嫌だけれど、我慢してするのだとすると、それは、自分のエネルギーを消耗する行為になります。認識する、しないにかかわらず、潜在意識では、自分のエネルギーを奪った相手への怒りや不満といった否定的な感情が育つので、目に見えないレベルで相手を傷つけることにもなります。なので、一時的には相手が喜ぶとしても、最終的には、自分と相手、どちらにとってもマイナスな行為になります。

それが自分の心からの喜びにならないなら、愚痴を聞かない・相手の依頼を断る、という選択をするほうが、究極的には自分と相手、双方のためにもなります。愚痴や頼みをきいてもらえない相手は、自分の欲求を満たしてくれる別のリソースを探すか、自分で解決するか、することになるでしょう。それは、相手が、あなたに頼らず、別の資源を開拓したり、自分で問題解決するスキルを身に着けたりするよう、促すきっかけになるからです。

心からできないことは、しない。これは、自分と周囲の人の幸せを創造するために、役立つ行動基準だと思います。

 

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学力より人間力

現代の日本の社会的風潮では、学力があって、学歴が高い人がもてはやされる傾向があります。

でも、それってどうなんだろう、と私はいつも思います。

なぜなら、実際に社会に出て成功している人は、学歴や知力が高い人ではなくて、人間力が高い人だからです。主に学校教育に組み込まれた勉強ができるかどうかで計られる、インテリジェンス(知的能力)の高さとは関係ありません。

人間力、つまり、協調性、共感力、感情のコントロール力、判断力、社交性等の、自分をコントロールし人とうまく関わっていく力のことを、アメリカでは、近年、「エモーショナルインテリジェンス」といい、単なる知的能力よりも重視する見方が強まっています。

実際に多くの人と接してみて、学力が高いが人間力が未開発な人ほど、葛藤を抱えやすく、ネガティブになりやすいのではないかと思います。なまじ、勉強ができるがゆえにプライドがあり、現代社会が奨励する競争や履歴主義の風潮に翻弄されやすい。その結果、劣等感表裏一体の優越感を抱いてしまうと、それが心の妨げになってしまう。そういう人は、ささいなことで挫折しやすいので、仕事も長続きしなかったり、悪くすると引きこもりになってしまったりすることがあります。

逆に、学力がなくても、素直で、変なプライドがなく、人に寛容で、自分を律することができる人は、周囲の人に引き立てられやすいので、仕事もうまくいきやすいものです。感じがよく思いやりがある人は当然人にも愛されるので、愛情のある交流も起こりやすく、内面的にも充実するものです。

それなのに、一流大学出身ばかりもてはやす今の風潮って、本当にズレているなあ、としみじみ思います。

学校教育でも、知的学力ばかり追い求めないで、どうやって自分の心をコントロールするかとか、人とうまく関わるか、花とか小動物などの小さくて弱いものを大切にすること、困っている人を助けることなどに重点を置いた学びを取り入れたほうが、社会全体が幸せになるんじゃないかな、と思います。

 

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自分を好きになる秘訣

失敗がなく、なんでもできて、スタイルもよく、見目麗しく、頭も抜群dね、お金持ちになれば、自分に満足して自分を好きになれるのでしょうか。決してそうではありません。

もし一時的にそうなったとしても、自己価値感が低い人は、また別の欠点を探して自分が嫌になるでしょう。

自分を好きになる秘訣は、完全無欠になるのではなく、不完全な自分を受け入れることです。

母親が子供を愛するのは、子供が完璧だからではなく、汚したり、物を壊したり、散らかしたり、駄々をこねたりする子供を、その不完全性を含めて、ありのまま愛するからです。それが無条件の愛というものです。

無条件の愛を、自分に対して向けること。

そうすれば、他者に対しても優しくなれるので、愛が広がり、結果としてこの世界はよりよい場所になっていくでしょう。

 

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なりたい自分になる

よく、自分のことを批判し続ける人がいます。

自分はダメ人間だ、なにもできない、魅力がない、役に立たない、うんぬん。

ひどいときには、何か月も、何年も、そう言い続ける人がいます。

そういう人を見るとき思うのは、

「自分でそういうなら、そうでしょう。」

ということ。

自分にレッテルを貼り、そうだと強く信じると、それはその人の生きる現実において、真実になります。

例えば、同じ条件の2人がいるとします。2人とも同じ年齢でアルバイトをしているとします。

一人は、自分はこの歳になって正社員にもなれず、アルバイトの身で、ダメな人間だと思う。

もう一人は、今のアルバイトをずっとやりたくはない、いつかはもっと安定した仕事につきたいと思ってはいるが、それが理由で自分をダメだとはみなしてはいない。

前者の人は、自分自身が、自分をダメ人間にしてしまっているのです。

現実というのは、結局、その人の意識が作り出すものなので、自分がそう思い続ける限り、誰が何と言おうと、その人はダメ人間です。(そういう人は、そんなことないでしょう、あなたはこれもできるし、これもできる、だからダメではない、と言っても、たいてい、頑なに耳に入れようとはしません。その反面、自分で自分を認めることができない分、穴埋めしようとして、人の承認を強く欲する傾向があります。)

後者の人は、同じ立場であっても、自分をダメだと思っていないので、自己卑下していない分、現実はそれほど苦しくないでしょう。現状に満足していなければ、自己批判することなく、ただ変わればいいわけですし、今すぐに変化を起こせないのなら、とりあえず、今の現状を受け入れればいい。そうすればそこに不必要な苦悩が生じるスペースはありません。

自分がダメ人間になりたいとか、役立たずになりたいとか、魅力のない人間になりたいとかでなければ、自分にそういったレッテルを貼るのをやめることです。

良くも悪くも、人は自分が定義したものになる。

自分の現実を自分で創造しているということを、忘れないでほしいと思います。

 

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依存を手放す

すべての中毒的な依存は、根本的には、愛を似て非なるもので埋めようとする、代替行為なのではないかと思います。

お酒、ギャンブル、麻薬、ホストやキャバクラ、電話占い、恋愛などの人間関係。いろいろありますが、そこに執着する心理には共通点があるなあと、色々な人を見ていて思います。

ただ、そこに執着していればいるほど、確実に本当の愛から遠ざかってしまいます。

執着しているものを手放すと、空虚さと向き合わなければならないから怖いのだと思いますが、実際のところは、手放すことで、新しいものが入ってくるスペースが生まれるんです。逆に言うと、手放さないと、本当に欲しているものは入ってくることができない。

一時的な快楽しか与えてくれず、長い目で見ると自分を毒するものを手放すのは難しいかと思いますが、もう何年も電話占いにはまってしまって、とか、ホストやパチンコでお金を使ってしまって、という人を見ていると、それを続けている限り、幸せな状態ではないし、幸せな状態になりえないことがわかります。

自分の本当の気持ちと向き合うのは、辛いでしょうが、それも一時的なもの。ちゃんと見て感じてあげると、その辛さは長続きはせず、やがては必ず消えていきます。辛い気持ちを、見ないように目をそらしたほうが、その気持ちは水面下で継続するものです。そうなると、やがて鬱や不安、コントロール不能の怒りなどになって、心を病む人が多いです。

自分の心から逃げないで寄り添い、自分を惨めにするものを手放す勇気を持つことは、幸せになるために、とても大切なことだと思います。

 

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正直に生きる

自分を偽って生きると、最終的に精神を病みます。

それで表向きは社会的に成功したとしても、結局のところ、幸せではないでしょう。

なぜなら、自分の心に不誠実であるという葛藤のために、怒りや恥などの負の感情が、知らないうちにたまってしまい、何かが違うという思いにつきまとわれ、満たされることがないからです。

自分の心に正直に生きるということは、外的な成功を凌駕する、内面的な成功をもたらすでしょう。

 

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静かな時間を持つ

思考が静まり無になるための、静かな時間を持つことは、どんな人にとってもとても重要です。

なぜなら、今の自分に必要なものは、心が静かな時にのみ、わかるものだからです。

そして、自分にとって必要なものがわからなければ、人生の道に迷って、間違った方向に行くことは必然だからです。

自分の本当のニーズというのは、頭でせっせと考えてわかるものではありません。

心で感じられるものです。

頭で考えだすことは、知性のレベルであり、は顕在意識の領域です。

心で感じることは、直観のレベルであり、潜在意識の領域です。潜在意識は神域につながっています。人智を超えた領域ですね。なので、間違いがないのです。

ただ、人間レベルの頭脳でせっせと忙しく思考していると、心で感じて神域につながることができないんですね。なので、思考をやめて、頭を空っぽにし、ハートで感じるという時間を持つことは、正しい導きを得るために、絶対必要なわけです。

絶え間ない思考は不安を生み出します。

不安は心を曇らせ、判断力を鈍らせ、精神力を消耗します。

どんな悩みも、いったん横に置いて、なにも考えない時間、心を自由にする時間を1日のうち何度か持つようにする。これだけで、ずいぶん楽になり、かつ、人生が好転していく可能性は高くなると思います。

 

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存在価値について

よく、「自分なんか役に立たない、何もできない、だから存在してはいけないんじゃないか」という人がいます。

こういう人は、自己肯定感が低く、他者に肯定してもらうことで自己価値を埋めようとするため、承認欲求がとても強いことが多いようです。

承認欲求が強い人は、「どうか、ください」と、すがりつくような雰囲気を発するので、かえって人に距離を置かれてしまうことが多いです。だって、「くれ、くれ」とせがまれたら、かえってあげたくなくなることはないですか?「ほしい」と追い回されたら、逃げたくならないですか?

なにをほしいかというと、「人の承認=肯定的な念=愛」なわけです。結局、自己愛がない人は、人からもらおうとして、人に依存してしまうんですね。でも、自分から喜んで与えるのではなく、せがまれて与えるという行為は、エネルギーを消耗して疲れてしまうので、人はこれを無意識に嫌がるわけです。自発的に与える愛は、与えるほうもエネルギーで満たしてくれるので、消耗にはならないんですね。

話を戻しますが、「自分なんか役に立たない。」という人にいいたいのは、役に立たなくてもいい、ということ。役に立つ、立たないという視点を、まず外してください。役に立つ人が価値があって、役に立たない人は価値がないというのはまず真実ではありませんから。そもそも、誰でも時と場合によって、役に立ったり立たなかったりするものです。常にどんな状況でも役に立つ人なんていません。役に立とうが立たなかろうが、生まれてきた以上、誰でも存在していいし、存在価値はあるのです。

「役に立つ」というのを目標に見据えてなにかすると、結局、先に述べた、「人に認めてもらいたい」という承認欲求から物事を行うことになります。それより、ただ、自分がしたいからする、という、自然な喜びの為にするほうが、無理がないと思います。それは、見返りを期待しないで、ただ為すということにつながります。

そして、「何もできないから存在してはいけない」という考えですが、これもシンプルに真実ではありえません。何もできない人なんてそもそもいませんから。誰でも、何かはできるし、できないものもある。究極、例え寝たきりでも、存在している以上、この世界に何らかの意味をもたらすことはできるものです。何かができるから存在価値がある、できなければ存在価値はない、という考えも、やはり手放したほうがいいと思います。それだと、存在価値を証明するために、せっせと業績を上げないといけないことになります。そういう人は常に不安に駆られて何かをし続けるが、決して満足しない人になりがちです。

存在価値は、何をしようがしまいが、何かの役に立とうが立たなかろうが、存在するすべてのものに最初から備わっているものです。存在価値を信じている人は、そもそも、自分に存在価値があるとかないとか、問題にしません。そんなことにとらわれずに、自分の心に従って、自由に生きるのがいいと私は思います。

 

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