盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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今年もお世話になりました。

2023年もあとわずかですね。

今年も1年、大変お世話になりました。

年末年始はお休みさせていただきます。

お電話やメール、お問い合わせフォームからいただいたご連絡は、4日以降のお返事になりますので、ご了承ください。

また、2024年のセッションの空きは、今のところ、6日(土)以降となってております。よろしくお願いいたします。

それでは、皆さま、どうぞ、よいお年をお迎えください。

人生のような曲

ブラームスの間奏曲、Op.118-2。

この曲を聴くと、大学院を出て、カウンセラーという職業に初めてつくために、ミネソタ州からニューメキシコ州を目指して、車を走らせていた時のことを思い出します。

距離にして2000キロ以上を、3日ほどかけてドライブし、4つの州を越えて、ようやく、これから住むニューメキシコ州が見えてきたとき、これから始まる仕事で、どうか大勢の人の役に立てますように、一人でも多くの人の苦しみを救うことができますようにと、祈りを込めながら、大好きなブラームスのこの曲を聴いて、決意を新たにしていました。

人生の苦しみを美しく昇華させたようなこの曲は、深い癒しと慰めをもたらすように感じます。

ブラームスは、あまり多くの人に語らなかったようですが、よく、霊感に打たれて曲を作っていたそうで、この曲もその一つなんだろうと思います。大いなる力の働きが、辛い思いをしている人たちの助けとなるよう、ブラームスを通じて、顕現している曲。ベートーヴェンもそうですが、多くの天才は、一種の依り代のようなところがあるなと思います。

カウンセラーになった理由

たまに、「先生は、どうしてカウンセラーになったんですか」と聞かれることがあります。

私にとって、心に痛みを抱えている人たちと関わり、苦しみを喜び変えるお手伝いをすることは、それ以外の職業はあり得ないライフワークであり、ごく自然に導かれたことでした。

思えば、今まで生きてきた道のところどころに、そうなるような導きがあって、どうあってもこの仕事に到達するように、人生が仕組まれていたと思います。

私が、人生というものが、そもそも、辛く苦しいものであるということを知ったのは、子供の頃でした。そして、今、考えると、これは幸いだったと思うのですが、子供心に壮絶な心の苦しみを抱えている自分を理解し、助けてくれる大人は、周囲に誰もおらず、世界に一人ぼっちのような孤独感をたくさん味わいました。

それにより、私は、誰にも頼ることなく、自分で工夫をして、自分の心をなんとかして救うということを強いられ、何年もかかって、それができるようになっていきました。

自分以外に自分を救える人はいない、そしてそれができるようになるのは、最強であるということを、身をもって知ることができたこと、また、自分の苦しい体験によって、人の苦しみが手に取るようにわかる、共感力を身に着けることができたことは、恩恵に他なりませんでした。

だから、私は自分の生い立ちを振り返って、不幸だったとは思っていません。すでに過去の苦しみを浄化しているので、特に辛い感情がよみがえることはなく、ただ、大変有意義だった、必然の体験だったと思うだけです。

辛いことがたくさんある=不幸とは限りません。どんな体験も、裏を返せばギフト(=贈り物)なのです。

学校時代は文系、特に英語が得意だったので(理数系は全然ダメでしたが)、英語に力を入れている大学に進学して、アメリカ文化を専攻し、アメリカインディアンの文化や悲惨な侵略の歴史に興味を持ちました。

日本の大学を卒業後は、就職する道を選ばず、アルバイトをして貯めたお金を元に語学留学し、そのうち機会に恵まれてアメリカの大学に編入して、社会学と文化人類学を専攻。特に、社会の底辺で生きる人たちの苦しみ、社会の不平等さに強い関心を抱きました。

アメリカの大学を卒業後はいったん日本で働いた後、メキシコのユカタン州でマヤ族の人たちの間で暮らし、またアメリカに戻って、ご縁あってインディアンの居留地に住みました。

そこでは、文化をめちゃくちゃに破壊されて心を壊された先住民たちの悲惨な現状を目の当たりにしました。親は子供をネグレクトし、子供は小学高学年から麻薬やアルコール依存になり、子供を含めた住人の確か7割がアルコール依存。子供は十代になるかならないか犯罪を犯すようになる。事故(飲酒運転、冬に酔っぱらって道で凍死もよくある)、殺人(喧嘩、酔っぱらったインディアンが白人に殺されることもよくある)、自殺、麻薬やアルコールの乱用などにより、平均寿命は50代。これが、アメリカ先住民の実態でした。オーストラリアのアボリジニーや、カナダのエスキモーなどの先住民も、同様だと聞いています。

カウンセラーになりたいという思いは、それまでにも往々にして頭に浮かんだことがあったのですが、本当になろうと強く決心したのは、アメリカインディアンの人たちの間で暮らし、その悲惨で、希望のない生活を、肌で知ったからでした。この人たちの中で暮らすことは、自分も引きずり落されて鬱になりそうになる。だけど、どうせここにいるなら、自分はそうならずに、自分にできる 最善のことをしよう。この人たちを助けるために、大学院にいって、勉強をして、カウンセラーになるしかない。そう思ったのでした。

そうはいっても、最初のうちは、大学院に合格するだろうか、お金は続くだろうか、大学院の勉強についていけるだろうか、文化が違うのに、アメリカ人をカウンセリングしてやっていけるだろうか等、いろいろな不安や自信のなさがありました。

けれども、決めた道を進むうち、不思議なことに、すべての問題はクリアされ、やってみたら心配することはなかった、ということが次々起こり、気がついたら今に至っています。

大学院の勉強は、とても大変でしたが(何しろものすごい量の課題)、自分が興味がある分野なので、中学や高校や、大学での勉強さえも比較にならないくらい面白くて、スポンジのように脳が吸収して、身に着けることができたように思います。

大学院卒業後は、インターンを経て、アメリカのコミュニティのカウンセリング機関に就職し、日々、壮絶なケースのカウンセリングに追われました。

麻薬、アルコール、性的・精神的・身体的虐待・近親相姦は、日常茶飯事。自殺や殺人も珍しくない町で、何重ものトラウマで精神を病んでいる人たちが訪れ、私たちカウンセラーのスケジュールは毎日いっぱいでした。それでも、クライアントさんたちと関わることは喜びで(なぜなら、ほとんど例外なく、誰もが心の奥底はピュアで、光の性質を持っていましたから)、特に、何十年も苦しんできた人たちの苦しみが癒されたときは、何物にも代えがたい喜びをもたらしてくれました。

諸事情で、そんなアメリカ生活を切り上げて、帰国することになったのが、2011年、震災の年。日本語でカウンセリングやったことないけど、アメリカの資格で、日本で、職業としてカウンセリングをやっていけるだろうか、と不安に思ったのもつかの間。今でも、大好きなこの仕事を続けていけているのは、とてもありがたく、幸せなことだと思っています。

これからも、体が動く限り、私にとって、自己実現の最たる形である、この仕事を続け、自分ができる範囲内ではありますが、世界がよくなるお手伝いを続けていけたらと願っています。

人とつながることで得られるもの

人とのつながりが希薄だと、エネルギー不足になる可能性があります。

私たちは、人と交流することにより、自分と相手との間にエネルギー交換を行います。

否定的な関りは、ストレスや痛みをもたらして、エネルギーの低下を生み出しますが、愛ある温かい交流は喜びや幸福感をもたらし、エネルギーを活性化して輝かせ、生き生きさせます。

私たちは、人と関わることで、エネルギーを奪ったり奪われたり、お互いに与えあって、高めあったりもします。

誰かと一緒に過ごした後、気分が低下し、疲れを感じたときは、相手にエネルギーを奪われた、もしくはこちらがエネルギーを与えすぎたということです。

一緒に過ごした後、気分がよくなったり、元気になったと感じる場合は、相手からエネルギーをもらったということでしょう。その際、相手も同様に気分がよくなり、元気になったと感じるなら、お互いに与えあって、高めあったということ。

過去の傷つき体験から、周りはみんな敵だとみなして心を閉ざしたり、壁を作ることで自己防衛モードになったりすると、他者との交流によるエネルギーの供給が少なくなり、エネルギー不足から、抑うつ感や、イライラを感じやすくなることがよくあります。

人と関わることは生きていると避けられず、必須な要素です。そして、本当は、誰かを元気づけて幸せにしたり、自分を元気で幸せにする、とても素晴らしいことでありうるのです。

関りを避けるよりは、試行錯誤しながらでも、否定的な関りを減らし、肯定的な関りを心がける術を磨いていくことが大切だと思います。


感情が有害物質化するとき

感情は、いわば神経回路を走る電気信号であり、必要なものです。

脳は感情の信号をキャッチして体に指令を出します。例えば、恐怖を感じたら、体の筋肉を収縮させ、心拍数を上げ、呼吸を止めて、戦うか逃げるか、いずれにせよ、早く動けるように準備をします。(戦うか逃げるか以外に、フリーズするという第三の反応もありますが、ここでは便宜上省きます。)

感情の生み出すエネルギーは、行動への駆り立てにもなります。例えば、恐怖と同様、怒りも、自分を傷つけるものから身を守るための行動を促し、不当な扱いを受けたとき、立ち上がってノーというためのエネルギ―源になります。

感情のもう一つの役割は、意思伝達です。感情が巡ると表情にそれが現れ、言葉より早く、相手に思いを伝達します。相手がどう思っているか、 表情筋やしぐさが、無意識のうちに、 言葉よりも正確に伝えます。

日々の出来事や、頭の中で考えたことの結果の反応として、感情が沸き上がるのは自然なことであり、体にエネルギーを巡らせることになります。

感情を感じないように抑圧したり、感情の信号を必要以上の向精神薬などで遮断すると、流れが澱んで停滞し、濁った状態になり、感覚としては、鈍い、無気力な感じがするようになります。

感情を巡らせることは、生き生きと精力的に生きるためには必須なのです。

感情そのものは、このように、人にとって必要不可欠であり、有益になりうるものです。感情に いい、悪いはありません。 怒りや恥、恐れ、自責の念など、不快な感情であっても意味があって起こるもの、私たちに何かを教えてくれる大切なサインです。

ただし、感情が有害物質と化して、心身をむしばむことがあります。

それは、感情が長く留められたときです。

怒りや恥、恐れ、自責の念などの、いわゆる「ネガティブな感情」(本当は感情にネガティブもポジティブもないのですが)は、早めに手放すことができれば、有害物質にはならないのですが、ずっととどめていると、心が病むことはもちろん、体にも影響が出てきます。

以前、アメリカでカウンセラーとして働いていた時、強烈なトラウマを何十年も抱えて生きてきた人が、毎日のようにオフィスを訪れてきたのですが、こういう人たちは、若くてもあちこちに痛みがあったり、病気になったりする人が非常に多かったのが印象的でした。

その中に、子供のころに性的虐待を受けた30代の男性がいました。この人は、痛みのあまりにそれを誰にも言えず、ずっとアルコールで痛みを抑え込んで生きてきたのですが、その代償として、非常に怒りっぽい性格になっていました。些細なことで激情に駆られ、しょっちゅう喧嘩していたので、対人関係でも問題がつきず、警察のお世話になることもたびたびでした。彼はとても体格がよく、強そうな肉体の持ち主でしたが、見かけに反して体のあちこちに痛みが出ていて、スーパーで買い物をするときも、電動車椅子を借りて移動していました(アメリカには貸し出し用の車椅子があるのが普通でした)。この人が、幼少期の性的虐待のいきさつを私に初めて打ち明けたとき、何十年にもわたってせき止めていた感情が、一気にあふれ出し、号泣して、いつまでも泣き止まなかったのを、今でも覚えています。感情が突破口を見出し、解放されたことで、この人の気持ちはその後少し楽になり、穏やかになりはしましたが、何十年も抑圧され、とどめられた感情は、原初に形成されたより何倍も厄介なものになり、癒すのも困難になるので、その後もなかなか一筋縄ではいきませんでした。

この男性に限らず、長年留められた感情が、細胞レベルで体をむしばんでいると思われるケースは、たくさんありました。

ここまで深刻なケースでなく、日常で嫌な思いをしたときであっても、感情のサインを認め、受け取ったら、できれば早めに切り替えることをお勧めします。

感情は、認めて感じきったら、役割を終えて自然に消えていきます。なので、感じてあげることは大事なのですが、思考による解釈で感情を強めてしまう場合があり、その点は要注意です。

誰かと関わって、嫌な気持ちになったとき、その気持ちだけ、理屈抜きで感じてあげれば早く終わり、切り替えもそんなに時間がかからずにできるのですが、

「どうしてこんなことになったんだろう」

「あの人が悪い。あの人のせいでこうなった」

「私が悪いからこうなった」

「私はなんてついていないんだろう。みんなは幸せそうなのに。きっと不幸の星のもとに生まれてきたんだ」

等、思考を使って分析や解釈、いい悪いの判断をしたりすると、もともとの感情を強化して、自分の中に根付かせてしまいます。根付いた感情は時間がたつほどに有害化します。

時々、「あいつのせいで不幸になった」「あの出来事さえなかったら」あるいは「またこうなったらどうしよう」「きっとこうなるにちがいない」と、起こった出来事を取り出しては、 延々考え続けてエネルギーを与えることで、何十年も恨みや恐れを持続させている人がいます。

思考による反復は、何度も往復して強く轍を刻み込むようなもので、自分の中に刻印を作ってしまいます。それによって害をこうむるのは自分自身にほかなりません。

なので、そうならないよう、「つらかったな」「悲しかったな」「腹が立ったな」と自分の感情を優しく認め、受け止めてあげたら、あとは頭で考えて変に定着させないこと。自分や誰かの悪口を頭の中で言っているのに気づいたら、意識的にもっと快いものを見たり、聞いたり、考えたりして、切り替えることが大切ですね。

ちなみに、普段から、美しいものを見る癖をつけると、潜在意識の中のストックが増えて、切り替えが早くなるのでお勧めですよ。

マウントを取ってくる人がいるとき

マウントを取ってくる人がいて、嫌だと感じる時、知っていてほしいことがあります。

マウントを取ってくる人が気になるということは、自分の心の奥にもマウントを取りたいという気持ちがあるということ。

もしそうでなければ、マウントを取られることに、不快感を覚えないはずです。

例えば、

「私は大卒だからね。」

と言われて、高卒の人が、

「嫌味な人だな。高卒より上だっていいたいんだろ。」

と思ったとしますね。

その人が、高卒より大卒のほうがいい、学歴が高いほうがいいという価値観があり、相手と勝ち負けを競う気持ちがあって初めて、悔しい、腹立たしいという感情が生まれます。

もし、高卒でも大卒でも、人としてどちらが上も下もないし、相手と競争して勝ちたいという気持ちがそもそもないという場合、相手の言葉に不快感を覚えないはず。もっとニュートラルな気持で、「へえ。そうなんですね。」とスルーできるはずです。

マウントを取られて嫌だという気持ちの裏には、劣等感を感じさせられて腹立たしいという気持ちがあるはずですし、劣等感の裏には、相手より上に行きたい、優越感を感じたいという気持ちがあるはずです。

もう何十年も前に見たものですが、今でも忘れられずに記憶に残っている、テレビのドッキリのシーンがあります。

その方は、ごく普通のサラリーマン風の、50代くらいの男性で、飲み屋さんで一人で飲んでおられました。

そこに、仕掛け人が現れ、その方のテーブルの前にいきなり座るなやいなや、勝手にその人のお酒を、自分のおちょこについで、飲み始めました。

普通は、そんなことをされたら、誰でも腹がたつのではないでしょうか。

けれども、その男性は、一瞬驚いた顔をしたものの、何も言わず、すぐに自分の徳利を手に取り、仕掛け人のおちょこに、もっとお酒を注いであげたのでした。

それは感動の光景で、モニターを見ていたタレントさんたちも、みんな驚き、感心し、温かく、心洗われるような、しんみりした雰囲気があたりを包んだのでした。

このドッキリを仕掛けられた男性は、「自分が、自分が」というエゴが少ない、とても清らかな心の持ち主だったのでしょう。

相手と自分の隔たりがなく、競い合う気持ちもない。怒らせてやろうという意図に対して、穏やかで優しい気持ちが返ってくると、ぶつかり合いは生まれることがなく、ストレスが生じる余地もありません。

もし、相手がマウントを取ろうとしても、「ああ、あなたは私より先に行きたいのですね。かまいませんよ。お先にどうぞ。」という気持ちで応じるなら、相手に腹が立ったり、それが悩みになるということはないはずなのです。

マウントを取られて悔しい思いが多いなら、自分の奥に潜んでいる、相手と同質の気持ち、優越感を得たいという思いに気づいてあげください。そして、「戦って、勝って、証明しなくても大丈夫だよ。負けても存在価値は減ったりしないよ。」と自分に優しく声をかけてあげてみてはどうでしょうか。

「秘密の花園」に学ぶ、魔法の使い方

「秘密の花園」(バーネット作 「山内玲子」岩波少年文庫)という本があります。子供向けのお話ですが、大人にとっても、幸せに生きるための大切な真実を説いている内容だと思うので、今回はこのお話を、少しご紹介したいと思います。

簡単にいうと、こんなストーリーです。

インドで育った、お金持ちだけどわがままで、いつも不機嫌な、心身ともに不健康な女の子、メアリは、孤児になり、母国イギリスのお金持ちの叔父さんのお屋敷に引き取られました。イギリスの自然や、貧しいけれど健全な召使のマーサ、その弟のディコンとの触れ合いを通して、メアリはだんだん変わっていきます。

メアリを引き取った叔父さんは、強い心の痛みゆえに長年心を閉ざしている偏屈ものでした。この叔父さんにはコリンという一人息子がいるのですが、物質的な豊かさをあてがうばかりで、息子を世間の目から隠し、部屋に閉じ込めたきり、会おうとしません。当然ながら、このコリンも、心身ともに病んでいきます。

メアリは、いとこであるコリンと、ふとしたことから出会い、心を通わせるようになります。

メアリとコリンは、どちらも身勝手で、人を見下すような態度の、不愉快な子供だったのですが、それは優しさを知らない孤独な境遇ゆえであり、気高く、賢明で、心優しいディコンと、その母親である、聖母のようなスーザン、すべての人を癒し、健全にせずにはいられない自然を通して、180度変わっていきます。

そして、最後に、コリンは、父親の、暗闇に閉じ込められていた心を開き、光を入れて、祝福を与える存在となるというお話です。

コリンが心身を病んでいったのは、父親に「この子は自分のようにせむしになる。長く生きられない。」と信じられ、召使たちが自分についてそう話すのを聞いて育ち、自分で強くそう信じるようになったからでした。コリンは人目を避けて、寝て暮らすようになり、不安にさいなまれ、みじめで癇癪もちの男の子になってしまいます。本当はどこにも悪いところがないのに、体が弱くなり、歩けなくなって、心身ともに病んでいってしまったのです。

そんなある日、コリンはメアリに、はっきりと「あなたはせむしじゃない」と否定され、自己憐憫をやめるように言われます。それ以降、コリンはだんだんと変わっていきます。

物語の終盤に、コリンが、どうやって健康な心と体を自分で再生していったか、描かれている部分があるので、ここに抜粋し、引用します。

❝「メアリがこの庭を見つけたとき、庭はほとんど死んだように見えました。」コリンは演説を続けました。「ところが、なにかが土のなかからいろいろなものを押し出して、無から、ものを作り出したのです。(中略)名前がわからないので、それを魔法と呼びます。(中略)庭に出るようになってから、ときどき木々のあいだを通して、空を見上げしたが、ふしぎな幸せな気分になりました。なにかがぼくの胸のなかで押し上げたり引っ張ったりして、呼吸を早めているような感じでした。魔法はいつも押したり引いたりして、無から何かをつくりだします。すべてのものは魔法からつくられます。(中略)この庭の魔法はぼくを立たせてくれ、ぼくが大人になるまで生きられることを教えてくれました。」❞

❝「これから、その魔法を少し手に入れて、ぼくのなかに取り入れ、ぼくを押したり引いたりして強くさせるという実験をしてみようと思います。(中略)ぼくが初めて立とうとしたとき、メアリはできるかぎりの早口で『がんばって!がんばって!』と唱えました。そしてぼくは立つことができたのです。もちろん同時にぼくも努力しなければならなかったけど、メアリの魔法が助けてくれました―それからディコンの魔法もです。毎朝、毎晩、それから昼間も覚えている限り、ぼくは『魔法がぼくのなかにある!魔法がぼくを癒してくれる!ぼくはディコンのように強くなる、ディコンのように強くなる!』とくりかえし唱えることにします。」❞

こうして、メアリたちに会うまでは歩くことさえできなかったコリンは、メアリやディコンの応援を力にし、自分の中に強い意図を持つことで、自分の心や体を癒し、強化していきます。

「自分はこうなる」という意図は、良くも悪くも、自分自身や、自分を取り巻く現実を創造していきます。ほかの人たちの意図が、自分の意図に共鳴すると、さらにそれを強める働きがあります。スポーツの選手が試合しているときに、応援の声が力になるといっているのは、文字通り、そうなっているのです。

コリンは、はじめは、悪い方向に魔法を使っていました。周囲の刷り込みを受けて、自分は長く生きられないと、何百回、何千回と、意図してしまい、実際に体が弱っていきました。意図は反復することで強化され、パワーを増幅するものです。

自然の法則である、創造の魔法の力に気づいたコリンは、いい方向にその魔法を使うよう、「実験」を行いました。これによって、コリンは見違えるように健康になり、強く、幸せな少年になりました。

一人の人の状態は、接触を持つ周りの人にも影響を及ぼすので、コリンの変化は病んだ父親にも幸せな変化をもたらすに至りました。

アファメーションが潜在意識に影響を及ぼし、現実を変えていくという、創造性の魔法を、とてもよく表しているお話だと思うので、興味がある方は、「秘密の花園」を一度読んでみてはいかがでしょうか。

セルフコンパッション:自分に優しくする方法

セルフコンパッションという心理的な方法があります。

直訳すると、「自分に慈愛を向ける」。

自分のことを好きになれず、したがって大切に扱うことが難しく、毎日を生きづらく、困難なものにしている方が時々いらっしゃいます。自分に優しくする=甘やかす、または、利己的な行為だと勘違いしている方もいらっしゃいますね。

本当は正反対です。慈愛を向ける、優しくする対象に、自分を含めないと、ほかの人に対しても、慈愛を向けたり、優しくすることは不可能なのです。自分が苦しいのに無理をして人に尽くしたら、いずれ相手に我慢が伝わって、相手も苦しくなるでしょう。自分が穏やかで明るい気分でいたら、人に親切にするのは容易ですし、たとえ何もしなくても、ただいるだけで周囲にいる人も心地がよい気分になります。

ちなみに、私たちの左脳は、自分と他人を区別しますが、右脳は自他を区別をしません。左脳が麻痺して、右脳だけの感覚を経験した、脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士によると、右脳マインドにおいては、自他の境界線がありません。存在するすべてはつながって影響しあい、世界を一緒に創造しているという認識になり、自分と世界が一体化するように感じられるそうです(「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 新潮文庫)。そう考えると、自分に向けた辛辣な行為が、自分と関わりのある周りの人、ひいてはこの世界にネガティブな影響を及ぼし、自分に向けた優しさは、周囲にもいい影響を及ぼし、世界を優しく変えるための、小さくとも確実な一助になるということが、イメージしやすいのではないでしょうか。

さて、今回は、簡単だけどパワフルなセルフコンパッションの方法を、一つご紹介します。アメリカの精神科医、Jonah Paquette博士の、Putting Positive Psychology into Practiceというセミナーで習った方法です。

まず、今、ストレスに感じているものを、一つ、思い起こしてください。ストレスな状況を頭に思い描いて、どんな感覚がするか、感じてください。それができたら、自分に向けて、こう言ってください。

1.今は、苦しいときだ。

2.苦しみは、人生の一部だ。

3.どうか私が自分に優しくできますように。

この後、先ほど覚えた、自分の苦しみの感覚が、どう変化するか、感じてみてください。

この方法では、まず、自分が苦しいということを、見ないふりをしたりしないで、直視し、受け入れるということをします。感情は、否定したり変えたりするより、認めて受け入れることで、消えていくようにできているからです。

次に、苦しみは自分だけではない、すべての人が人生で味わうものであり、人類に共通のものだという認識を起こします。「つらいのは自分だけ」「ほかの人はみんな幸せそうなのに、なんで自分がこんな目に」という見方をすると、苦しみは強まりますが、自分だけじゃない、みんな仲間だ、という思いは、苦しみを和らげます。

最後に、つらい思いをしている自分に、自分が優しくできますように、という慈愛の祈りを向けます。つらいとき、誰かが親身になって、心から優しい言葉をかけてくれたとき、つらい気持ちが和らぐ経験をした人は多いと思います。このように、慈悲の心には、痛みを和らげる働きがあります。目には見えなくても、思いにはパワーあるということです。

セルフコンパッションの手法はほかにもあるので、機会があったら、またご紹介できればと思います。

現実を創造するもの

年収1000万あって、庭付きの家も車もあって、結婚していて子供ががいても、寂しくて、満たされず、不幸な人もいます。逆に、年収はその半分以下で、車もないし、家は賃貸で、一人暮らしであっても、周りの人に愛され、楽しんで暮らしている人もいます。

なにを持っているかが現実を決めるなら、同じものを持っている人は、みんな同じように幸せ、または不幸なはずですよね。でも現実はそうではありません。たとえ同じアイテムを持っていたとしても、幸せな人もいれば不幸な人もいます。

なぜなら、私たちが生きる現実は、もっぱら、「自分を取り巻く環境に何があるか」「自分の生活にどんな出来事が起こるか」によるのではなく、「自分の周囲にあるものの中で、何を選んで焦点を当て、それをどんなふうに捉えるか」によって成り立っているからです。

例えば、AさんとBさんが外に立っているとします。二人は1mと離れていない場所に立っているので、二人の周囲には、まったく同じものがあります。

Aさんは、ものがあふれているゴミ箱や、たばこの吸い殻や、道路の油のシミや、向こうからやってくる人を見て「汚いなあ、マナーの悪い奴ばっかりだなあ、こっちに歩いてくるあの人は、なんて不景気な顔をしているんだろう。服のセンスも悪いなあ。」と思います。

Bさんは、Aさんが見ているものは目に入らず、代わりに頭上の青空や白い雲を見て、「ああ、いい天気だなあ」、足元に咲いている花を見て、「わあ、きれい。もうすぐ春だなあ」、通りすがりのネコを見て、「なんてかわいらしい。」と思っています。

AさんとBさんは、同じ場所にいながら、二人が生きている現実は、まったく違うものになるのがわかりますね。

Aさんは、取り巻く環境の中で、不快なものを選んでそこに意識を固定し、否定的な解釈をしているので、不愉快な現実を自分の周りに創造して、その中に住む羽目になっています。

Bさんは、心地よいものにフォーカスし、そこに意識を当ててつながり、吸収しているので、Bさんが住む世界は、明るく、優しくて、快適なものになっています。

人はこうやって、無意識に、自分が住む現実を創りだしています。天国と地獄の差は、こうやって生まれます。

否定的なものを選び、否定的な解釈を下す癖は、ある時点で、何らかの事情で身につき、あまりにもしょっちゅう反復してきたために、自分がそうしていると気づかずに自動的に行っている人が多いです。例えば、自尊心をひどく損なわれるような傷つき体験をした場合、それを境に、悲観的な視点を身に着ける人が多いようです。

理由はともかく、まずは自分がそれをやっていることに気づくことがポイントになります。そして、自分を取り巻く多くのアイテムの、どれに焦点をあて、何とつながるか、それをどう視るかは、本当は選択できると知ることが大事です。

人は、自分が意識の焦点を当ててつながったものから影響を受けます。例えば、きれいな花が咲いているのを見て、花に集中すれば、花と自分との間につながりが生じ、花の持つエネルギーがこちらに流れ込んできます。(花の形や色を楽しみ、香りをかぎ、手で花びらや葉っぱに触れるなどし、五感で感じるように心がけると、より集中できますので、多くのエネルギーを受け取ることができます。)

不快なものばかり見て、それに否定的解釈を下していると、その不快なものに対するフォーカスを強め、その対象物からエネルギーを受け取ることになります。結果として、嫌な気分を自ら作り出し、自分を取り巻く現実を創造してしまうことになってしまいます。(本当は、その対象物がもつエネルギーというより、その対象物に自分が投影しているエネルギーというほうが正しいと思いますが、ちょっと複雑になるので、ここでは説明を割愛します。)

今生きている現実がどんより灰色の人でも、現実は与えられたものでも、偶然にできたものでもなく、自分自身が現実の創造主であることを意識することで、現実を変えていくことが可能です。

現実を変える第一歩として、まずは、美しいもの、優しい気持ちにさせてくれるもの、温かい気持ちになるもの、ありがたいもの等、毎日1つでも2つでもいいので探してみましょう。ネガティブな視点が癖になっていると、なかなか見つからないものですが、一生懸命探していると、それが慣れ親しんだ意識のフォーカスのしかたを変える練習になり、何とどうつながるかを変え、異なる現実を創造する訓練になるでしょう。

勇気を作る方法


最初から勇気のある人はあまりいません。 怖いけれど、逃げない選択をしている人が、勇敢な人になります。

なぜなら、勇気は、怖いことから逃げないで、前向きに向かうときに生み出されるパワーが蓄積して、作られていくものだからです。

なので、勇気は、鍛錬して増やしていくことができます。

「よし、怖いけど、向かっていこう」と決心した時に、自分の中に、目に見えないけれど一種のエネルギーが発生するのですが、これが丹田のパワーを増やしていきます。

丹田のパワーが増えると、地に足がつき、ものに動じない人になっていきます。些細なことを気にしない、心も安定した人にもなります。

逆に、大変そうなことがあると、すぐに逃げ出す選択をすると、丹田の力は養われず、自分の力は弱まっていき、不安気質にさらに拍車をかけてしまうことになります。

逃げれば逃げるほど、大変なことに対する恐怖心は増えていき、困難なことに対するパワーは失われて行くでしょう。ストレスによわい人、環境要因に作用されやすい人になってしまいます。

どうしても怖かったら逃げてもいいのですが(弘法大師もそういっているので)、「怖いけれど逃げない」という選択を、できる範囲で増やしていくと、胆力が増強されて、自信がついていきます。

自信とは、「自分を信じる」という意味です。

逃げてばかりいる人を、信じられるかというと、信じられないでしょう。怖くても向かっていく人は、頼もしく、頼りにしたくなるはずです。

自己信頼は、物事に対し、自分がどうあることを選択するか、自分を信じ、尊敬できるような選択をするかどうかによって培われるものです。