盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

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マウントを取ってくる人がいるとき

マウントを取ってくる人がいて、嫌だと感じる時、知っていてほしいことがあります。

マウントを取ってくる人が気になるということは、自分の心の奥にもマウントを取りたいという気持ちがあるということ。

もしそうでなければ、マウントを取られることに、不快感を覚えないはずです。

例えば、

「私は大卒だからね。」

と言われて、高卒の人が、

「嫌味な人だな。高卒より上だっていいたいんだろ。」

と思ったとしますね。

その人が、高卒より大卒のほうがいい、学歴が高いほうがいいという価値観があり、相手と勝ち負けを競う気持ちがあって初めて、悔しい、腹立たしいという感情が生まれます。

もし、高卒でも大卒でも、人としてどちらが上も下もないし、相手と競争して勝ちたいという気持ちがそもそもないという場合、相手の言葉に不快感を覚えないはず。もっとニュートラルな気持で、「へえ。そうなんですね。」とスルーできるはずです。

マウントを取られて嫌だという気持ちの裏には、劣等感を感じさせられて腹立たしいという気持ちがあるはずですし、劣等感の裏には、相手より上に行きたい、優越感を感じたいという気持ちがあるはずです。

もう何十年も前に見たものですが、今でも忘れられずに記憶に残っている、テレビのドッキリのシーンがあります。

その方は、ごく普通のサラリーマン風の、50代くらいの男性で、飲み屋さんで一人で飲んでおられました。

そこに、仕掛け人が現れ、その方のテーブルの前にいきなり座るなやいなや、勝手にその人のお酒を、自分のおちょこについで、飲み始めました。

普通は、そんなことをされたら、誰でも腹がたつのではないでしょうか。

けれども、その男性は、一瞬驚いた顔をしたものの、何も言わず、すぐに自分の徳利を手に取り、仕掛け人のおちょこに、もっとお酒を注いであげたのでした。

それは感動の光景で、モニターを見ていたタレントさんたちも、みんな驚き、感心し、温かく、心洗われるような、しんみりした雰囲気があたりを包んだのでした。

このドッキリを仕掛けられた男性は、「自分が、自分が」というエゴが少ない、とても清らかな心の持ち主だったのでしょう。

相手と自分の隔たりがなく、競い合う気持ちもない。怒らせてやろうという意図に対して、穏やかで優しい気持ちが返ってくると、ぶつかり合いは生まれることがなく、ストレスが生じる余地もありません。

もし、相手がマウントを取ろうとしても、「ああ、あなたは私より先に行きたいのですね。かまいませんよ。お先にどうぞ。」という気持ちで応じるなら、相手に腹が立ったり、それが悩みになるということはないはずなのです。

マウントを取られて悔しい思いが多いなら、自分の奥に潜んでいる、相手と同質の気持ち、優越感を得たいという思いに気づいてあげください。そして、「戦って、勝って、証明しなくても大丈夫だよ。負けても存在価値は減ったりしないよ。」と自分に優しく声をかけてあげてみてはどうでしょうか。

「秘密の花園」に学ぶ、魔法の使い方

「秘密の花園」(バーネット作 「山内玲子」岩波少年文庫)という本があります。子供向けのお話ですが、大人にとっても、幸せに生きるための大切な真実を説いている内容だと思うので、今回はこのお話を、少しご紹介したいと思います。

簡単にいうと、こんなストーリーです。

インドで育った、お金持ちだけどわがままで、いつも不機嫌な、心身ともに不健康な女の子、メアリは、孤児になり、母国イギリスのお金持ちの叔父さんのお屋敷に引き取られました。イギリスの自然や、貧しいけれど健全な召使のマーサ、その弟のディコンとの触れ合いを通して、メアリはだんだん変わっていきます。

メアリを引き取った叔父さんは、強い心の痛みゆえに長年心を閉ざしている偏屈ものでした。この叔父さんにはコリンという一人息子がいるのですが、物質的な豊かさをあてがうばかりで、息子を世間の目から隠し、部屋に閉じ込めたきり、会おうとしません。当然ながら、このコリンも、心身ともに病んでいきます。

メアリは、いとこであるコリンと、ふとしたことから出会い、心を通わせるようになります。

メアリとコリンは、どちらも身勝手で、人を見下すような態度の、不愉快な子供だったのですが、それは優しさを知らない孤独な境遇ゆえであり、気高く、賢明で、心優しいディコンと、その母親である、聖母のようなスーザン、すべての人を癒し、健全にせずにはいられない自然を通して、180度変わっていきます。

そして、最後に、コリンは、父親の、暗闇に閉じ込められていた心を開き、光を入れて、祝福を与える存在となるというお話です。

コリンが心身を病んでいったのは、父親に「この子は自分のようにせむしになる。長く生きられない。」と信じられ、召使たちが自分についてそう話すのを聞いて育ち、自分で強くそう信じるようになったからでした。コリンは人目を避けて、寝て暮らすようになり、不安にさいなまれ、みじめで癇癪もちの男の子になってしまいます。本当はどこにも悪いところがないのに、体が弱くなり、歩けなくなって、心身ともに病んでいってしまったのです。

そんなある日、コリンはメアリに、はっきりと「あなたはせむしじゃない」と否定され、自己憐憫をやめるように言われます。それ以降、コリンはだんだんと変わっていきます。

物語の終盤に、コリンが、どうやって健康な心と体を自分で再生していったか、描かれている部分があるので、ここに抜粋し、引用します。

❝「メアリがこの庭を見つけたとき、庭はほとんど死んだように見えました。」コリンは演説を続けました。「ところが、なにかが土のなかからいろいろなものを押し出して、無から、ものを作り出したのです。(中略)名前がわからないので、それを魔法と呼びます。(中略)庭に出るようになってから、ときどき木々のあいだを通して、空を見上げしたが、ふしぎな幸せな気分になりました。なにかがぼくの胸のなかで押し上げたり引っ張ったりして、呼吸を早めているような感じでした。魔法はいつも押したり引いたりして、無から何かをつくりだします。すべてのものは魔法からつくられます。(中略)この庭の魔法はぼくを立たせてくれ、ぼくが大人になるまで生きられることを教えてくれました。」❞

❝「これから、その魔法を少し手に入れて、ぼくのなかに取り入れ、ぼくを押したり引いたりして強くさせるという実験をしてみようと思います。(中略)ぼくが初めて立とうとしたとき、メアリはできるかぎりの早口で『がんばって!がんばって!』と唱えました。そしてぼくは立つことができたのです。もちろん同時にぼくも努力しなければならなかったけど、メアリの魔法が助けてくれました―それからディコンの魔法もです。毎朝、毎晩、それから昼間も覚えている限り、ぼくは『魔法がぼくのなかにある!魔法がぼくを癒してくれる!ぼくはディコンのように強くなる、ディコンのように強くなる!』とくりかえし唱えることにします。」❞

こうして、メアリたちに会うまでは歩くことさえできなかったコリンは、メアリやディコンの応援を力にし、自分の中に強い意図を持つことで、自分の心や体を癒し、強化していきます。

「自分はこうなる」という意図は、良くも悪くも、自分自身や、自分を取り巻く現実を創造していきます。ほかの人たちの意図が、自分の意図に共鳴すると、さらにそれを強める働きがあります。スポーツの選手が試合しているときに、応援の声が力になるといっているのは、文字通り、そうなっているのです。

コリンは、はじめは、悪い方向に魔法を使っていました。周囲の刷り込みを受けて、自分は長く生きられないと、何百回、何千回と、意図してしまい、実際に体が弱っていきました。意図は反復することで強化され、パワーを増幅するものです。

自然の法則である、創造の魔法の力に気づいたコリンは、いい方向にその魔法を使うよう、「実験」を行いました。これによって、コリンは見違えるように健康になり、強く、幸せな少年になりました。

一人の人の状態は、接触を持つ周りの人にも影響を及ぼすので、コリンの変化は病んだ父親にも幸せな変化をもたらすに至りました。

アファメーションが潜在意識に影響を及ぼし、現実を変えていくという、創造性の魔法を、とてもよく表しているお話だと思うので、興味がある方は、「秘密の花園」を一度読んでみてはいかがでしょうか。

セルフコンパッション:自分に優しくする方法

セルフコンパッションという心理的な方法があります。

直訳すると、「自分に慈愛を向ける」。

自分のことを好きになれず、したがって大切に扱うことが難しく、毎日を生きづらく、困難なものにしている方が時々いらっしゃいます。自分に優しくする=甘やかす、または、利己的な行為だと勘違いしている方もいらっしゃいますね。

本当は正反対です。慈愛を向ける、優しくする対象に、自分を含めないと、ほかの人に対しても、慈愛を向けたり、優しくすることは不可能なのです。自分が苦しいのに無理をして人に尽くしたら、いずれ相手に我慢が伝わって、相手も苦しくなるでしょう。自分が穏やかで明るい気分でいたら、人に親切にするのは容易ですし、たとえ何もしなくても、ただいるだけで周囲にいる人も心地がよい気分になります。

ちなみに、私たちの左脳は、自分と他人を区別しますが、右脳は自他を区別をしません。左脳が麻痺して、右脳だけの感覚を経験した、脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士によると、右脳マインドにおいては、自他の境界線がありません。存在するすべてはつながって影響しあい、世界を一緒に創造しているという認識になり、自分と世界が一体化するように感じられるそうです(「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 新潮文庫)。そう考えると、自分に向けた辛辣な行為が、自分と関わりのある周りの人、ひいてはこの世界にネガティブな影響を及ぼし、自分に向けた優しさは、周囲にもいい影響を及ぼし、世界を優しく変えるための、小さくとも確実な一助になるということが、イメージしやすいのではないでしょうか。

さて、今回は、簡単だけどパワフルなセルフコンパッションの方法を、一つご紹介します。アメリカの精神科医、Jonah Paquette博士の、Putting Positive Psychology into Practiceというセミナーで習った方法です。

まず、今、ストレスに感じているものを、一つ、思い起こしてください。ストレスな状況を頭に思い描いて、どんな感覚がするか、感じてください。それができたら、自分に向けて、こう言ってください。

1.今は、苦しいときだ。

2.苦しみは、人生の一部だ。

3.どうか私が自分に優しくできますように。

この後、先ほど覚えた、自分の苦しみの感覚が、どう変化するか、感じてみてください。

この方法では、まず、自分が苦しいということを、見ないふりをしたりしないで、直視し、受け入れるということをします。感情は、否定したり変えたりするより、認めて受け入れることで、消えていくようにできているからです。

次に、苦しみは自分だけではない、すべての人が人生で味わうものであり、人類に共通のものだという認識を起こします。「つらいのは自分だけ」「ほかの人はみんな幸せそうなのに、なんで自分がこんな目に」という見方をすると、苦しみは強まりますが、自分だけじゃない、みんな仲間だ、という思いは、苦しみを和らげます。

最後に、つらい思いをしている自分に、自分が優しくできますように、という慈愛の祈りを向けます。つらいとき、誰かが親身になって、心から優しい言葉をかけてくれたとき、つらい気持ちが和らぐ経験をした人は多いと思います。このように、慈悲の心には、痛みを和らげる働きがあります。目には見えなくても、思いにはパワーあるということです。

セルフコンパッションの手法はほかにもあるので、機会があったら、またご紹介できればと思います。

現実を創造するもの

年収1000万あって、庭付きの家も車もあって、結婚していて子供ががいても、寂しくて、満たされず、不幸な人もいます。逆に、年収はその半分以下で、車もないし、家は賃貸で、一人暮らしであっても、周りの人に愛され、楽しんで暮らしている人もいます。

なにを持っているかが現実を決めるなら、同じものを持っている人は、みんな同じように幸せ、または不幸なはずですよね。でも現実はそうではありません。たとえ同じアイテムを持っていたとしても、幸せな人もいれば不幸な人もいます。

なぜなら、私たちが生きる現実は、もっぱら、「自分を取り巻く環境に何があるか」「自分の生活にどんな出来事が起こるか」によるのではなく、「自分の周囲にあるものの中で、何を選んで焦点を当て、それをどんなふうに捉えるか」によって成り立っているからです。

例えば、AさんとBさんが外に立っているとします。二人は1mと離れていない場所に立っているので、二人の周囲には、まったく同じものがあります。

Aさんは、ものがあふれているゴミ箱や、たばこの吸い殻や、道路の油のシミや、向こうからやってくる人を見て「汚いなあ、マナーの悪い奴ばっかりだなあ、こっちに歩いてくるあの人は、なんて不景気な顔をしているんだろう。服のセンスも悪いなあ。」と思います。

Bさんは、Aさんが見ているものは目に入らず、代わりに頭上の青空や白い雲を見て、「ああ、いい天気だなあ」、足元に咲いている花を見て、「わあ、きれい。もうすぐ春だなあ」、通りすがりのネコを見て、「なんてかわいらしい。」と思っています。

AさんとBさんは、同じ場所にいながら、二人が生きている現実は、まったく違うものになるのがわかりますね。

Aさんは、取り巻く環境の中で、不快なものを選んでそこに意識を固定し、否定的な解釈をしているので、不愉快な現実を自分の周りに創造して、その中に住む羽目になっています。

Bさんは、心地よいものにフォーカスし、そこに意識を当ててつながり、吸収しているので、Bさんが住む世界は、明るく、優しくて、快適なものになっています。

人はこうやって、無意識に、自分が住む現実を創りだしています。天国と地獄の差は、こうやって生まれます。

否定的なものを選び、否定的な解釈を下す癖は、ある時点で、何らかの事情で身につき、あまりにもしょっちゅう反復してきたために、自分がそうしていると気づかずに自動的に行っている人が多いです。例えば、自尊心をひどく損なわれるような傷つき体験をした場合、それを境に、悲観的な視点を身に着ける人が多いようです。

理由はともかく、まずは自分がそれをやっていることに気づくことがポイントになります。そして、自分を取り巻く多くのアイテムの、どれに焦点をあて、何とつながるか、それをどう視るかは、本当は選択できると知ることが大事です。

人は、自分が意識の焦点を当ててつながったものから影響を受けます。例えば、きれいな花が咲いているのを見て、花に集中すれば、花と自分との間につながりが生じ、花の持つエネルギーがこちらに流れ込んできます。(花の形や色を楽しみ、香りをかぎ、手で花びらや葉っぱに触れるなどし、五感で感じるように心がけると、より集中できますので、多くのエネルギーを受け取ることができます。)

不快なものばかり見て、それに否定的解釈を下していると、その不快なものに対するフォーカスを強め、その対象物からエネルギーを受け取ることになります。結果として、嫌な気分を自ら作り出し、自分を取り巻く現実を創造してしまうことになってしまいます。(本当は、その対象物がもつエネルギーというより、その対象物に自分が投影しているエネルギーというほうが正しいと思いますが、ちょっと複雑になるので、ここでは説明を割愛します。)

今生きている現実がどんより灰色の人でも、現実は与えられたものでも、偶然にできたものでもなく、自分自身が現実の創造主であることを意識することで、現実を変えていくことが可能です。

現実を変える第一歩として、まずは、美しいもの、優しい気持ちにさせてくれるもの、温かい気持ちになるもの、ありがたいもの等、毎日1つでも2つでもいいので探してみましょう。ネガティブな視点が癖になっていると、なかなか見つからないものですが、一生懸命探していると、それが慣れ親しんだ意識のフォーカスのしかたを変える練習になり、何とどうつながるかを変え、異なる現実を創造する訓練になるでしょう。

勇気を作る方法


最初から勇気のある人はあまりいません。 怖いけれど、逃げない選択をしている人が、勇敢な人になります。

なぜなら、勇気は、怖いことから逃げないで、前向きに向かうときに生み出されるパワーが蓄積して、作られていくものだからです。

なので、勇気は、鍛錬して増やしていくことができます。

「よし、怖いけど、向かっていこう」と決心した時に、自分の中に、目に見えないけれど一種のエネルギーが発生するのですが、これが丹田のパワーを増やしていきます。

丹田のパワーが増えると、地に足がつき、ものに動じない人になっていきます。些細なことを気にしない、心も安定した人にもなります。

逆に、大変そうなことがあると、すぐに逃げ出す選択をすると、丹田の力は養われず、自分の力は弱まっていき、不安気質にさらに拍車をかけてしまうことになります。

逃げれば逃げるほど、大変なことに対する恐怖心は増えていき、困難なことに対するパワーは失われて行くでしょう。ストレスによわい人、環境要因に作用されやすい人になってしまいます。

どうしても怖かったら逃げてもいいのですが(弘法大師もそういっているので)、「怖いけれど逃げない」という選択を、できる範囲で増やしていくと、胆力が増強されて、自信がついていきます。

自信とは、「自分を信じる」という意味です。

逃げてばかりいる人を、信じられるかというと、信じられないでしょう。怖くても向かっていく人は、頼もしく、頼りにしたくなるはずです。

自己信頼は、物事に対し、自分がどうあることを選択するか、自分を信じ、尊敬できるような選択をするかどうかによって培われるものです。

謹賀新年

2023年、生きとし生きるものが癒され、満ち足りて、平和な世界になっていきますように。みなさんにとって、光ある1年になりますよう、お祈り申し上げます。 今年もよろしくお願いいたします。

ダライ・ラマの見た西洋世界

ダライ・ラマ自伝(ダライ・ラマ著 山際素男訳 文春文庫)の中に、こんな一文がありました。

(前略)西欧社会の考え方にいくつかの疑念を抱くこともある。その一つは、物事を”白と黒”、”あれか、これか”で考え、相互依存性、相対性を無視する傾向である。つまり二つの観点の間には灰色の部分が必ずあるという目が欠けているように思われる。

  また、こうも思う。大都市で便利に暮らしている人々の多くは、実際には大勢の人間から孤立して生きているのではないか、と。これほど物質的に恵まれ、近隣の何千という人間のなかに暮らしていながら、猫や犬にしか心を開くことができない人がなんと多いことか。どこかおかしい気がする。これは心の貧しさを意味するのではないだろうか。またもう一つには、これら諸国の厳しい競争社会、そこから生み出されるおそれと人生への深い不安感があるように思う。

これは、中国のチベット侵略後、インドに亡命し、ダラムサラに亡命政権を樹立した後、 欧米諸国を訪問するようになった ダライ・ラマ法王が、 旅先で目にした光景から得た感想なのですが、その鋭い洞察力には感服します。
しばらく住んで、その国に入り込み、内側からその国の文化を体験したわけではなく、忙しいスケジュールの中、外から垣間見ただけでしょうに、ここまで奥深く見通せるとは、さすがの叡智ですね。

以前、メキシコに4年ほど住んでいたとき、貧しい人が多かったのですが(ただし階級社会なので、お金持ちはとてもお金持ち)、人々の心は日本やアメリカなどの先進国より豊かだと思いました。人々が温かく、親密な文化なので、 お互いの距離が近すぎて干渉的だと感じる場合があるかもしれませんが、その一方で、人が孤独になるということがあまりない社会でした。当時、大家さんの家の2階で一人暮らしをしていたのですが、近所の家の人が表に椅子を出して1日ひなたぼっこをしており、家に帰ると、留守の間に誰が訪ねてきたとか、荷物が届いているとか、逐一教えてくれました。数日、外に出ないでいると、大家さんはもちろん、友達や近所の人など、いろんな人がとっかえひっかえ、どうした、何かあったのか、と心配して見に来ます。だから、うかうか引きこもっていられません。孤独死なんて不可能です。兄弟や親戚も多くて、中流階級以下は一つの家に大勢で住んでいることが多いので、プライバシーはないけど、人間同士のつながりが濃く、そのせいか、自殺率がとても低い社会だと聞いています。鬱などの精神疾患もあまりなかったように思います。人々は概して明るくて、貧しい人同士、助け合って暮らしていました。物乞いの人はたくさんいたけれど、貧しい人ほど気前がよくて(お金持ちの特権階級の人のほうがケチでした)、みんなよく小銭を寄付したり、ちょっとした仕事を与えたりして、助けたりしていました。

だから、上記のダライ・ラマの記述は、とてもよくわかります。日本やアメリカのほうが、人々の顔つきが暗くて、不幸せそうに見えますし、社会にストレスが多く、不安や恐れが蔓延しているように思います。

ダライ・ラマというと、メキシコに住んでいたころ、知人のメキシコ人の運転手が、私が何気なく手に取った、車に置いてあったボールペンを見て、それ、ダライ・ラマがくれたペンだよ、といったので、とても驚いたことがありました。彼はダライ・ラマがメキシコに来た時に運転手を務めたそうです。「どんな人だった?」と聞くと、「英語が上手で、気さくで、ちっとも偉そうじゃなくて、いい人だったよ。インドに帰った後、お礼状とハンカチが送られてきたよ。」とのこと。お人柄がしのばれるエピソードですね。

余談ですが、ダライ・ラマの自伝を読んで私が思ったこととしては、なるほど、菩薩というのはこういう人なんだろうなということ。幼少期からとても頭脳明晰な人のようで、記憶力や理解力、洞察力も抜群だったようですが、一方で、先が見通せる千里眼があるわけではなく、怒ったり、悲しんだり、苦悩したりもする、一人の人間です。けれども、エゴが非常に少なくて、自分より人、衆生を苦しみから救うこと、 世界の平和を常に考えている人。慈悲の心を高め、人格を向上させる為に、ストイックに修行に励んでいる人という印象を受けました。

ダライ・ラマがおっしゃる通り、今の先進国、「文明社会」の在り方は、どこか間違っていると思います。物質が豊かにしてくれるのは、表面的な生活だけで、それだけでは心が満たされないことはないこと。競争社会は争いを生み、人々を分離させ、心を貧しくしてしまうこと。この世界は白黒では割り切れず、たいていグレー、中間色なので、白黒の考えで生きようとすると現実にフィットしない。それどころか、ことあるごとにストレスを感じる、苦しい生き方になってしまうこと。そんな矛盾を抱えているのが、私たちが住む、先進国の現状ですね。

これからは、物質的な豊かさだけではなく、心も豊かになるような世界になっていけばいいなと思います。

 

焦りの意味すること

焦りって、自分が感じる心地よいペースと、頭で追おうとしている目標との間に、ズレがあるとき、生じる感情なんですね。

先日、こんなことがありました。

海外からアメリカ人の友達が2人遊びに来ていたもので、色々なところに観光案内したのですが、時間が限られていて、連れていきたいところ全部を回りきれない状態でした。

平泉の世界遺産、中尊寺や毛越寺を回った後、猊鼻渓という、舟下りができる渓谷にも連れていきたい思ったのですが、あんまり紅葉がきれいで、ゆっくり見ていたもので、もう時間ぎりぎり。その後の温泉宿のチェックインに間に合わなくなるかもと思ったけど、思い切って向かいました。

もう時刻は夕方。猊鼻渓の舟下り自体、最終の舟が出る時間ギリギリになりそうでした。

それでも、もう少しで着く、なんとか舟に乗る時間も確保できそうというときに、こともあろうか、車で道を通り過ぎてしまいました。すぐ気づいてUターンして戻ったら、今度は別の道に入って少し迷ってしまいました。

ああ、どうしよう、間に合わない、と焦りつつ、猊鼻渓に到着。今から舟に乗ったら、予定の時間をオーバーしてしまい、宿の人に迷惑がかかる。ということで、ここまで来たけど舟下りは断念することに。アメリカ人の友達は、2人ともいい人たちで、「全然いいよ、途中の景色だけで十分楽しいもの。」と言ってくれました。

でも、せっかく来たんだからと、舟つき場を見て、お土産屋さんを物色することにしました。

その頃にはもう、日も暮れて暗くなってきており、それまで天気予報以上にお天気がよくて、なんとか持ってくれたのが、ようやく雨が降り始めました。

その時、アメリカ人の友達が言ったこと。

「雨に濡れなくて済んだから、舟に乗れなくてかえってラッキーだったね。道に迷ったのは、舟に乗れなくなるようにっていう、天の計らいだったね。」

なるほど、本当にそうだ。

その時、舟着場の方から、舟を降りたばかりの、着物姿の花嫁と花婿がやって来て、アメリカ人の友達は「わあ、着物だ、花嫁さんきれい!」と大喜び。舟上でウェディングがあったみたいで、そんなめったに見れないものを見て、一層、ラッキー感が増しました。

このできごとで思ったこと。内心、間に合わないと焦っていたけど、無理やり行こうとしていたのは、心と頭のギャップに他ならなかった。心では、舟に乗らないほうがいいとわかっていた。舟に乗ってしまったら、最後まで心は焦るばかりだったでしょう。だって、本当に帰りが遅くなりすぎて間に合わなかっただろうから。でも、舟に乗らない選択をしても、大丈夫だった。そのほうが、すべてうまくいったのです。

そして、それを教えてくれるサイン、自然に間に合わなくなるできごとが、ちゃんと起こってくれる。

頭で考えたことではなく、自然に任せること、心の感覚、直観に従うことの大切さを、改めて思い知らされた経験でした。

効果的でない感情の解放の仕方

ゲシュタルト療法のセミナーに行ってきたという知人に、その内容を聞いて、驚いたことがあります。

ゲシュタルト療法には、空椅子療法という手法があります。誰も座っていない椅子を前に置いて、架空の相手との対話で感情を引き出すやり方なのですが、そのセミナーでは、「毒親」のお母さんをイメージしながら、お母さんを棒で叩くことをしていたそうです。(ちなみに、私は「毒親」という言葉があまり好きではありません。自分の苦しみを他者のせいにして、被害者意識を強めてしまい、苦しみから抜け出すことを困難にしてしまう効果があるので、気をつけたほうがいい言葉だと思います。)

「あんなことするんだ、ってびっくりしました」

と、知人は言いました。

私は率直に、それはあんまりいい方法ではない、そのセミナーの主催者は何か勘違いしていると思う、とその知人に伝えました。

感情を傷つけられた相手に対して、イメージ上とは言え、暴力をふったりすることは、感情の癒しにはならず、却って逆効果です。人を攻撃することで心が癒されるということは、本当の意味ではありえないからです。

人は潜在意識のレベルではみんなつながっており、一つです。ゆえに相手を傷つけることは、奥深い部分では、自分を傷つけることになるので、空椅子でお母さんを棒で殴って、表面的、一時的にはスッとした気がしたとしても、モヤモヤしたり、後味の悪さが残ったりするでしょう。お母さんに対する怒りや恨みが、減る代わりにエスカレートし、かえって強化されてしまう可能性もあります。

空椅子の上のお母さんに、暴言を吐いたり、暴力をふるったりするよりは、お母さんの行為によって、自分がどんな気持ちになったか、どんなに傷ついたか、本当はどうしてほしかったか、伝えるほうが効果的ではないでしょうか。

「お母さんはひどい」という、you statement (「あなたは」を主語にした言葉。相手を批判したり攻撃したりするニュアンスになりやすい)ではなく、「自分は腹が立った、悲しかった」という、I statement(「私は」を主語にした言葉。相手がどうこうではなく、自分の気持ちに言及)を使うのですね。

お母さんが「毒親」で辛い子供時代だった、という場合、通常、裏を返せば、本当はお母さんに愛されたかったのに、愛されなかった、という悲しみがあります。怒りより、その悲しみのほうが、心の深い層にある真実です。そちらのほうに光を当てて、言葉にし、表に出してあげるほうが、より深い感情の解放になります。

人間は誰でも、手つかずの状態では、無条件の愛を持って生まれてきます。子供は生まれながらにして、親がどんな親だろうと無条件に愛します。例えば、どんな容姿だろうが、声だろうが、障がいがあろうがなかろうが、関係なく、子供は親を慕いますよね。もし親が、時々感情的になったり、理不尽なふるまいをしたとしても、根本的に無条件の愛を持ち続けて子供に接することをすれば、子供は親を愛することを決してやめないものです。

でも、なんらかの事情で、親が無条件の愛を子供に表現できないとき、子供は親に愛されないと感じて深く傷つきます。「お母さんを愛している。お母さんはかけがいのない存在だ。そんな大事な人に愛されないことはとても傷つくことだ。もっと自分を愛してほしかったのに、辛い」と感じるわけです。

毒親に対する傷つきの根本にあるのは、怒りではなく、愛なので、そちらにフォーカスして表現するほうが、自分の本当の心と一致して、カタルシスになると思います。

ラジオ出演

先日、公共機関のお仕事の関係でご依頼いただき、FM岩手の凸凹チャンネルという番組で、ゲスト出演させていただきました。

先週の金曜日の放送から出ているのですが、明日もAM10時45分から、10分弱の短い間ですが、少しお話させていただいています。

収録なので、編集があり、どの部分が使われているかわからないのですが、ご質問に答える形で、マインドフルネスや、感情の扱い方などのお話をしました。

8月5日まで、毎週金曜の同じ時間に放送となります。

もし電波が入り、お時間があって、興味があれば、聞いてみてください。