盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

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自意識と偉業

カウンセリングをしていて、人にどう思われるかを気にする人がとても多いなあと思います。

古代から、日本の集合意識にある傾向なんでしょうね。

農耕民族は、互いに助け合って作業をしなければ生きていけなかったので、人とうまくやること、調和することがサバイバルスキルだったからでしょう。

自意識が過剰になり、人にどう思われるかを気にしすぎると、自分のやりたいことを思うようにできず、多くを成し遂げることができなくなる、というデメリットがあると思います。

行動、ひいては、創造性が制限されてしまう。

自意識がありすぎると、人や社会の役に立つことができなくなると思います。

そもそも、真に利他的な人は、自我が少なく、自意識が少ないものです。

マザーテレサとか、シュバイツァーとか、ナイチンゲールとか、宮澤賢治などは、自分が周りにどう思われるか、さして気にしなかったと思います。自分がしたいことを人目を気にせずにしていたから、真に人に貢献できたのだと思います。周囲の目を気にしないと、穏やかな気持ちを保つことがより容易になるというおまけもついてきますね。

究極、観音様とか菩薩とか、仏様の類は、自分がどう思われるか、まったく気にしない境地に達している存在でしょう。自我を超越しているでしょうから。

そのほうが、余計なエネルギーを消費せず、偉業を成し遂げられるのだろうと思います。

 

 

 

 

鬱の時は服薬と休息?

鬱になったときの対処法として、ちまたでよく耳にするのが、「服薬と休息」です。

数年前、日本に帰ってきて、精神医療や精神保健関係のパンフレットに、そう書いてあるのを見て驚き、「ひどいなあ、遅れているなあ。」と思ったものです。

アメリカでは、セラピーと、必要に応じて服薬というのが治療の基本です。

服薬だけでは鬱はよくなりにくい、一番回復が早いのが、セラピーと服薬を同時に与えた場合である、という統計もあります。

実際、アメリカでカウンセリングをしていた時の職場では、精神科医による薬物療法と私たちセラピストによる精神療法と、両方受けられるサービスシステムになっており、薬が欲しいクライアントさんは、必ずセラピーも受けなければならないことになっていました。ちなみに、セラピーのみで、薬はいらない場合は、それでもOKでした。中には、薬しか信じない、セラピーなんて受けたくないといって、形だけセラピストに会いにはくるけど、セラピーは拒否という方もごく少数いましたが、そういう方に共通しているのは、長年薬を飲んでいる割に、症状はそのまま現状維持ということでした。

つい先日も、精神的に参ってしまったので、仕事をやめ、心療内科に通院しながら家で数か月休んでいたけれど、よくなるどころか、だんだん人に会うのが怖くなり、今までになく鬱がひどくなってしまった、という方にお会いしました。よくあることです。

鬱や不安の症状がでたとき、薬を飲んで休んでいて、ひとりでによくなるのは、ごく限られたケースです。

鬱や不安の原因が、一時的な環境的要因によるもので、ご本人にもともと備わっている復元力が強い場合は、その環境から離れて休んでいたら自然に回復すると思います。ただ、臨床の現場では、そういうケースはどちらかというと例外です。たいていの場合、鬱や不安になりやすい原因がすでにご本人に存在していたり、例え環境に原因があったとしても、それが心の中に何らかのブロック(ひっかかり)をすでに作り出してしまっている。そういう場合は、阻害要因をちゃんと突き止めて、修正しない限り、ただ休んでいてもよくはならないです。それどころか、だんだん悪くなっていくということになります。

苦しみというのは、本来、人がある状態ではありません。なので、状態が悪くて苦しいというのは、「あなたの中に、本来の幸せを阻んでいるものがありますよ。」と教えてくれているサインに他ならないのです。それを正せば、より楽で、幸せになれますよという、大事なメッセージでもあるのです。それを薬でごまかしてしまうと、一時的に苦しい感覚が和らいだとしても、いつまでたっても、本当の幸せに近づくためのカギに気づけないままになります。それどころか、薬の副作用で、苦しみも感じない代わりに喜びも感じることができず、疲れやすく無気力な状態になっていってしまう可能性があります。

そもそも、人は、本来、身体的、精神的に活動したり、なんらかの役割に従事することで、生命エネルギーをまわしていく一面があります。活力というものは、全然使わないと、だんだん低下するので、人は無気力になって動けなくなっていくものです。例えば、車は毎日使っているとスムーズにエンジンがかかりますが、車庫にいれっぱなしにして何か月も放っておくと、エンジンがなかなかかからなくて、動きにくくなってしまいますよね。人間も同じです。毎日、何らかの変化を経験し、体や頭や心を使って動かすことで、人の心身は活性化するので、生きていく活力が維持できるのです。それを、鬱や不安になった原因をそのままにして、長い間何もしないでただ休んでいると、鬱や不安が悪化して、動けなくなるのも当然でしょう。

残念なのは、日本ではまだセラピーが一般的ではなく、質のいいセラピーを受けられる場所が少ないことです。精神医療専門のセラピストを育てる教育システム自体が、まだ整っていない印象があり、はがゆいところです。

ただ、必ずしもセラピーを受けなくてもよくなる場合もあり、また、セラピーを受けたところでよくならない場合もあるでしょう。セラピーではよくならないが、何か他のことでよくなる場合だってあると思います。例えば、禅寺で写経や座禅をすることで気分が落ち着いたとか、自然の中で陶芸をしたりしたら鬱がよくなったというのも聞いたことがありますし、ある人は、モンゴルに行って、おおらかな遊牧騎馬民族の人たちの間でホームステイをしたら鬱が治ったといっていました。

鬱は服薬と休息でよくなるか?という問われたら、私個人的には「ならない場合が多々ある」と答えたいでいです。ただ休んで、薬を飲みながら、家にこもっているよりは、建設的なやり方で自分を振り返って、今までの在り方を少し変えてみたり、何か心や体を活性化するようなことをしたほうが、早く元気を回復すると思います。

 

 

 

 

 

怒りについて

怒りは自然な感情なので、それを感じること自体は、悪いことではありません。

怒りのエネルギーは、自分や自分の大切な存在を守るために自らを奮い立たせたり、必要な変化を起こす力の源になったりします。

ただし、怒りが慢性化すると、心身に深刻なダメージが生じます。

継続する怒りは、高血圧、心臓病、消化器系疾患、免疫低下による感染しやすさ、頭痛等を引き起こし、肉体を損ないます。心理的には、怒りの抑制は鬱に転じる可能性があります。環境的には、怒りは人を遠ざけるので、親切な人、穏やかな人を遠ざけて孤立しやすくなり、似た波長の攻撃的な人をひきつけやすくなります。

慢性的な怒りが恨みつらみに転じて、ひどく自分の心身をむしばんでいる人は、しばしば、「相手が悪い」「相手はこうあるべきではない」「相手のせいで自分は被害を被った」という意識にとらわれてしまっています。フォーカスが相手にいってしまっているわけです。

確かに相手がよくない行為をしたのかもしれませんが、そこに執着していると、いわば、黒くて粘着質で重苦しい、怒りの地下牢の囚人のまま、そこから出られない状態に自分をしてしまいます。

「自分の不幸を人のせいにしない」

というのは、幸せであるために、非常に大切な真理です。

人が何をしようが、どんなことが起ころうが、怒りにとらわれるか、とらわれないでいるかは、自由なのですから。実際、同じことが起こっても、怒る人と怒らない人がいます。このことからも、出来事が怒りを必然的に誘発するのではなく、その人独自の感情的な反応として、怒りが生ずるということがわかります。

「相手が悪い」と、相手を正そうとしたり、罪を償おうとさせるのは、法律上は必要な場合もあるかもしれません。でも、心の健康のためには、それよりも、怒りの裏にある苦しみを見て「自分をこの苦しみからどうやって解放するか」「どうやってこの黒い気持ちをクリアにするか」という風に、自分にフォーカスしたほうが、自分の心身の健康のためには、より効果的だと思います。

 

 

 

 

ばらばらの石とぴかぴかの石

以前、愛読書だった本を、もう一度買って、読み直しています。

その中で、本当にそうだなと思う一文があったので、シェアします。

「人生に偶然というものはありません。いつ、どこで、どんなふうに生まれてくるかということすら、偶然ではありません。私たちが悲劇だと思っているものも、私たちがそれを悲劇にするから悲劇なのであって、私たちはそれをチャンスとか成長のための好機と見なすことだってできるのです。そうすると、悲劇だと思っていたものが、実は私たちに対する挑戦、つまり人生を変えるために必要なヒントであったことがわかってきます。」

(エリザベス・キューブラー・ロス著 鈴木 晶訳 「死ぬ瞬間」と死後の生 中公文庫)

カウンセリングで多くのクライアントさんにお会いして、大変な境遇とか出来事、心身の状態というのは、よりよい自分、よいよい人生へと変わるためのチャンスであると実感しています。

同じ本の中で、キューブラー・ロスは、「つらい経験をするというのは、ちょうど大きな石を洗濯機で洗うようなものだ。ばらばらに壊れて出てくるか、ぴかぴかになって出てくるか、そのどちらかだ」と述べています。

私は、非常に困難な人生を歩んできた人が、暗い長いトンネルを抜けた後に、生まれ変わったように強くて優しい人になり、輝くような魅力を放って、人生を謳歌されている姿を何度も見てきましたので、この比喩の意味がとてもよくわかる気がします。

「なんで自分の人生はこんなに不幸でみじめなんだ」と思ってしまうと、「犠牲者意識」に陥り、トンネルの暗闇の中にとらわれてしまって、先に進めなくなってしまうものです。「ばらばらの石」への道ですね。

出来事や状況は変えられなくとも、その出来事や状況をどう捉えるか、その出来事や状況に対してどういう態度で臨むかは変えられます。その点において、人は完全に自由ですから。それが理解できれば、受け身で無力な「犠牲者」ではなく、人生を積極的に変えていく力を持てるようになります。

どうせ辛いできごとなら、ぴかぴかの石になるために必要な試練、しんどいけれど、より幸せになるためのヒントが隠されているととらえて、それを自分の人生に生かす道を考えてみるのもいいかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気にする」ということ

日本でカウンセリングをしてみて、人がどう思っているかを気にする人が非常に多いというのが特徴的だと感じています。

最近、改めて思うのですが、「気にする」って、文字通り、自分の「氣」の一部にしてしまうということなんですね。

つまり、自分のオーラの中に取り入れてしまうということ。

オーラというのは、その人が持つ、エネルギー領域のようなもので、その人の周りを覆っているものと考えていいと思います。オーラは、ごくおおざっぱに言えば、その人の意識状態、平たく言えば、常日頃からどういうことを思い、感じているか、その結果、どういう行為をしたかの積み重ねで作られていくものです。つまり、その人の意識状態の反映ですね。

人がどう思うかを、自分のエネルギー領域に取り入れてしまうと、それを自分の中に保持してしまう、ということになり、それに影響されてしまいます。言い換えれば、相手に、自分に対する影響力を与えてしまうという結果になります。

嫌いな人に恨みつらみを抱いて、そのことをいつも考えてしまう場合などは、その一例ですね。その嫌いな人を、自分のエネルギーの一部として、いつも自分と一緒に持ち歩いてしまうことになります。その結果、自分のオーラは赤黒く濁ってしまいます。

誰かを恐れる場合でも同じ。自分の持つエネルギーを暗い色に濁らせ、低下させてしまいます。

そして、長く恨みつらみや恐れを保持していると、無意識にその部分から普段の行動を選択しやすくなり、自分にとって最善ではない選択をしていきがちになります。

嫌なら関わりになりたくないでしょうに、かえって関わりを深め、その人に自分を左右させる力を与えるということになってしまう。そして、それは、相手ではなく、自分がやっているということです。

気にしないというのは、自分のエネルギーに取り入れない、ということで、その人がどんな嫌な人であれ、関わればマイナスになる人であれ、少なくとも、精神的には影響されないということにもなります。つまり、その人がどうあれ、自分は自由でいられるということです。

その辺を意識するだけで、単なる被害者ではなく、人生を自分の力でコントロールしていくことが容易になってくると思います。