盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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考察・気づき

自意識と偉業

カウンセリングをしていて、人にどう思われるかを気にする人がとても多いなあと思います。

古代から、日本の集合意識にある傾向なんでしょうね。

農耕民族は、互いに助け合って作業をしなければ生きていけなかったので、人とうまくやること、調和することがサバイバルスキルだったからでしょう。

自意識が過剰になり、人にどう思われるかを気にしすぎると、自分のやりたいことを思うようにできず、多くを成し遂げることができなくなる、というデメリットがあると思います。

行動、ひいては、創造性が制限されてしまう。

自意識がありすぎると、人や社会の役に立つことができなくなると思います。

そもそも、真に利他的な人は、自我が少なく、自意識が少ないものです。

マザーテレサとか、シュバイツァーとか、ナイチンゲールとか、宮澤賢治などは、自分が周りにどう思われるか、さして気にしなかったと思います。自分がしたいことを人目を気にせずにしていたから、真に人に貢献できたのだと思います。周囲の目を気にしないと、穏やかな気持ちを保つことがより容易になるというおまけもついてきますね。

究極、観音様とか菩薩とか、仏様の類は、自分がどう思われるか、まったく気にしない境地に達している存在でしょう。自我を超越しているでしょうから。

そのほうが、余計なエネルギーを消費せず、偉業を成し遂げられるのだろうと思います。

 

 

 

 

病気の原因

近年、寿命は延びたけれど、病気になる人は増えているようです。日本人の二人に一人はがんになるとききますが、がんに限らず、病気はすべて、体や心にたまった毒素が原因なのだと思います。逆にいうと、体や心に毒が蓄積しなければ、病気にはならないはずです。

今日、普通に暮らしていても、私たちは日々毒を体に取り入れています。大気汚染、水の汚染、それを浄化する消毒薬、電気製品の電磁波、農薬、添加物、化学薬品…。今の文明社会では、どんなに気を付けていても、これらの有害物質から完全に逃れることができないようになってしまっています。偽りの豊かさと引き換えに、大きな犠牲だなとつくづく思います。

体内に取り入れる毒素に関しては、できるだけ添加物を避けて、農薬が使われていない野菜や果物を選び、薬も必要最低限にする等、気を付けること、あとは体内の毒を排出してくれるものを摂取することで、蓄積を防ぐしかないと思います。体のことに関しては、私は専門ではないので、これ以上の言及は控えておきます。

体に毒素がたまっていなかったとしても、もし心に毒素が長年蓄積していたら、やっぱり病気になってしまいます。これは心の病気だけでなく、体の病気もそうです。臨床現場で大勢のケースを見てきて、私はそう確信しています。

心に毒素をためるというのはどういうことかというと、一言でいうと、怒り、恨み、ねたみ、悲しみ、無力感、絶望感、といった未消化の強い感情のことです。怒りや悲しみや嫉妬心を感じることは、誰にでもあることで、それ自体は自然なことであり、いい悪いはないのですが、問題なのは、それをいつまでも手放さず、心にとどめてしまうこと。そうなると、精神的苦痛が生じ、必然的に不幸せな人生になってしまうのみならず、鬱や不安障害などの心の症状に至ることも少なくありません。通常、否定的な思いの蓄積は、目に見えない形で心の症状という形で出て、それでも本人が原因に気づかず改善の努力をしなければ、最終的に目に見える形で体に出ます。

心の毒素とはなにか。

具体的にいうと、たとえば

「どうしてあの人が幸せなのに自分は不幸せなんだろう。」

「私の不幸はあの人のせいだ。」

「許せない。仕返しをしてやる。」

「なにもかも私のせいだ。私は幸せになる資格はない。」

「私は恥だ。」 

など思いです。その思いが強く、かつ、長い間心にとどまっていればいるほど、有害です。

体の毒もそうですが、心の毒も、生きていれば毎日生じるのは仕方がないことだと思います。生きていると、毎日いろいろなことがあり、何らかのストレスが生じるものですから。

大切なのは、それが蓄積しないよう、こまめに流して心を清浄に保つことだと思います。

できれば毎日、自分の想念や感情を確認し、ネガティブな思いや気持ちが見つかれば、自分の心をケアし、意識を清浄に保つよう心掛けることが、病気の原因を作らないためにとても大切だと思います。

 

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「アメリカン・スナイパー」を観て

先日、「アメリカン・スナイパー」のDVDを観ました。

イラク戦争で、160人の敵を打ち殺し、伝説の男と言われたアメリカ人兵士を主人公とした実話で、その人の心理に興味があったので、以前から観てみたいと思っていました。

実際に観てみて、戦場のシーンが多く、彼の心理描写は思ったより少なくて、ちょっと物足りない気がしましたが、いろいろ思うところがありました。

彼が殺した160人の中には、自爆テロを実行しようとした子供や女性もいた。イラクでは、こんな残酷なことが、毎日行われていたのか、と改めて思いました。

この兵士は、愛国心が強いあまりに、自分のやっていることに疑問を持たず、人を打ち続けたようですが、そんなに多くの人を殺し続けて、人間の心がおかしくならないほうが不自然だと思います。なぜなら、人間の潜在意識に原初から備わっている良心に反する行為を続けると、必ず反動で心が悲鳴を上げるものだから。

彼には国や仲間を守るためという正当な理由があり、彼自身にとっては正しいことだったのでしょうし、何が正しくて何が間違っている、と二元論的な議論するのは無益でしょう。一方から見たら正しいことは、他方から見たら間違っており、その逆も真なり、というのが、この世に蔓延する二元論的な世界観なので。

でも、宇宙的な大きな観点から見ると、人を傷つけることは、自分を傷つけることに他ならない、というのは紛れもない真実であり、誰も逃れられない法則なので、殺しだ分だけ、彼の心には深い傷が刻まれたのではないかと思います。

かつ、生きるか死ぬかの戦火の中で、常に緊張を強いられ、感覚を研ぎ澄ませ、ぎりぎりの判断を求められる任務に長くついた後遺症として、この人は無意識のうちに、母国の安全な場所においても、闘うか逃げるか反応を起こし、常に過剰なストレスがかかった状態で生きなければならなくなります。妻と訪れた病院で、血圧を測ったら異常に高かった、というのがそれを物語っています。そして、少しの刺激でも過剰に攻撃的で暴力的な反応を起こすようになっていく。

加えて、de-personalization、de-realization、つまり離人症、非現実感に悩まされ、体は安全なアメリカにいても、脳内の音や映像は、戦場のそれを再現し続け、心は戦場にいるままになってしまう。

これは、PTSD特有の症状で、感覚をつかさどる右脳が過剰に活発になり、論理的思考や現在という時間観念をつかさどる左脳が不活発になっているためだと思われます。また、危機的な状況に長くさらされた結果、危機をとらえる動物脳が働きすぎ、社会脳である前頭葉が鈍化してしまっているので、社会的な関わりを持つことができなくなってしまう。奥さんや子供とも、人間的な温かい関わりを持つことができなくなってしまった。

これが、「伝説の男」と呼ばれる偉業の代償でした。

ネタバレになりますが、彼は、同じくイラク戦争の帰還兵で心が病んだ男と関わったがために、不本意に悲劇的な死を遂げます。

戦争がもたらす代償は、いつでも、とてつもなく大きく、悲劇的です。この映画を見ながら、そんな代償を払ってまでする意味のあった戦争だろうか、と疑問に思いました。

そして、「誰のものでもない地球を、境界線で分けて互いに殺しあうなんて、人類はなんて愚かで幼稚なんだろう」、といつも思っていることを、改めて思った次第です。

 

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父親像

先日、久しぶりに旧友とお茶をしました。

私が長年勤めた職場を辞めて、子育てのカウンセラーとして働いていることを話したら、彼女は唐突に「やっぱり、父親って可哀想だよね。」と呟きました。

彼女は、父親が癌と宣告されてから、亡くなるまでのことを振り返っていました。
父親が癌であることを聞かされた時は、ショックで何とかしてあげたいと思い、思い出をたくさん作ろうと旅行に連れて歩いたり、ドライブに連れ出したり、癌に効くサプリメントを探してはプレゼントしたり、一生懸命だったと。でも、小さい時から感じていた身勝手な父親という感覚が拭い去れなかったので、身の廻りの世話をやいたり、父親の不安を聞いてあげようという気持ちにはなれなかったと。

彼女は小さい時から母親の愚痴の聞き役であり、愚痴の半分は、父親に対するものであった。だから、父親は身勝手な人という感覚が彼女の中に住みついたのだ。父親が癌になってからも、それは変わりなかった。

父親が亡くなってからは、彼女は母親を支えるために今まで以上に重要な立場を担っていった。毎日毎日、泣きながら夫との生活を振り返り語る母親の傍に居続けた。

それは、彼女にとっては、小さい時から習慣なので全く苦痛ではなかった。むしろ、話を聞いてあげることで、母親が元気になっていくのを実感でき、彼女の安心にもつながっていた。

ただ、一つだけ、母親を恨みたくなる時があるそうだ。それは、彼女の知らない家族思いの父親像が、母親の口から語られた時だ。思い出は美化されると言うけれど、実は、いい父親で、いい夫であったエピソードが語られると、彼女は、親身に介護してあげれなかった自分を責めるのだそうだ。

彼女にとって、父親はどこか遠い存在で、二人の関係はぎこちなかったそうだ。自分の弱みを見せることもなかったし、父親も同様だった。何処となく、心の距離を感じていたという。だから、彼女の父親像は自分が目で見て感じた父親像ではなく、母親から聞いた身勝手な父親像だったのだと亡くなってから気付いた。そのことがとても悔しいと。

彼女の話をひとしきり聞いた後、私もつい「なるほど、確かに、父親って可哀想だ。」と呟いた。

でも、ありがちな話だ。
まして、彼女の祖母は格式高い家の生まれなので、嫁である母親にはかなり厳しかったらしい。彼女の母親は、辛い気持ちを外で話すこともできずに、優しい気持ちを持った彼女に話すことで支えられてきたのであろう。

それにしても、亡くなった後で、覚える後悔の念は、かなり辛いものがあるだろう。

さらに、彼女は言った。
「だからね、私は、子どもにはお父さんのいいところをいっぱい話すようにしているんだ。絶対、愚痴は言わないの。そしてね、子どもに相談された悩みのうちね、肝心要な相談事はね、直接お父さんに相談するように言うの。そうすれば、お父さんと子どもの心の距離が近くなるでしょ。結果、いざ、夫が介護が必要になった時、子どもにちゃんと看取られるだろうし、子どもも後で後悔することないでしょ。」と。

私は、ずっと感心して聞き入っていました。そして思いました。

彼女は強い。そして、優しい。後悔の念を抱きつつも、母親の辛さを理解し、その経験を自分の子育てに生かしている。素敵なお母さんだ。その素敵なお母さんを育ててくれた彼女の両親もまた素晴らしいと。

                         

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                                                                                                                            (佐々木 智恵)

コールバーグの6段階の道徳レベル

社会・心理学者のコールバーグは、道徳や倫理の規範を、次の6つの段階に分けて考えました(Kohlberg’s six stages of morality)。 

正しい行いをする理由が

①罰を避けるため

②ご褒美をもらうため

③いい人だと思われたいから

④法律を信じているから

⑤社会の決まり事を信じているから

⑥自分の心に照らし合わせて、正しい・間違っていると感じるから

 

今の社会においては、子供のしつけや学校教育は、まだ①、②あたりが主流であり、大人になっても、社会はせいぜい⑤あたりまでを規範として動いているように思います。

私個人としては、法律よりも社会制裁よりも、自分の良心の方が怖いので、なるべく⑥を基準として生きたいなと思っています。

けれども、何が正しくて、何が間違っているとみなすかは、人によって違いますよね。

正解って、本当はないんだと思います。

カウンセリングをしていて、何かを質問したとき、たまに、正しい答えを言おうとして一生懸命になったり、間違った答えを言わないか心配して、口ごもってしまうクライアントさんがいらっしゃいます。

そういうとき、私は、

「思ったことをそのまま言っていいですよ。正しいとか間違っているとかないから。」

といいます。

なぜなら、その人がその時本当にそう思ったなら、その答えはその人にとって真実なのだから。

私がセラピストだからといって、私の言うことが、その人にとって正しいとは限らないのです。

ちなみに、カウンセリングのとき、私は誘導尋問をしないように、極力気を付けています。誘導尋問というのは、質問する際に、こちらが想定した正解にたどり着くよう、相手を導くことです。

私がなにかを質問するときは、通常、その人の中に何があるのか、純粋に知りたいと思ってしているので、こちらで答えをあらかじめ想定せず、白紙の状態でしています。

そのほうが、私の限られた思考に制限されたりせず、想定もしなかった役立つ情報が、クライアントさんの中から出てくることが多いのです。

話が少しそれましたが、もし、他の人を感心させたり、喜ばせたり、それが社会に受け入れられそうな無難な回答だから、というのを基準に答えを見つけるなら、それって、誰にとっての真実?と思います。

一人一人が、自分にとっての真実を追求して、自分の心が正しいと信じることを行っていくなら、自分以外の誰かの真実にしたがって生きる、一見楽だけど本当は苦しい生き方をせずに済むはず。そして、(今まで何度も歴史の上で繰り返されてきたように)人々が周りに流されて、社会が誤った方向にいってしまうことも、防げるんじゃないかな、と思います。                                                                                                                                                                                                                                             (Chika)                                                                              

 

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嫌なことから逃げないと・・・

嫌だなあ、逃げ出したいなあ、と思うことから逃げないで、その時の自分にできる最善を尽くして、真摯に向き合うと、たいてい、心配していたよりはうまくいく上に、なんらかのご褒美がもらえます。

最善を尽くしてもうまくいかないこともあるけれど、それはそれでしかたがない。

うまくいかないことにも、意味はあるのだから、それでかまわないと思う。

大事なのは、うまくいくかいかないかよりも、その時の自分が誠実であったかどうかだと思います。    

                                       (Chika)

 

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セミナーを終えて

5月31日、中央公民館で、「慢性的な不安の原因と解消法」と題したセミナーを開催しました。

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

実際、フタを開けてみると、参加者の方がみなさん素晴らしかったため、心理学講座として講師が参加者の方に情報を与えるだけの、心理教育的なセミナーを超えて、予期せずして、ちょっとしたグループセラピー的な場になりました。

みなさん、純粋な心を持った方ばかりで、それぞれの苦しい状況の中で、一生懸頑張って生きてこられたという共通点があり、みなさんの内側から輝きが引き出されて、深いところでお互いに影響し合い、相乗効果を発して、大きな癒しが起こったと感じました。

意味があって、必然的にあの場に集まって来た方たちなんだろうなと、終わってみて実感しています。

おかげさまで、有意義な時間になったと思います。ありがとうございました。

6月28日も同じ内容のセミナーを、今度はサンライフ盛岡にて開催いたします。

参加ご希望の方は、お問い合わせフォームもしくはお電話でお申込みください。

                                                                                                                  ( Chika)

 

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楽に生きる方法

楽に生きるためには、闘うことをやめればいいのだと思います。

今の世の中、無駄に何かと闘っている人が、とても多いと思います。

時間とか、ノルマとか、成績や業績を上げようと必死になる、自分をよく見せようと奮闘する、少なくとも今はまだ変えられない状況を、なんとか変えようともがく、等。

今の「文明社会」では、競争を奨励し、人を打ち負かして自分が抜きんでることを良しとしています。社会全体のシステムや風潮がそうなっており、その概念は子供のころから植えつけられます。

このやり方で、確かに物質的には豊かな社会が、ある程度は実現するかもしれません。けれどもその反面、常になにかと闘うよう追い立てられているので、ストレスは甚大で、気持ちにゆとりがなくなり、殺伐とした世の中になるのは、見ての通りでしょう。

また、人と比較して優劣を決める思考が定着するので、人と人とのつながりが希薄になって分離してしまうことになります。人の心が互いに分離すると、方向性がバラバラになるため、例えば社会全体に益するような取決めを決議しようとしても、なかなかまとまらず、進化しにくい世界になってしまいます。

勝ち負けの裏には、負けて悔しいとかみじめな思いをしている人が必ずいます。

やはり、誰かの否定的な思いとか不幸の上に成り立つ成功というのは長続きせず、究極的には本当の幸せをもたらしてはくれないのだと思います。

その闘いは本当に自分にとって意味があるか。自分を益しているか。本当にその闘いをしたいか。

これを心に聞いてみて、答えがノーだったら、肩の力を抜いて、思い切って闘うことをやめ、ありのままの自然な自分に戻ってみる。

これができれば、気持ちが自由になり、もっと楽に生きられるようになると思います。

 

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注意をそらすための世界

最近、ふと思ったのですが、世の中、テクノロジーが発達して便利になっているのに、昔よりも忙しく、時間がないように思われるのはなぜでしょうか。

昔は洗濯板で洗濯をし、かまどの火を起こしてご飯をたいて、井戸の水を汲みに行っていたのでしょうから、確かに毎日忙しく、大変だったでしょう。でもおそらく、今よりももっと、人々が現実に根差して生きることができていたと思います。

今は、洗濯機が洗濯をし、炊飯器がご飯を炊いてくれ、水道をひねったら水が出るので、時間も労力も短縮できているはずですが、現実を生きている人が少ないと思います。

つまり、生活が便利になった分、お金もかかるので、仕事に追われて、我に返って考える暇がない。余暇があれば、テレビやインターネットを見たり、ゲームに没頭したりして、今ある現実にいない。

今の社会は、現実から注意をそらすためには、恰好の場所だなあと思います。

現実から注意がそらされていると、今、自分の中に起こっていることに気づくことができません。

人間には、自分の魂が望む幸せな方向へと向かわせる、羅針盤が備わっています。自分の体が感じている感覚や、内面に起こっている感情は、幸せな方向に進むために、いつも信号を出して導こうとしています。(心や体の痛みも、実はこの信号なのです。)

けれども、息つく暇もなく仕事に追われたり、バーチュアルな世界に没頭していたりすると、それに気づくことができません。

そういう生活を続けていると、心や体が悲鳴をあげていても気づくことができないので、結果として、自分が心の底からは望んでいない方向に、人生が逸れていってしまうのは、まず確実でしょう。

自分の内側に起こっていることや、自分の生きている現実から目を背ける方法は、昔から、お酒や麻薬、女遊び、ギャンブル、買い物依存等、他にもたくさんありますが、近年の文明社会の在り方は、まさに気をそらすための手段の宝庫のようです。

そんな世間の風潮に流されないで、目の前にある雲や星を眺めてホッとしたり、テレビやパソコンを切って静かな時間を持ち、内観して自分に帰る時間を、毎日少しでも確保することは、とても大切だと思います。

 

 

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自慢話が快いとき

みなさんは、誰かが自慢するのを聞いて、不愉快になったことがありますか。

不愉快になったことがある人は、多いと思います。

それでは、自慢話を聞いて、不快な気持ちにならず、かえって快い気持ちになったことはありますか。

頻度は少ないのですが、私はあります。もちろん、不愉快になるもあり、その方が、頻度としては多いです。

その違いがどこから来るのか、なんとなく考えていて、思い当たった答えがあります。

ずいぶん前ですが、アメリカのどこか田舎のリゾート地に日本人の友人と旅行した時、入ったレストランで、ばったり、現地に住んでいる日本人女性に出くわしました。その人は私たちを見て大喜びし、相席で食事をすることになりました。そこで日本人に会うことが比較的珍しかったので、うれしかったようです。

彼女は食事の間、たいへんよくしゃべり、私たちはもっぱら聞き役でした。詳しいことは覚えていませんが、内容は、彼女自身だったか、彼女の夫だったかが、たいへん優秀で、一流会社に勤めていて、社会的・経済的に恵まれた地位にある、という話でした。

1時間くらいの間、聞かされたのは、主にその内容だけだった気がしますが、あんまり嬉しそうに無邪気にその話をするので、聞いている私たちも、快い気分になりました。

彼女と別れた後、一緒だった友人と、

「かわいらしい人だったね」

と言い合ったのを覚えています。

彼女は何歳だかしりませんが、当時まだ20代だった私たちよりも、少なくとも10歳以上は年上だったと思います。

それでも、私たちが、

「この人、自慢ばっかりして、うんざりする」

と思わなかったのは、彼女の中に、人を見下す気持ちが、少しもなかったからだと、今になって思います。彼女は単純に、自分だか夫だかが優秀な業績を収めていることを、喜んでいました。ただ、それだけでした。

私たちが、誰かの自慢話を不快に思うときは、おそらく話をする人の中に、人と比較して自分の方が優れている、自分は特別だという、優越感、裏を返せば、人を見下す気持ちが、潜んでいるのだと思います。そして私たちはそれに反応をして、不愉快になるのだと思います。

もし、優越感が話し手の意識の中に全くない場合、私たちは話し手の中に、邪気のない純粋な喜びの感情だけを感じることができるので(聞き手の中に劣等感があり、それを話し手に投影してしまう場合は別かもしれませんが)、自慢話は不快なものにはならないものだと思います。

 

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