盛岡心理カウンセリング・ハミングバード

ハミングバードは、心理療法カウンセリングのセラピールームです

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考察・気づき

楽に生きる方法

楽に生きるためには、闘うことをやめればいいのだと思います。

今の世の中、無駄に何かと闘っている人が、とても多いと思います。

時間とか、ノルマとか、成績や業績を上げようと必死になる、自分をよく見せようと奮闘する、少なくとも今はまだ変えられない状況を、なんとか変えようともがく、等。

今の「文明社会」では、競争を奨励し、人を打ち負かして自分が抜きんでることを良しとしています。社会全体のシステムや風潮がそうなっており、その概念は子供のころから植えつけられます。

このやり方で、確かに物質的には豊かな社会が、ある程度は実現するかもしれません。けれどもその反面、常になにかと闘うよう追い立てられているので、ストレスは甚大で、気持ちにゆとりがなくなり、殺伐とした世の中になるのは、見ての通りでしょう。

また、人と比較して優劣を決める思考が定着するので、人と人とのつながりが希薄になって分離してしまうことになります。人の心が互いに分離すると、方向性がバラバラになるため、例えば社会全体に益するような取決めを決議しようとしても、なかなかまとまらず、進化しにくい世界になってしまいます。

勝ち負けの裏には、負けて悔しいとかみじめな思いをしている人が必ずいます。

やはり、誰かの否定的な思いとか不幸の上に成り立つ成功というのは長続きせず、究極的には本当の幸せをもたらしてはくれないのだと思います。

その闘いは本当に自分にとって意味があるか。自分を益しているか。本当にその闘いをしたいか。

これを心に聞いてみて、答えがノーだったら、肩の力を抜いて、思い切って闘うことをやめ、ありのままの自然な自分に戻ってみる。

これができれば、気持ちが自由になり、もっと楽に生きられるようになると思います。

 

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注意をそらすための世界

最近、ふと思ったのですが、世の中、テクノロジーが発達して便利になっているのに、昔よりも忙しく、時間がないように思われるのはなぜでしょうか。

昔は洗濯板で洗濯をし、かまどの火を起こしてご飯をたいて、井戸の水を汲みに行っていたのでしょうから、確かに毎日忙しく、大変だったでしょう。でもおそらく、今よりももっと、人々が現実に根差して生きることができていたと思います。

今は、洗濯機が洗濯をし、炊飯器がご飯を炊いてくれ、水道をひねったら水が出るので、時間も労力も短縮できているはずですが、現実を生きている人が少ないと思います。

つまり、生活が便利になった分、お金もかかるので、仕事に追われて、我に返って考える暇がない。余暇があれば、テレビやインターネットを見たり、ゲームに没頭したりして、今ある現実にいない。

今の社会は、現実から注意をそらすためには、恰好の場所だなあと思います。

現実から注意がそらされていると、今、自分の中に起こっていることに気づくことができません。

人間には、自分の魂が望む幸せな方向へと向かわせる、羅針盤が備わっています。自分の体が感じている感覚や、内面に起こっている感情は、幸せな方向に進むために、いつも信号を出して導こうとしています。(心や体の痛みも、実はこの信号なのです。)

けれども、息つく暇もなく仕事に追われたり、バーチュアルな世界に没頭していたりすると、それに気づくことができません。

そういう生活を続けていると、心や体が悲鳴をあげていても気づくことができないので、結果として、自分が心の底からは望んでいない方向に、人生が逸れていってしまうのは、まず確実でしょう。

自分の内側に起こっていることや、自分の生きている現実から目を背ける方法は、昔から、お酒や麻薬、女遊び、ギャンブル、買い物依存等、他にもたくさんありますが、近年の文明社会の在り方は、まさに気をそらすための手段の宝庫のようです。

そんな世間の風潮に流されないで、目の前にある雲や星を眺めてホッとしたり、テレビやパソコンを切って静かな時間を持ち、内観して自分に帰る時間を、毎日少しでも確保することは、とても大切だと思います。

 

 

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自慢話が快いとき

みなさんは、誰かが自慢するのを聞いて、不愉快になったことがありますか。

不愉快になったことがある人は、多いと思います。

それでは、自慢話を聞いて、不快な気持ちにならず、かえって快い気持ちになったことはありますか。

頻度は少ないのですが、私はあります。もちろん、不愉快になるもあり、その方が、頻度としては多いです。

その違いがどこから来るのか、なんとなく考えていて、思い当たった答えがあります。

ずいぶん前ですが、アメリカのどこか田舎のリゾート地に日本人の友人と旅行した時、入ったレストランで、ばったり、現地に住んでいる日本人女性に出くわしました。その人は私たちを見て大喜びし、相席で食事をすることになりました。そこで日本人に会うことが比較的珍しかったので、うれしかったようです。

彼女は食事の間、たいへんよくしゃべり、私たちはもっぱら聞き役でした。詳しいことは覚えていませんが、内容は、彼女自身だったか、彼女の夫だったかが、たいへん優秀で、一流会社に勤めていて、社会的・経済的に恵まれた地位にある、という話でした。

1時間くらいの間、聞かされたのは、主にその内容だけだった気がしますが、あんまり嬉しそうに無邪気にその話をするので、聞いている私たちも、快い気分になりました。

彼女と別れた後、一緒だった友人と、

「かわいらしい人だったね」

と言い合ったのを覚えています。

彼女は何歳だかしりませんが、当時まだ20代だった私たちよりも、少なくとも10歳以上は年上だったと思います。

それでも、私たちが、

「この人、自慢ばっかりして、うんざりする」

と思わなかったのは、彼女の中に、人を見下す気持ちが、少しもなかったからだと、今になって思います。彼女は単純に、自分だか夫だかが優秀な業績を収めていることを、喜んでいました。ただ、それだけでした。

私たちが、誰かの自慢話を不快に思うときは、おそらく話をする人の中に、人と比較して自分の方が優れている、自分は特別だという、優越感、裏を返せば、人を見下す気持ちが、潜んでいるのだと思います。そして私たちはそれに反応をして、不愉快になるのだと思います。

もし、優越感が話し手の意識の中に全くない場合、私たちは話し手の中に、邪気のない純粋な喜びの感情だけを感じることができるので(聞き手の中に劣等感があり、それを話し手に投影してしまう場合は別かもしれませんが)、自慢話は不快なものにはならないものだと思います。

 

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